融けるデザインを読んだ。

渡邊恵太さん著の融けるデザイン「ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論」を読んだ。そのまとめを章ごとに殴り書きで感想と共にまとめていく。

第1章 Macintoshは心理学者が設計している

最たる第1章の名前は、「Macintoshは心理学者が設計している」というものだ。新しい設計論としてはまぁいい感じのタイトルではないかと思った。が、、、この章では、結局自分自身が書きたい設計論はこのようなものであるということを長々と書いていただけのもであった。
メタメディアである抽象的なコンピューターを消費者に使えるものと示すためには、メタファーを使うしかなかった。作曲ができる、計算ができるなど一般人が価値を理解するところまで持っていかなければならなかった。要はなんでもなれるコンピューターを何かの箱に閉じ込めておくしかなかったのだが、今日Twitterやフェイスブックなど現実世界のメタファーでは言い表せられないサービスが出てくるようになった。その流れで、体験を軸にしたメタファーなしの設計を試み始めたらしい。
もともと何にでもなれるメタメディアであるコンピューターらしいながれであると読んでいて感じたが、第1章で長々説明しなくてもいいんじゃないと思った。
ただ、この本に書かれていることは、デジタルも現実も混ざり合いながらサービス・体験を提供していくという点でアフターデジタル的な考え方の先駆けであると感じた。

第2章 インターフェースとは何か

このインターフェースとはな何かについては、筆者はこのような一文を残している。インターフェースとは「ものと人との境界面」私もそう思った。しかし問題はそこではない。
人類が進化してきて、技術が進歩するにつれて、人と対象物との情報的距離が道具によって遠くなっていることに人類は気づいた。なぜ遠くなるとダメなのかというと、コントロールがしづらくなるからである。そのため、同義に透明性を持たせることで、問題が生じた時にも何が起こっているか自分で理解ができているから修理もしやすいということになる。
透明になりながらも力を使えるという利点をデザインに取り入れないはずがないと筆者は言っている。
そしてもう一つ、環境の透明性にも書かれており、IOTやその前身であるユビキタスコンピューティングの考え方は、人間が意識しなくても使える技術を作るところに端を発していることを言っており、それはプロダクトデザイナーである深澤さんだったたりギブソンの生態心理学で語られていることからも学び取れる話であると書いてあった。
で話がごっちゃで何いうてるかわからんかったからなんと無く理解したところだけ言うと、「道具を使って対象物とインタラクションすることであらたな可能性を感じ次の行動につながる、そのインタラクションと可能性の生成の循環こそ体験」であると筆者は言ってるんじゃないかと思う。が、だからなんやねんて話やねんけど、
もともとインタラクションデザインを勉強したくてこの本読み始めたから、なんとなくインタラクションデザインとUXデザインの関係性が理解できたいい章やったと思う。
ほんでやで、インタラクションが生まれるところで体験がうまれると筆者は言うてるんやけど、そのインターフェースの道具の透明性を作るには何が必要かって話なんやけど、やっぱり人間に生活とか文化的な行動に根ざした方がいいよねっていうのがあってエスノグラフィーとして人の生活を見て設計していかなければなならないよねっていうのを言ってましたんや。
インタラクションデザインで重要なのは、人とものとの関わり合いだから、その人たちが普段その物との関わり、道具と対象物と人の関係を見ていくことが重要なんだと今書いてて思った。
その自然に道具を使う。いや道具を使っているともわずに対象物に影響を与えられるものを作ることが重要。

第3章 情報の身体化ー透明性から自己帰属感へ

道具の透明性の正体は動きの連動がもたらした自己帰属感ではないかという。話を長々と実験した話と合わせながらいうてるのやけど、つまりは、自己帰属感って気持ちいっていう話をしたかったらしい。 
道具は体験を拡張し広げるこれがUXデザインであると言っており、その拡張において物質的であるかどうかは関係なくむしろ情報的な非物質の方が質量を伴わないため道具の透明性としてもいいのだ。

