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「〇〇よりも〇〇について学校で学ぶべき」

「〇〇について学校で学ぶ"べき"だ!」とか、

「この話、絶対学校でもした方が良い!」みたいな意見ってたくさんあります。

でも個人的には、そもそもこういった「子どもは〇〇を学ぶ"べき"論」が根本的に間違っていると思えてなりません。

何に対して面白い!と思うかは、その人次第です。

私にとっては面白い憲法の話も、あなたにとってはつまらないかもしれない。

聞いてよかった、役立ったと感じる話も、他の人にとっては全く意味のないものかもしれないのです。

それを無視して、一概に「これは学校で勉強すべきことだ」と断じてしまっていいのでしょうか。

一番問題なのは、誰かの学習内容に、わざわざ介入しようとしていることです。

何に興味を持つかも、面白いと思うかも、人によって違えば、その人の自由なわけです。それに介入しようとするから、おかしなことになるし、今の教育の問題だって大半がこれが原因だと思います。

ただ、多くの教育者(教員、塾の講師、保護者、あるいは文科省すらも)はこの問題に全く気付いていないのでは。

介入そのものが問題なわけではないが、注意が必要

とはいえ、世の中の物事には学ぶにあたって適切な(効率的な)順番があるということは自明です。それは否定しないです。

ただ、「まずはAを教えて、それが理解できたらBを教えるべきだろう」というような考え方を強調しすぎることは、「学習者の自由」を奪う可能性が往々にしてあるのだということです。

だから、本当なら注意しなければならない。

「子ども」とは一般に学習権を行使する「主体」であるものの、他方で未成熟な存在であるという認識は広く共有されているでしょう。

未成熟だからこそ、学習をある程度カリキュラムにしたり、教育者が強制力を持たせて、自分だけでやれない子に勉強させる習慣をつける等々が推奨されています。

このように子どもは「保護」をする対象でもあります。

しかしながら、先ほども書いた通り、子どもは学習権を行使する「主体」でもあり、「自律」する存在でもあるのです。

自律する存在としての子どもの「これについて学びたい」を尊重する方が、「子どもに〇〇を、このように学ばせるべき」という価値観よりもよっぽど重要だと思います。

カリキュラムを決める人の主観が絶対入る

「学校で〇〇について教えるべき」という主張の裏には、カリキュラムを決める教員・教育者の主観が必ず入ります。

その人が過去に学んでいたこと、何を重要だと感じたのか、どのような人生を送ってどのような知識が活用されたのか。

そういう経験の中から導き出される「〇〇は学ぶべき」という主張は絶対に偏っています。偏っていないわけがないのです(誰が決めてもそうです)。

そのような「経験」や「人は何を学ぶべきだと感じるか」は人によって全く異なるものでしょう。

(それを一様に生徒に学ばせることはエゴとも言えるかも?)

いずれにしても、私は介入を全て否定しているわけではないのです。

ただ、介入を良かれと思ってやっている教育者が極めて多いことと、そのような行為の構造的な問題に気づく人が1人でも出れば良いなと思うわけです。


おまけ

国家教育権説に対する批判についても同じような論理が適用できる気がします。

それに教育権闘争は教員が教育内容を決めることは良いことという主張も多かったですが、それこそまさにこの記事で批判したことと重なりそう。



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