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「言葉にできない」こと

誰しも、なかなか言語化できないという経験があると思います。当然のように、あまり具体的に言語化していないし、そもそも試みたこともないようなこともあります。たとえばコツ。たとえば癖。たとえば心地よさ。

たとえばコツは、どういう理屈でなら説明できるのかどういう理屈でなら伝えられるのかがわからなくても、いつも実践できてしまうことですから、伝える必要ができるまでわざわざ言語化しないものです。むしろ言語化しないから実践できることかも知れません。

それから癖は、自覚していてもどうしてやってしまうのかを説明できないことも多いでしょう。自覚していなかったらなおさら説明できないでしょう。

心地よさは、心地よいことは説明できても何が重要なポイントなのかは明確に説明できないことがあります。たとえばふわふわな触感がポイントだと説明してみても、別のふわふわと比べると何かが決定的に違っていたり。

そういった言葉にできないことでも、どうしてか「あるとき突然」ぴったりくる言葉が見つかることもあります。でも、頑張って探したら必ず見つかるかというとそうでもありません。

そういうとき、「言葉にしてくれないとわからないから言語化してくれ」と言われてもできません。ひどく難しいのです。まず何を言語化すべきで、何を省くべきかもわからない。全体でひとつのもので、切れ目がわからないからです。語彙が少ないからかも知れませんし、語彙が多くてもわからないかも知れません。

でも、当人にとってデマカセではありません。何らかの勘違いや迷信の可能性はあるかも知れませんが、ともかくも実感がある。あるいは実践的に役立っている。ですから当人には疑いようのない信憑があるのです。だからかえって難しい。疑えない信憑があるにも関わらず、納得してもらえる説明ができないという難しさに直面するわけです。

とはいえ、その説明を待っている方としてはそれでは何もわかりません。つい、「言葉にできるはずだ、努力が足りない」とか「説明できないならその知識や意見には価値がない」とか「言葉にできないなら考えていないのと同じこと」とか言ってしまいたくなるかも知れません。

もしそんなことを言われたら、言われた方はきっと失望するでしょう。自信を失くすかも知れません。でも、もしかすると言葉にできないことは、言語化の能力的な問題ではないかも知れません。コツを掴んだ人でも、もしも言語化に優れていたら、理屈が先行してしまう分だけ「全体でひとつ」の何かに気づいたり習得できたりしていないかも知れません。癖として現れた心の問題を明瞭に言語化できる人の方が少数ということもあるでしょう。心地よさを分析的に論じるには研究が必要ということもあるかも知れません。

つまり、そもそもその場で言語化するのは無理ということかも知れないのです。「あるとき突然」が来ない限りは。

なのに、無理に言葉にさせようとすると何が出てくるのでしょう。それはぴったりくる言葉でしょうか。本当は違和感があるけどこう言えなくもない…という程度の言葉かも知れません。そうだとしたら、つまり、もしも本当はぴったりこない言葉だとしたら、その言葉は何を指しているのでしょうか。何もない虚空を指してはいないでしょうか。まさにデマカセ(出任せ)です。

言葉にできない。このことの重みや深みを軽んじた先にあるのは、わかりやすく、そしてひどく軽い答えではないかと思います。

当人のぴったりくる言葉を待つ。それは待つ方にとって無駄な時間に思えるかも知れません。でも、間に合わせのために無理に出された空虚な言葉に惑わされるよりよっぽどいいと私には思えます。

対話は、空虚な言葉の応酬ではないはずです。その人が本当に語りたいことではないことを語ってもらっても、たぶん気持ちのよい対話にはならないのだと思うのです。だから急いで納まりをつけるような時間に追われた対話になっては、元も子もないと思うのです。

語る方も、自分の思いを精確(精密かつ確実に)に言葉にすることを妥協していては、伝えたいことを伝えられないと思うのです。きっと「言葉にできない」ことにこそ、伝えたいことの本質があると私には思えるからです。

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