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大阪夏の陣――代替定理は代替できるか?

産業連関論におけるサプライチェーンの位置づけ

ワイの人生とも学問とも恐らく無縁であるが、数理経済の研究会に呼ばれて大阪へ。「少しは会に貢献せんと」と思い、中瓶の日本酒を2本ほど買ってぶら下げて行く。森ノ宮まで遠回りしたせいで遅刻し、最初の発表者の報告が始まってずいぶん経っていた。

最初から最後まで数学的な証明なので素人に解るわけがない。そもそも問題設定からしてピンと来ない。サンギョウレンカンロンにおけるチュウカンザイが問題らしい。論文の書き出しにこうある。「中間財部門が経済において占める割合は大きい」。GDP 549兆のうち、中間生産部門総額が469兆とする総務省のデータがあるそうだ(2015年)。はたしてチュウカンザイとは何ぞや。

たとえば iPhone の生産においては膨大な部品の調達と生産が必要とされる。半導体をはじめ、タッチパネル、バッテリー、スピーカー等々が強固なサプライチェーンを形成している。同様のことが他のあらゆる産品に言える。これら一切を「中間財」と見なすなら、経済活動のほとんどがその生産に占められることになる。

世の中には実に無数の産業がある。お前ら勝手にやっとれ!と言ったら一国の経済にしても、グローバル経済にしても成り立たない。実際のところ過去の放任経済は致命的なカタストロフを招いてきた。

産業全体の連関構造を調べ、これをいわば表にして見やすくする。その全体の動向を捉え、可能であればコントロールする。それがマクロ経済学の野心である。

このジャンルでもケインズが始祖ないし中興の祖のような役目を果たしているらしい。スマホでググりながら、なるほど!いかにもケインズが目を付けそうな仕事だと合点が行った。マクロ均衡の核心にある問題だ。森嶋通夫に同じ主題の著作があるのも頷ける。

これらサプライチェーンには無数の部門があって、それらが産業として統合される、いや統合されねばならぬ。とするなら、それら各々のセクターは合理的な選択をしていると言えるか。それらを合理的な選択をする「企業」と見なせるだろうか?――むろん見なせないと困ってしまう。経済的合理性が存在しないことになってしまうからだ。

こうした幾つものサプライチェーンが一定の経済的均衡を成しているのは事実である。それは経験的に言って間違いない。他方で、実体経済が多部門より成るのは自明である。とすれば中間財のサプライチェーンの網目と、多部門経済との関係性が問われることになる。両者の間にマクロ的な均衡と整合性が見出されねばならない。今のところ何とかなっているから、今後も何とかなるはずだ、ヨシ!というどんぶり勘定では済まない。途方もなく巨大な資本が動いているのである。

こうした問題意識から産業連関論は出発している。それによれば、上記の均衡と整合性は見出すことができ、構築できるとされる。この見込み、ないし仮定を踏まえるとき産業連関論においては「代替定理」が金科玉条とされる。が、一般均衡論におけるサプライチェーン経済の位置づけは曖昧なままである。これを数学的に厳密に証明したい、というのが報告者の動機である。

代替定理とはなんぞや

以上は彼の報告を私があらためて日本語に「翻訳」したものである。実際には一切が複雑極まりない数式と計算により論証される。ところが報告者ご本人が、自分の書いた式の意味が途中で解らなくなったり、計算間違いや書き間違いが見つかったりして、そのたびに立ち往生される。はなはだ心許ない。手持ちぶさたで、外国語を調べる時のようにスマホで関係する用語をググっていた。すると、この「代替定理」というやつがいかにも怪しい。

色々と産業はあっても、これでなければ立ち行かないという技術はめったに存在しないはずである。多くの場合、技術は代替可能である。にもかかわらず、各自がてんでバラバラに好きな技術を採用することなどほとんどない。それでは産業構造がぐらついて立ち行かない。「結果として」その可能な選択肢から各産業に同一の技術が採用されるのが常である。思えば、これは不思議な話だ。というか、それって本当か?

