最後の時になにを想うのか。
相変わらず辞世の句にハマっている。
過去の偉人たちが遺した「人生最後の句」。それぞれの人生の中で成し遂げたかったことや叶わなかった夢、また清々しさや後悔の念など、五七五七々の単調なリズムにすべてが詰まっているのがなんとも魅力的だ。
もしかしたら詠んだ本人とは違う意図を汲み取ってしまっているかもしれないが、それもまた新たな発見で面白い。
こうだったんじゃないか、実はああだったんじゃないかとあれこれ想像してみるのも一興だろう。
今なら、小説や漫画、映画やドラマなんかでも偉人の足跡を辿ることは出来るのだが、どうしても時間がかかってしまう。しかし、この辞世の句はたった31文字で、それぞれの偉人たちが見てきた景色について思ったことを味わえるのだ。これこそ究極に理にかなったタイムパフォーマンスだろう。
そんな非常に魅力的な辞世の句なのだが、ハマった理由は他にもう一つある。
「人生とはなにか?」について、考えさせられるところだ。
「人生とはなにか?」という問いに世界中で研究や議論が行われているが、やはり、死ぬ前になにを思うのか?というところにすべての答えがあるような気がしている。
なにかを成し遂げようと必死にもがいた人は、死ぬ時になにを思うのだろう。
そこで、あらゆる辞世の句を書籍やネット上の文献や動画を漁りまくっていたところ、一つの答えにたどり着いた。
それは、「人生は実にシンプルなものである」ということだ。
例えば、僕の好きな辞世の句のひとつに新門辰五郎が詠んだ一句がある。
意味としては、「思い出すのは、まぐろの刺し身にフグ鍋、柔らかい女性の体と、酒の味」といったところか。
だいぶオブラートに包んでますけども。笑
なにかを成し遂げた偉人たちはみんな、生きる意味や使命、目的なんかをきちんと決めてそれを生き甲斐にしていたのかと思いきや、辞世の句を見てみると意外とそうでもないのかな、と感じることが多い。
むしろ、本当にシンプルに、人間の3大欲求である睡眠、食欲、性欲について思い出している句が多々あったりするのだ。
僕たちは、入組みまくって複雑になりすぎた資本主義社会において、やれ生きる意味だの社会に貢献するための目標だの、制度や風習に縛られすぎていて少々考えすぎているのかもしれない。
もちろん、社会に貢献することは立派なことだと思うが、過去の偉人たちが遺してくれた句が教えてくれるのは、「人生はもっとシンプルに楽しむものなんだよ」ということなのかもしれない。
その証拠に、それほどにシンプルなものに気付かなかったであろう偉人たちは、なんとなく後悔の念に駆られたような句を遺していたりするのだ。
僕たちは、本当はなにがしたいんだろう。
人間が一番生き甲斐を感じるのは、いつどの瞬間なのだろう。
一度、自分の3大欲求なんかと、それこそ真剣に向き合って忠実になってみるのもいいかもしれない。
そんなことを考えながらふと自分の人生を振り返ってみると、やっぱり「誰にも気兼ねなく昼間から酒を呑んでゆっくり昼寝ができる」という、本当になんでもないような時間が、この上なく贅沢なことに気づく。
あの時間の幸福感は、他のなにものにも替えられない貴重な時間のような気がしてくるのだ。
僕はきっと死ぬ時になったら、そんなことに思いを馳せるのだろう。
ということで、おやすみなさい😌
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