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なぜ『TENET テネット』の主人公は「名もなき男」なのか。

ノーラン監督の新作映画の主演が『ブラック・クランズマン』の主演俳優ジョン・デヴィッド・ワシントンだと聞いて、それは観たーい!とテンション上がったのはボクでしたw。

彼のあの飄々とした感じでノーラン監督のハードなSF映画を演じてくれたら最高じゃないか!と。で期待に胸を膨らませて『TENET テネット』を観に行ったんですが・・・飄々とはしてなかったですねー。ずっと深刻な顔してた。深刻な物語の中で深刻な顔。

映画冒頭、オペラハウス前の車の中で待機してる彼のワイルド風味の無表情を見た瞬間から、あれ?どうしたジョン・デヴィッド?って感じで(笑)。いや『ブラック・クランズマン』での彼は本当に魅力的だったんですよ。ステレオタイプな黒人青年の演技をせず、人物造形がもっと具体的だった。立ち振る舞いを見てるだけで彼が裕福で、厳格な家庭で育った人物であることが無理なくハッキリと伝わってきて・・・それが今回の『TENET テネット』では・・・あれ?けっこう人物造形ボンヤリしてない?

このボンヤリ問題、前回のブログ「『TENET テネット』が難解な映画になってしまった理由。」で指摘した「動機が発生する瞬間が描かれていない」問題と関係あるんですが・・・前回はその物語の仕組みについて書きましたが、今回はその演技について書いてゆきたいと思います。

じつはこの人物造形がボンヤリしていること自体がノーラン監督が意図的に仕掛けた「大胆な演技的実験」だったのではないか?という疑惑があるんです。(以下ネタバレ注意です☆)

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第1の謎:なぜ主人公の名前が「プロタゴニスト(主人公)」なのか。

『TENET テネット』の主人公の名前は「プロタゴニスト」・・・演劇用語で「主人公」「主役」という、そのまんまの意味なのですが・・・まず変ですよね。主人公に「主人公」なんていう役名をつけるなんて。
これ日本ではなぜか「名もなき男」と訳されているんですが、そう、彼には名前が無いんです。そして素性も元CIAエージェントだという設定しかありません。

主人公の人物設定を具体的にしない。

これじつは『TENET テネット』の物語構造的に特に利点が無いんですよ。ではなぜノーラン監督はなぜそんな仕掛けを意図的に盛り込んだのか? ボクが一番最初に連想したのは・・・『コール オブ デューティ』みたいなFPSシューティングゲーム、もしくは『ドラクエ』みたいなRPGゲームでした。

ゲームの主人公ってまさにプレイヤーの感情移入を促すために、人物設定、とくに性格設定は最小限しかしない場合が多いんです。

ジョン・デヴィッドもインタビューで言っています。「脚本を読んだとき、さまざまな意味で“主役”が観客だということに心を奪われた。彼が歩んでいく道のりは、観客も体験する道のりなんだ」

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「名もなき男」=勇者「ああああ」

最初は誰だかわからない感じで登場して、名前もなくて(まさに名もなき男)、行動の選択はプレイヤーが決めるので性格はプレイヤー自身の性格が反映される・・・だからプレイヤーは主人公と一体化してゲームを進めることができるわけですね。

で、いろいろ任務を押し付けられて様々なミッションにチャレンジしては死んで、蘇って、成長して強くなって・・・たしかに映画『TENET テネット』でもプロタゴニスト(主人公)は2回ほど死んで復活してますよね(笑)ゲームっぽい。

そしてゲームのラストあたりで「じつは主人公の正体は○○でした!」みたいに設定が明かされるみたいななのもけっこうゲームあるあるで・・・映画『TENET テネット』もラストでプロタゴニスト(主人公)の正体が明かされました。だから2週目のプレイが面白い!みたいな。
『TENET テネット』2週目はニール視点で!っていう・・・これもまさにゲームです(笑)

そう考えるとたしかに『TENET テネット』がゲームだったら超面白そうですよねー。時間を逆行させたり順行させたりしながら敵と戦うアクション・シューティング・ゲーム。おおお、そのゲームやってみたい。