レオンチェフモデルなるものによれば、技術は色々あれど、労働力の調整によって代替定理はバランスを保つとされる。技術にかんする係数は一義的に保たれねばならず、それを調整するのが労働力の役割である。しごく当たり前のように定義されているが、そう好きなように「調整」されるのではワイらのような底辺労働者には堪ったもんじゃない!

技術の進歩においては競争が常である。iPhone やスマホなどの情報機器、ひいては情報産業に典型的に見られるように、新しい技術は新しい市場を開拓し席捲する。消費者はそれに目を奪われる。そんな活発な市場には新しい参入者が常に現われる。

イーロン・マスクにより「エックス」化した Twitter のお株を奪おうと Threads が登場するようなものだ。尤も後者は十分な支持を消費者からいまだ得られておらず、プラットフォームとしての Twitter の魅力と価値にはかけがえのないものがある、と言えそうだ。

過去の石炭産業は石油産業に取って代わられた。石炭採掘夫たちの多くは失業した。代わって石油産業に労働力が集まる。目下、ChatGPT などの生成AIの発展により知識産業の構造も変わろうとしている。事実大きく変わるだろう。その度ごとに労働力の投入先も遷移する。

技術の進化の基礎には科学的知の創発がある。逆もまた同様だ。技術と科学知は密接に結びついている。古くは微分法におけるニュートン・モデルとライプニッツ・モデルが競合し、前者が勝利を収めた。これはまさに近代の本質を象徴する出来事だったと言えそうだ。

近代における新しい技術と知の台頭において、それが「市場」でいかに受け入れられるかが肝要になった。その技術や知が本当に優れているか、便利であるか、そうした真理問題は二の次である。実際にはライプニッツ・モデルのほうが優れていたと見る向きも多い。にもかかわらず、一般に受け入れられたのはニュートン・モデルだった。

私どもの世代だとビデオテープの規格争いにおけるVHSとベータマックスの一騎打ちが思い出される。勝利したのは前者だったが、今となってはビデオテープの市場自体が廃れ、消滅してしまった。

近年では Windows と Mac OS の仁義なき戦いが記憶に新しい。ひと頃は前者が勝利を収めるかに思えたが、iPhone をヒットさせた後者が持ち直して、いまは棲み分けが成立している。

類例を挙げればきりがない。現代における技術の進化と変化はかくも著しい。いずれにせよ、市場における権力闘争においてプラットホームを構築し、多数を握ったものが勝つ。多を支配せねば生き残れない。その意味で、技術の覇権は政治的なものである。

代替定理が成立しているように見えるのは、労働力の調整という過酷で政治的な問題を変数として計算に入れていないからだ。技術の成否は必ずしもそれが真理であるか否かでは決まらず《政治》によって決まる。それは消費者の動向に左右される。ならば、この消費=政治は最終的に何によって決まるか?この肝心な問題を代替定理は隠蔽し隠避している。これを多くの経済学者は真に受けているように思える。

代替定理は何を代替しているのか

「中間財のサプライチェーンと多部門経済との間にマクロ的な均衡が見出される」という報告者の先生の証明は何とか上首尾に終わったようである。が、ここには産業と産出という観点しかない。

もしそんな経済システムが可能であるとすれば、そこにはこれこれの式が見出されるはずだ、そうあるべきだというだけで、実際には安定した静的なシステムがあらかじめ想定されている。その上で、そこに整合的な式が見出されるのは自明なことのように思える。

そもそも産業を導き動かすのは技術の進化とそれによる商品の生産である。それは消費者に受け入れられ、支持されねばならない。新しい技術は消費を刺激するとともに、消費者の選好にも大きく左右され、掣肘を受ける。

そうした新しい技術を大きく展開するためには新しい労働力が投入される他ない。新しい船を動かすのは古い水夫ではないだろう。ここに世代の断絶が生まれる契機がある。そのとき歴史は動く、と言ってもいい。技術の進歩をきっかけに生産=消費サイクルが回転し、そこに新しい労働力が差配され、投入される。技術ー生産―消費ー労働力という回路が経済を動的に動かす。そこに見出されるべきは動的均衡である。

以上はしごく常識的な話で、何ひとつ難しい点はないように思える。ところが先ほどの報告には肝心の技術の進化という観点がなく、至って静的な世界観が前提とされている。当然ながら消費の動向も勘案されず、労働力の移動も想定されていない。あたかもパチッと写真で撮られた経済の一断面を見せられるようである。これで問題が証明されたなどと言えるのか?

