気管切開した新生児と、1歳半のゴールデンレトリーバーと

緊急帝王切開にて出産しました。
赤ちゃんにやっと会える!と思った手術中、私たちの赤ちゃんは、泣きませんでした。

手術室には時計がありますが、スタッフのための時計は患者(=私)から見える位置にはなく、赤ちゃんが泣かなかった時間は永遠のように長く感じました。
出生直後に処置が必要な赤ちゃんは、母親から見えない場所で、羊水を拭き取って保温してもらったり、肺に溜まった羊水を抜いて呼吸をたすけてもらったりします。
たいていは処置のあと、赤ちゃんの状態が安定したタイミングで、母親がその姿を見て、胸に子を抱っこしたりすることができるのですが、私たちの赤ちゃんは待っても待っても見せてもらえない。これはただごとではないことはすぐに理解しました。
私の頭上には麻酔科医と手術室看護師が立ち、全身管理をしていました。私にはその人たちしかコミュニケーションできる相手がいないので、何度も、赤ちゃんはいまどうなっているのか、どんな姿で、何をされているのか教えてほしいとせがみました。
「いま赤ちゃんがんばっていますよ」「お母さんのほうはもう傷を閉じていっているところですよ」と言ってくださる。医療者として最善の言葉だということはわかるんです。わたしがスタッフだったら、きっと同じように患者に応えます。でも私が聞きたいのはそのことじゃない。いま、へその緒切って何分経ってるのか、口からの吸引や気管挿管で補助すれば泣くはずなのに、いまだに声が聞こえないのはなぜなのか、手術室に急に人員が増えたのはどういう意味なのか。それを全部説明してほしかった。でも、そういうことを、全てを説明したら、私が崩壊すると判断されたんでしょう。

その後、手術室で小児科医、小児外科医がやってきて30分呼吸が止まっていたこと、脳にダメージがあるかもしれないことを説明されました。赤ちゃんの緊急気管切開については、手術室で説明されたのか、病室で説明されたのか、記憶が曖昧になっています。

麻酔で完全に自分のものではなくなった身体をストレッチャーに移され、ああ私は赤ちゃんを抱いてあげられなかったと思ったとき、だれかが「赤ちゃん、お母さんと会えるよ」というようなことを言い、私は赤ちゃんのそばに運ばれて、赤ちゃんの右手と私の左の人差し指が手を繋ぐことになりました。「ごめん、苦しかったね、でもがんばった、、、」これが、我が子が初めて聞いた母親の声です。いま思えば、どんな状況であれ、おめでとうと言ってやればよかったと思います。赤ちゃんは、肌はピンク色で、手足はしっかり動いて、握力もあり、泣くときの顔をしていました。
そのとき新生児科の医師と思われる人が必死に私に向かって何か叫んでいましたが、音として聞こえていても意味が入ってこない状態になりました。表情と声の必死さから、赤ちゃん頑張ってくれてよかった、すごいことだよ、みたいなことを言っていたんだと読み取っています。

その後、ストレッチャーで運ばれる途中に廊下で夫の顔を見て、ほっとした気持ち99%、夫は赤ちゃんを見てショックを受けるだろうかという気持ち1%の状態になり、麻酔から覚めて自分の身体を取り戻すなかで、私は夫に何をどう説明しようかと言う気分がぐるぐるしながら、結局赤ちゃんについては「30分、息できなかったって聞いた、、、」とだけ言い、やがて疲労に飲まれ眠ったのでした。

私の退院を翌日にひかえた今日、我が子が手術を受けているあいだに、私を担当する看護師が気管切開後の赤ちゃんの退院後の生活について話してくれる時間がありました。もちろん、個別的なことは手術・検査などなど乗り越えてからでないとわかりませんが、一般的なことをわかりやすく、丁寧に教えてくれました。
この人なら、と思い、「大型犬と暮らしているが、我が子は一緒に生活できるか」とはじめて質問できました。
結論からいうと、気管切開した子でも、そうでない子と同じように、大型犬と暮らせます。人工呼吸器が必要な子でも同じです。
子どもと大型犬が一緒に暮らす場合に気をつけることは、事故予防と感染予防であって、それは気管切開や人工呼吸器に関係なくみんな同じことだと、そう言い切ってくれました。

もちろん、呼吸器の回路が外れることを未然に防ぐ環境整備が必要になるし、気管切開した子は呼吸器感染を起こすリスクが高いので、より一層感染予防に注意が必要ではあります。
また、アレルギーがあれば別の角度からの配慮が必要になると思います。

その看護師さんの言葉ですごく良かったのが、「いまの家族の生活のなかに、〇〇くん(我が子)を迎えるスタンスでいきましょう。〇〇くん第一で考える気持ちはよくわかるけど、いまの家族の生活も大切にして。がらっと変えなくていいんですよ」というものです。

続けて、人工呼吸器を2台レンタルする方もいる話とか、大きなベビーカー(バギーとも)に人工呼吸器を積んで生活するんだよ〜という今後の生活がイメージできる話をしてくれました。
つまり、1階と2階に人工呼吸器を設置すれば行動範囲は制限されないし、大きめのベビーカーで愛犬ラナと一緒におさんぽすることもできるってことですよね。

この入院中でいちばんと言っていいほど、とても勇気づけられる場面でした。人間は生活する(単に生存するということではなく、「生活」する)主体なんだなあと改めて思いました。

夫は、この1週間不安でいっぱいだったと思います。子はしばらく医療的ケア児として生活することになるし、
なにより、価値観の軸にある愛犬ラナとの生活が今後どうなるかわからなかった昨日までは、引き裂かれるような思いで過ごしていたんだろうと思います。
毎日ラナと過ごし、子と過ごし、私と過ごす目まぐるしい生活のなかで、先が見えないとなれば、ふつうは気持ちが追いつかないですよね。

今日の担当看護師がこの人でよかったと思いました。感謝してもしきれません。
看護って、いいよね。