しかし、道具が透明性を帯びるにつれて自己帰属感というものも無くなっていくのではないかという疑問も自分は持った。要は、自己帰属感とは自分とその道具との境界をしっかり意識しているからこそ起こる物だと思うのだが、それが日常に溶け込むとそこが曖昧になって自己帰属感というものは徐々に消えてしまうのではないかという考えだ。
私の中では、自己帰属感を直に感じずに無意識に感じるデザインをすべきだと思った。自己帰属感は大きく分けて二つあると思う。思った通り感とサクサク感だ。思った通り感とは、「この情報を得るためにはこのボタンを押せばいいのだな」「やっぱりそうだった」というように、ユーザーが仮説をたててサービスを使いこなしていくというものだ。最初は、これは意識的に行われるがユーザーは学習するため、それが当たり前になり思った通り感は、徐々に無意識の領域に達する。そしてサクサク感は特には技術的なところで、ロードが速いなどに相当するが、自分の思った通りの速さで動いてくれるとユーザーは自己帰属感を得られる。ここは直に自己帰属感を得られるところであるがすぐに使い慣れるとすぐに無意識の領域に達する。
そのため、私たちデザイナーがやらなければならないことは、情報設計なりマイクロインタラクションなり、UXライティングなりユーザーが確実に近い仮説を立てて行動できるように設計していくことが重要なんだと感じている。

第4章 情報の道具化ーインターネット前提の道具のあり方

この章は、まじで筆者の作った実験グッズの話ばかりなんやけど、アフターデジタル的な考え方で色々なところに情報があるからそれを利用してユーザーに使えるような形でサービスを提供するようにしていこうっていうスタンスが見て取れるよね。
というか、もうこの波は来ることは決まっていたかのような気もする。だってユビキタスコンピューティングもIOTもいわばそのようなものやし、そこから得られた情報は別の製品にも生かされててきなものはすでにあったやんて少し考えたら話が繋がったよね。