以上ひどく長々と書いてしまったが、ようは報告者の展開する長大な数式の羅列のうちに動的要素が一切欠けているのが不審である。ヘンだ?と気づいてしまったのである。

「訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥」というのは私の好きな言葉である。自分のモットーと言ってもいい。発表の終わったあと、特にテクニカルな質問もなさそうだし、一体どうなっているのか訊いてみることにした。代替定理が前提とされている(から仕方ない)とはいえ、なんで消費の動向も労働力の移動も計算に入っていないんですか?と。すると発表者は目を白黒させて、またしてもフリーズしてしまった!

経済の論文は自然科学をまねて、数人で執筆されることが多い。私はてっきり発表者がひとりで書いた論文と思い込んでいたが、共同執筆者として老大家の名前があり、今回の研究会のトリを務める予定になっていた。

その先生がやおら立ちあがり、「今のは大変スケールの大きな質問で、私どもとしてはその半分にしか答えることができません」と言って、論文の主旨と、そこにおける代替定理の妥当性について噛んで含めるようにご説明を頂いた。自分としてはごく常識的な質問をしたつもりだったが、向こうには虚を突かれる重大な質問だったらしい。こっちが驚いてしまった。

思えば、これはマクロ均衡をどう捉えるかという問題で、ケインズには動的均衡という発想があったが、後の経済学者にはさっぱりそれがない。数学的な定式化を均衡と取り違えている。この点を先日書いた英語論文でも問題にしていた。だから今回の報告者の議論にも違和感を持ったのだと思う。

哲学・数学・経済学

次の発表はロールズ的な問題設定の妥当性を数学的に検証するというもので、それはそうなるでしょうと特に疑問は持たなかった。「最も貧しい者」を視野に入れるという観点があり、納得させられた。実際には3項論理を使ったもっと複雑な証明で、この手法自体にはもっと将来性があるように感じた。

3人目の発表は圏論と哲学をごっちゃにしたもので、圏論の理解も怪しく、哲学的には大いに問題があったので、厳しくとっちめた。運動と行動と力を同一視して、主体の位置を場所に置き換えようとする。しかるに運動と行動は峻別されるべきである。行動は人間を主体とする。運動はそうではない。主体としての人間は意志をもって、あるいは偶然を契機にして動く。機械論的な運動理論では人間の社会的行動を理解することはできない。

この発表にはかつて京都学派がやらしかした間違いに対する反省がちっとも見られない。悪い意味での80年代の日本的ポストモダンの焼き直しにすぎない。主体のかけがえのなさを引き受けた上で、それと場所との関係が深刻に問われるべきだ。それには歴史と社会にかんする深い洞察が必要とされる。

暴論を言えば、今の圏論のブームとはかつてのブルバキの再来ではないかと疑われる。数学を形式化することで、それを多方面に当てはめ、解ったような気にさせる。そんな手法が物理やコンピューター科学と相性が好いのは当たり前で、はたしてそれを生命科学にも適用できるか。生命の偶然性なり多様性は形式化された数学による処理を逃れ続けるものではないか。そうした手法によっては各分野に固有の問題への理解はいっこうに深まらない。数理そのものへの理解すら深化しないのではないか。

知識は何を対象とするかで自ずと一定の《圏》を持つとは言える。専門化は不可避である。のみならず知識は自らの固有性を他に証明せんとして普遍性に訴える。それは固有なものと普遍的なものの間を揺動する。別の言い方をすれば個に徹してこそ普遍への道が開ける。そして普遍への開けがあって初めて個の擁護が可能になる。

