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デザインの原点、バウハウスとは何か|非美大卒が0から造形を学ぶ#10

こんにちは!2年目UI/UXディレクターのyunです。

一度は学んでみたかったけど、なかなか手を出せなかった美術やデザイン。
文系大卒社会人が初めて学び、生じた疑問、感想を毎週投稿。なんでもありの備忘録。

今回は「非美大卒が0から造形を学ぶ」シリーズ第10回。それではスタート!


バウハウスとは何か

バウハウスとは何か?この問いに答えることは難しく、今まで何冊も本が出版されるほどです。第一次世界大戦直後の20世紀前半、ドイツに14年間した存在しなかったバウハウスは、今や現代のデザインの原点として多くの人に知られています。

バウハウスは1919年にザクセン大公立美術工芸学校と同美術アカデミーを併合し、ドイツのヴァイマールに誕生した新しい国立学校です。その後14年間に3回の移転、学長の交代をしています。

授業を担当するマイスター(親方)も入れ替わっており、ヨハネス・イッテン、オスカー・シュレンマー、パウル・クレー、ワシリー・カンディンスキー、ラスロー・モホイ=ナジ、ジョセフ・アルバースなど19,20世紀を代表する錚々たるメンバーが集まっていました。

そのため、バウハウスで生み出されたものは様式(スタイル)として一括りにすることはできません。それまでのアカデミックな美術教育とは異なり、基本の造形から向き合い新たな時代に求められる美を探求する壮大な「試行」だったと言われています(初代校長グロピウス時代は特に)。むしろ産業革命により急速な近代化が進む時代背景の中で生まれた社会運動といえるのではないでしょうか。

デザインが生まれた瞬間

大量生産・大量消費社会に対するアンチテーゼとして、19世紀にイギリスのウィリアム・モリスはアーツ・アンド・クラフツ運動を主導しました。この運動は安価な粗悪品の流通に対し、「生活に必要なものは美しくあるべき」という立場のもと手仕事への回帰を目指しました。産業革命以前は、職人と呼ばれる専門職の人々が生活に必要なものを手仕事で作っていたのです。モリスの運動は、結局美しくも高価な品になってしまい一般の人々に届くことはありませんでしたが「手仕事」か「機械化」かという大命題へ最初の取り組みだったのではないでしょうか。

バウハウスはそんな時代に生まれました。まさに現代、すなわち大量消費社会の始まりにおいて、芸術と人々の関わり方を見直す必要性があったのです。ここでいう芸術は中世の貴族のためではく、国や身分を超えて誰もが共感できる美しさになります。

バウハウスに入学した従弟(学生)は基礎教育の中で、造形、色、美しさという基本に立ち返り学びました。この教育が今までのアカデミックな芸術とは異なり、全く新たな造形美を生み出す原点であり、活気的な取り組みだったのではないかと思います。

バウハウスにおいて、まさに現代でいうデザインに取り組む姿勢が明確になったのは1923年(開設から4年後)の大バウハウス展の開会記念公演といわれています。初代校長のヴァルター・グロピウスは新たな指導理念「芸術と技術-新しき芸術」を発表し、芸術と技術と結びつける姿勢が宣言されたのです。このことを「バウハウス 歴史と理念」では以下のように称しています。

この方向転換は決して手工芸の軽視を意味しない。基礎的造形手段としての手工芸の重要性を認めた上で、新しき機械時代に即応した手工芸の新しき意義を追求するうちに、芸術と技術の新しき統一という命題が出てきたのであり、そこには必然的発展が見られるのである。・・・この時期からバウハウスは、現代の流行語で言えばデザイン、特にインダストリアル・デザインの教育及び実践の期間としてユニークな展開を示すのである。

バウハウス 歴史と理念

まさにこの本を読んでいて、今に繋がるデザインが生まれた瞬間だと感じました。

バウハウスの功績

ここからはバウハウスが現代に残した功績だと思うものを、2つ紹介していきます。※初学者の個人的な意見です。

①基礎教育課程の設置

バウハウスのカリキュラムは「基礎教育」から「工房教育」、そして「建築」へという3段階で構成されています。


1922年のバウハウスの教育カリキュラム図(「学校便覧」より、1922)

これはバウハウス設立時のグロピウスの宣言、「あらゆる造形活動の終局目的は建築である」に基づきます。その上で、「芸術はあらゆる方法を超越したところに成立し、それ自体おしえられぬが、しかし手工芸は違う。建築家、画家、彫刻家は言葉の本来の意味において手工芸家である。それゆえあらゆる造形的創造の不可欠の基本として、研修者にはみな工房や試験場や作業場での基本的訓練が要求される」と述べています。

入学者全員が受講する基礎教育の設置、さらには講師を色彩論で有名なヨハネス・イッテンや抽象絵画の巨匠であるパウル・クレーらが担当したのは活気的だったのではないかと思います。

造形の基本に立ち返ったからこそ、「手仕事」か「機械化」という大命題に取り組むことができたのではないでしょうか。基礎教育を担当したジョセフ・アルバースの著書「配色の設計」について以下の記事で紹介しているのでぜひ!

※現在DIC川村記念美術館で「ジョセフ・アルバースの授業 色と素材の実験室」と題して企画展も開催されています。

日本では桑沢デザイン研究所が、日本で最初のデザイン学校としてその意思を引き継いでいます。

②普遍的なデザインの探求

バウハウスとの関わりの深いデザインとして、よく知られているものとしてはマルセル・ブロイヤーの「クラブチェア B3」や「サイドチェア 301」でしょう。彼はバウハウスで学び、後にユングマイスター(家具工房の親方)として教鞭をとりました。「クラブチェア B3」は彼の私的な研究で生まれたようです。

「クラブチェア B3」<1927年-1928年>
「サイドチェア 301」 1932-34年

またグロピウスが設計した「デッサウ・バウハウス校舎」はその後の学校建築に大きな影響を与えています。

今では当たり前ですが、ガラスが多用された外壁は当時画期的でした。もちろん家具は家具工房のマルセル・ブロイヤーが手がけました。

現在は世界遺産に登録されています。宿泊施設や展示スペースとしても利用されているようですので、ぜひ一度訪れてみたい場所です。

まとめ

現代ではデザインという言葉は、より広義な意味で使われています。造形美に限らず、例えばデザイン思考やUI/UXデザインなど課題解決の手段やプロセスを総称して、デザインと呼んでいるケースの方が多いでしょう。流行のWebデザインもわずか20数年で発展してきたものです。

技術の発達は目覚ましく、新たな技術が生まれるたびに我々はバウハウスが直面した技術と芸術の統一という命題に直面するでしょう。さらに今は大量消費社会の次、持続可能な社会の在り方が求められています。その時代背景のもとであるべき造形美(単なる使いやすさだけでは足りないのだ)を考え続けることが、今もこの先もデザインに求められているのではないでしょうか。

参考文献

①バウハウス―歴史と理念 (1970年) 

②もっと知りたいバウハウス

③バウハウスとはなにか

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