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天間荘の三姉妹

3月に脳出血で倒れて以来、久しぶりに映画館で観た映画です。

久々の映画館なので、何を観るか迷ったんですけど、主演がのんなのと、時間がちょうど合ったのでこの作品にしました。

で、第一印象ですけど、やっぱりのんは良いなぁと思いました。

のんの魅力とキャスティング

何が良いのかというと、まっすぐで嘘がなくて、ピュアな感じがするところです。理由は分からないんですけど、何かのんって裏表がないように見えるんですよね。透明感があるというか、無垢というか、処女性(たまに童貞感)があるというか。

本当ならもっとイメージ悪くてもおかしくないんですよ。前の芸名が使えなくなって改名して、テレビにもあまり出てないと思うので。ところがいまだにこうして映画の主演やCMに起用されている。

たぶん映画業界や広告業界の人たちも、同じように感じているんじゃないかなぁ?

朝ドラ観ないので知らないんですが、いまだに『あまちゃん』のイメージが強いのかもしれません。

で、のんに限らず、キャスティングがとても良かったと思います。大島優子や門脇麦、三田佳子とかも、役柄と役者のイメージが合っていると感じました。

テーマをセリフで説明すると説教くさくなる

この映画の舞台は、あの世とこの世のはざまにある三ツ瀬という町です。といっても現世と何ら変わりません。まるで現実の世界をそのまま切り抜いたように、住民たちは我々と同じように生活を営んでいるのです。ただ、現実世界と異なるのは、ここに暮らしているのが、亡くなった人や生死の境にいる人たちだということだけです。

なぜこのような舞台が設定されたのかというと、この物語が東日本大震災をモチーフにしているからです。あの時、津波に飲み込まれた町自体を舞台としたのです。

そしてこの町に主人公のたまえがやってきます。たまえは最終的に現世に戻るのですが、その時、震災で亡くなった人たちの家族へのメッセージを持ち帰ります。そうして死者と生者の橋渡し役を務めるのです。

たまえは、橋渡し役となるにあたって、父親から死んだ人は生きている人の心の中で生きつづけるのだと教えられます。

しかしそれが僕には説教くさいと感じられました。

「生きている人の心の中で生きつづける」という概念自体は良いんです。問題は伝え方です。この作品の全般的な傾向として、大事なことがすべてセリフで表現されているというのがあって、そこが残念でした。

テーマをセリフで説明するのなら、論文を書くなり演説をするなりすれば良い。僕も脚本の勉強をしているとき、よく言われました。

映画の表現方法はセリフだけではありません。登場人物の表情や行動、場面、ストーリー展開、舞台、設定、音楽、効果音、映像……これらを駆使して表現するメディアです。

なのでセリフで主人公に直接伝えるのではなく、「亡くなった人の思いや意識は生きている人の心の中に存在しつづけるのだな」ということが、映画全編を通して感じられるように作るべきです。

登場人物のキャラクターはセリフで説明しちゃダメ

また、この作品では、登場人物のキャラクターもセリフで語られます。

例えばたまえの姉ののぞみは、正義感が強く真面目な性格なのですが、実は表面的に取りつくろっているだけの人物です。で、そのキャラクター自体はそれで良いのですが、それを他の人物がずばりセリフで言っちゃうのです。でも言われないと普通に良い人に見えるから、セリフで言わせたんだなと思いました。

また、のぞみの母親の恵子は、旅館の客にもズケズケとものを言う人物で、口から出てくるのは悪態ばかりという設定なのですが、珍しく人を褒めるシーンがあります。そこでキャラクターがブレているなぁと思いながら観ていたら、本人が「キャラ変わっちまってるじゃないか」と自分で言っちゃうのです。これは興醒めでした。

テーマをセリフで説明しない方が良いのと同様、キャラクターだってセリフで言っちゃいけないわけではないのですが、まだどんな人物なのか分からないうちに先手を打つように「あんたは表面的だ」などと言わせて、観客にインプットさせてからドラマを描いていったり、不自然になったところですかさず「キャラが変わってる」と自らつっこみ、観客につっこませないようにしたりするのはズルいというか、下手くそだな〜と思ってしまいます。

これもセリフで説明するんじゃなくて、物語が進んでいく中で自然に分かるように描くべきです。

ちゃんとこの世界に来るためのルールを決めてよ

あともう一つ気になったことがあって、それは世界観の作りこみが甘いということです。

先ほどこの映画の舞台は、あの世とこの世のはざまにある三ツ瀬という町だと書きましたが、その三ツ瀬には天間荘という旅館があります。天間荘には現世で死に瀕している人がやってきます。そしてしばらくここで生活をし、最終的に天国に行くか現世に戻るかを自分で決めるのです。

たまえも交通事故で生死の境をさまよっていて、イズコという謎の女性に連れられて天間荘にやってきます。また、たまえが来る前から玲子という偏屈なおばあさんが泊まっていて、後半には優那という現世に絶望した若い女性が訪れます。

問題は天間荘にやってくる人はどういう基準で選ばれているのかということです。毎日世界中でたくさんの人が亡くなっているはずです。なのに天間荘にやってきたのが3人だけなのはなぜ?

この問いに対する答えは絶対に用意しておかなければならないものだと考えます。じゃないとストーリーの都合になってしまうので。

たまえだけ特別ルールにするのはフェアじゃない

世界観に関してはもう一つ気になることがあります。

それは、たまえだけ走馬灯を見ないことです。天間荘にやってきた生死の境にいる人には灯篭が与えられます。その灯籠は走馬灯で、火をつけるとその人の人生を見ることができます。天間荘に泊まっている人は走馬灯を見て、現世に戻るか天国に行くかを選ぶのです。

もちろん玲子と優那は走馬灯を見ます。その上で決断をします。しかしたまえは見ませんでした。というか設定が無視されていました。

世界観というのはルールを決めることです。ルールというのは制約です。「この映画はこういうルールでやりますよ」というお客さんとの約束です。ルールがなければ秩序がなくなり、リアリティが失われ、何でもありの世界になってしまいます。世界観のルールは必ず守られなければなりません。

ウルトラマンだって、3分しか地球上で活動できないというルールは守られなければなりません。この怪獣の時だけ5分戦えるという例外を作ってしまうのは、観客に対する裏切りです。お客さんとの約束を破ったことになります。それは作り手として誠実な行為とはいえません。

まとめ

以上がこの映画を観た僕の感想です。目次は5つに分かれていますが、言いたいことは大きく3つに分類できます。

・のんが魅力的だしキャスティングが良いよね。
・テーマやキャラクターをセリフで説明しないでよ。
・ちゃんと世界観=ルールを作りこんでよ。

もしかしたら原作ではセリフでテーマやキャラクターの説明なんてしていないし、世界観も見事に作りこまれ、きちんとルールが守られているのかもしれません。

また、世界観に関しては映画の中でもちゃんと描かれていたのに僕が見落としただけかもしれません。だとしたらすみません。

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