固有なものから普遍的なものへ。これは昔、アンドレ・ジッドも言ってたように至極当然のことに思える。ただし真に固有なものとは実際には言葉にならぬものである。言葉とはすでにして普遍的な記号にすぎない。言葉以前のところにある固有性は自らの実存をもって感得されねばならぬ。そのとき得られる固有性と普遍性の相関的な認識は、あらためて自らの言葉によって裏書きされねば意味を持たない。

こう考えると、固有なものとはそれ自体が底知れぬものであり、無限の深みを持つ。普遍もまた然り。内側に収束してゆく無限と、外側に発散してゆく無限があって、その中間にあって束の間成立するのが人間の認識である。その緊張に耐え抜こうとするのが真の学術であるだろう。

消費からマクロ均衡を捉える

研究会のトリを務めるのが先ほどの大先生である。何度か研究会でご一緒したことがあるのに、すっかり名前を忘れていた。10年以上も前だったか?コンパの席でトリクルダウンの妥当性を主張して、京大の俊才から批判されていたのが印象的だった。財政学の泰斗というのに、この程度の現実認識では……と世代間ギャップを感じさせられたものだ。

自分はもう75歳で、今回の発表がおそらく最後になるだろうという前置きだった。が、生産ではなく消費という観点からマクロ均衡の妥当性を証明せんとする発表で、視点も斬新だし、論証の手続きも完ぺきで、一同感服。ほとんど革命的と言ってもいい論文だ。マクロ均衡の不確実さを解決するのが隠れたモチーフになっている。なるほど先のワイの質問を捨て置けなかったわけだと合点した。

実際には証明の導出の過程が極めて複雑で、B4の白紙の上から下まで虫のような小さな字で計算式を書き込み、紙が真っ黒になるまでやる必要があったらしい。

自分のような門前の小僧も思わず納得させられ、なかんずく感動してしまった。この鮮やかな語り口は必ずしも個人芸ではなく、なんでもこの老先生のさらに先生から聴衆を説得する秘伝をかつて学んだとか。それは「定義は説明しないこと」であるらしい。説明不要だから定義なのであり、これを親切心で解説しようとすると泥沼にはまり込む。なるほど!

コンパの席で、この先生がワイの前にやってきて「なんであんたが代替定理なんて知ってるんや!」「誰も解ってないのに、なんであんただけが問題に気づいたんや!」と質問攻めに遭った。手持ちぶさたでスマホをいじってたら何となく気づいた、などと本当のことは口が裂けても言えず「この研究会のために多少予習をして来ましたから。ははは……」などと心にもないウソをついた。

ご子息は京大の数学の先生で、どうやら集合論をやってるらしい。数学家系だ。が、「自分は今となっては集合論などまったく信じていない」と仰る。「数学は数列に尽きる」と断言なさる。数列のなかに数学的宇宙のすべてがある、という意味だろうと自分は受け取った。

ホワイトヘッドがあるところで「自分は1から2までの間は理解できるが、2から3まで解るほど優れた数学者ではない」と述べている。むしろそれを哲学的に埋めようとしたのが彼の哲学だったのかもしれない。

いささか日本酒を飲みすぎ、お互いにふらついていたので、老先生の腕を取って駅までの道を降りた。先生は不肖の弟子のことを痛く心配しておられる。かつての弟子は数学の天才なのに、いい歳こいて後がないのに今さら哲学なんてやろうとしている。「あの人は数学で自分の才を発揮すべきでしょう」と言うと満腔の同意を得た。

現状の経済学は欺瞞の体系である。その批判は経済学の内側から為されるべきで、外にある哲学理論をあれこれ持ち出しても意味がない。衷心から忠告したつもりだが、ご本人に届いているかどうかは解らない。学者の道を全うするのはなかなか難しいことのようである。

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