第5章 情報の環境化ーインタラクションの基礎

この章では、ネットに繋がっていることを前提に情報とコンテンツと人の接点をどのように作るかに迫るっている
で、インタラクションデザインはいままで、パソコンなどの持ち運べないものばかりであったため、つまりシングルインタラクション的であったためにその道具視点からの設計でよかった。
だけど、マルチデバイス時代になって色々なところから情報を得られるようになったこの時代では、より人間の生活を中心に考えた設計が必要だよねっていうのを筆者は言うている。
行為・活動に融け込ませるデザインとは何かという話で、ギブソンは、動くということは動物の本質であり常に動いているという話をしている。なんか、他の心理学分野とは逆の考え方らしいねんけど、ギブソンは動き続けてるからこそ環境を知覚できるし、ユニークな環境を露にするし、それと同時に自己の存在も露にするよねっていうてて何いうてんねんと思ってんけどつまりは、動物も人間も生きてるうちはいろんな環境を近くし続けているから、常に情報を得る準備はしてますよっていう話で、あとは、その生活に自然な形で情報を知覚できるように配備、デザインしていくことが重要だよねっていうことを言いたいのだと思う。しらんけど。
で、ずっというてるんやけど、道具視点からのインタラクション設計だと、人間が道具のスタイルに合わせるようになっていて自然ではないから、つまりアクセスするという考え自体が根源なんやけど、その何かを使おうアクセスしようっていう感覚さえもなくさせるような設計が必要なので生活に人の行動に軸を置いた設計が必要になってくるらしい。で、筆者はその例としてCastOvenという暖めてる時間に合わせた、動画を載せるようにしたオーブンを開発したんやけど、確かに温めるのを待つユーザーはつまらないその末という時間を利用するのは、自然な流れでの情報の提供やしユーザーがわざわざアクセスしてる感はないよね。ただ、ここには自己帰属感とかないから前の話はなんやったんやろとか思う。
ここで言いたかったのは、どんなに面白いコンテンツでも時間がなければ、優先順位が落ちるということらしいわ。
言わずもがなやけど、道具やメディアというものは時間を奪うことで対価を提供している。そんなん当たり前の話やけど、もともとは、テレビとか音楽プレイヤーとか別々のプロダクトで別々のシーンで切り分けられて使われるつまりは拘束することを前提に作られてきたけど、マルチデバイスで、スマホでもタブレットでも音楽は聴けるし動画も見れるようになった時代には、そのデバイス一つでその人の時間の大半を奪うと考えると、もっとそこに配慮していかないといけないよねっていうのを著者は言いたいんじゃないかな。やめれないようにするのではなく、すぐにやめて別の行動を行えるようにする、切り替えのインタラクションをより楽にしたりすることも重要になってくる。ほんで、設計者は、ユーザーの時間を奪っていることを前提に、その時間をどのように扱うのかにも焦点を当てて配慮していかないといけない。
筆者は時間という基準もコンテンツを選ぶ価値の一つになると言っているけど、まさにそうやと思う。インスタグラムのショートムービーとかストーリーとかvineとかTiktokはまさに短い時間で情報を得られる、暇つぶしができるという点でユーザーに選ばれやすいのだと思った。
そうおもったら、時間を小分けにしてうまく時間を使っている感覚も一種の自己帰属感なのではないかと思うようになった。
サクサクできて、思ったように動いて、瞬時に恩恵を受けられるサービスがユーザーにとって価値あるものになる。元来速さというものは、人にとって重要やった。早く移動する早く伝達するというのはものすごく価値を感じやすいのだ。時間をうまく使っている感覚、効率・スムーズなどのことばで言い表せるが、それも自己帰属感として重要な指標になる、それはサービス内だけでなくサービス使用後次のアクションを起こす流れも大事になってくるということだと思う。
サービスはユーザーの生活のごく一部であることを心に留めておかなければならないし、それは、流れているということも知っておかなければならいと思った。
人生という巨大なプラットフォームで他のサービス・活動とどのように共生していくのかを考えるためには融けるデザインが必要なのだ。
結局融けるデザインってなんなのかっていう話をすると、人間の生活の流れを邪魔せずに自然に使えるインタラクションをデザインすることなんやと思う。

この本を読む前は、融けるデザインってスムーズにUIを使うことやろっていうUIベースでの考えでしか解釈してなかってんけど、見てみるとUXとインタラクションの分野で話が展開されていて、体験設計の思想の話やったっていう。まんまやねんけど。

第6章 デザインの現象学

デザインをインターフェースとしてとらえることが大事だよっていうてて、インターフェースと捉えることってつまりどういうことかというと、デザインをシステムとしてとらえることと筆者はいうてるんよね。何いうてるかさっぱりなんやけど、まぁ一貫して言いたいことは、環境との関わりも見ていかないと人間の生活に自然に溶け込むようなデザインをすることはむずかしいよねっていうことなんよね。
で、先に考察したように生活もまた流れであるというところから、ものも持続しておりそれは同時にリアリティーを生み出すのであるが、いいたいことは、人間は常日頃から環境情報を積極的に利用しているから、普段人間が積極的に利用しているインタラクションメカニズムを知ることは設計することにおいて重要だと言っている。ほんで、インタラクションを設計するということは、生み出したり、作るというよりも、その持続するものと環境と人とのインタラクションを調整する作業であると筆者は語っている。
確かに、そうだと思う。必須でないプロダクトを作っても使われないのはそういうことなんだと思う。流れにそぐわないから。私は、人間と環境のメカニズムを学ばなければならない。


以上。7章とかあったけどこれからどうなっていくのかっていう話だったので無視した。考察としては面白かったが、気分が下がりそうだし、あんまり興味深い話をしてなかった。悪いですけど。
まぁでも、バウハウスがデザインの要素を定義してくれたので、そこに立ち返ってインターフェースをデザインし直すのも一つ手なんかなとか雑魚い知識ながらに思ってました。

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