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という「ゲーム感覚で観客に体感してもらう」演出手法として「主人公の設定を具体的にしない」というノーラン監督の作戦があったのではないかな?とボクは思いました。

でもね、この手法・・・映画としては正直難しかったと思うんですねー。だってみなさん、あのプロタゴニスト(主人公)が自分自身だと思って観れました? 彼と一体化して映画を見進めるのは正直ボクには難しかったです。

ゲームの場合はプレイヤー自身が行動を決めてゆくのでむしろ「抽象的な存在」に乗って物語を進めてゆくことのほうが一体感が生まれていいんですが、映画の場合は主人公がもっと「具体的な存在」でないと観客が乗って物語の中に入ってゆくことが難しいんですよ。
観客は登場人物の「具体的な動機」に感情移入するものなので。

ロッキーやランボー、マッドマックスやバットマン、トニー・スターク・・・ゲームとは逆で、映画のヒーローたちはみんな超個人的な「具体的な動機」を持っているからこそ観客と一体になれたんです。

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そもそも「動機」が発生するとは何なのか? それは人物が「なにかに心動かされて、なにかの衝動に駆られること」だ・・・と前回のブログで書きました。

同じ食べ物を食べても人によって感じ方が違うように、同じ刺激を受けても反応は人物像によって変わってきます。

INPUT x 人物像 = 反応(衝動の発生) というわけです。

よく俳優さんが芝居の中でコミュニケーションするときに、「一生懸命インプットしてるつもりなのに、なぜか反応できない」という壁にブチ当たることがあります。この時俳優さんは「インプットが足りてないんだ!」と思って必死にインプットの量を増やそうとします。相手を必死に見て、相手のセリフを必死に聞いて・・・でもそういう時は全くダメなものです。
あれってじつは「INPUT」の部分に問題があるのではなく、「人物像をつかむ」ことに失敗してることが多いんですよね。

まだ「人物像」がボンヤリとしか把握できてないのに、「INPUT」に「反応」しようとしている。そんな状態で頑張って「INPUT」を100したところで、「人物像」が0なので掛け算すると「反応」は0になってしまう・・・心が動かないのです。

自分が演じる人物がどんな性格で、どんな常識観を持っていて、どんなコンプレックスを持っていて、どんな環境で育ってきた人物なのか・・・その「人物像」があってはじめて「INPUT」に対して具体的に心が動いて、その人物らしい「反応」することができるんです。

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そう考えるとジョン・デヴィッド・ワシントンが「目的」「任務」ばかりで「欲望」「動機」を演じることができなかった理由がわかってきますね。

それは彼が一生懸命に演じた役が「名もなき男」だったからです。

結果、何かが起こってもどう対処するか頭で考えるだけで、心が動いてない、でもアクションだけは超カッコいい、まさにゲームキャラのような人物造形になってしまっていたんですね。

・・・という、ゲームのように主人公を「名もなき男」にすることで観客に映画の世界をリアルに体験できるのではないか?!というノーラン監督の「大胆な演技的な実験」は、ちょっと残念な結果に終わったのかなーと。アクションシーンはエキサイティングになったのかもしれませんけどねー。

でもやはり人物像を具体的に演じることは映画においては大切なことですね。人物像がボンヤリしていてはコミュニケーションも生々しくならないし、衝動や動機も発生しないですからねー。
ああジョン・デヴィッド・ワシントンの飄々とした演技が見たかった。

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といったところで字数が尽きました。
前回のブログ「『TENET テネット』が難解な映画になってしまった理由。」のラストで、次回は演技と編集について書きます!とか予告したんですが・・・編集の話まで届きませんでしたねー。『インターステラー』や『インソムニア』の撮影・編集との比較で書きたいことがあったのだけど・・・もしそれ読みたい!という人がひとりでもいたら書きます(笑)。テネット3部作ってことで。

今回も長文にお付き合いくださり、ありがとうございました!ではまた次回!

小林でび <でびノート☆彡>



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