能力主義は不平等…だとしたら、どう生きる?
昔ウィル・スミス主演の『幸せのちから』という映画を観ました。
実話が元になっているとのことで、その軌跡には、すごいなぁと思ったのですが、同時に、少々うろ覚えではありますが、一番印象に残っているのが、家がなくなってしまった主人公が、息子と一緒に公衆トイレで夜を過ごすしかなく、
子どもはすっかり寝入ってしまっているところを「そこから出ろ」と外からドンドンとドアを叩かれ、でも出ていくわけにもいかず、息子の耳を塞ぎ聞こえないようにしながら耐える…というシーンでした。
希望の映画というよりは、なんだかしんどい思いをしたことを覚えています。それはちょうど私が、しんどい時期だったからかもしれません。がんばってがんばって、上に登っていく。どんなに不遇で辛い思いをしても、耐えて、努力をして、勝ち取っていく。そのメッセージがきつかったことを覚えています。
その映画を観てから十数年くらいは経っているのではないかと思うのですが、人生の折返し地点をすぎるくらいは生きてきたかな、という現時点では人生に対して「頑張ればなんとかなるって、やっぱり無理じゃない?」という感想を抱いています。
ささやかながらに、いろいろと経験してみて、うまくいくことは、たまたま誰かに紹介してもらって、運良く出会って、引き合わせてもらって…ということが関係していたりしますし、だからといって、過去の自分に、何も頑張ってないじゃないか、とは言えないし、うまくいかなかったことは、別に何のせいでもないなぁと思うのです。
ある芸人さんが、冗談半分でモデルさんに対して、生まれつきのいい顔で、細身の体型に産んでもらっただけでそれで自慢するんじゃねぇ…みたいなことを言っていました。
もちろん生まれつきの部分だけではなく、これは別のモデルさんの話ですが、体型を維持するために、ラーメンは年に2回だけ、運動もストイックに…などと努力をしていらっしゃる方もいます。
その努力を笑うわけではなく、努力は、持って生まれたもののベースの上に成り立っていること、それを忘れて努力をしているからって、自分は他人より綺麗だと天狗になったり、他人をあざ笑ったり、こけおろしたりするのは違うよね、
というメッセージであると感じました。(芸人さんなので、そんな深いことにされたくないかもしれませんが。笑)
前回、非認知能力の話をしました。
やり抜く力、自分の力を信じられる力、自制心、忍耐力、創造する力…といった非認知能力が、認知能力、つまり学力に影響を与えます。非認知能力は幼少期に、どんな環境だったかによって決まってきます。現状では、それはたいてい、親がどんな価値観を持っていて、親がそういう環境を与えられるかどうかにかかっていると言っても過言ではないでしょう。(本当は親だけに負担が行くのもまた違うと思うのですが)
貧困の連鎖の正体のひとつに「社会的相続」というのがあります。
「懸命に努力する者は誰もが出世できる」というのは、希望と事実が混同されていると『実力も運のうち』の中で著者サンデルさんは言います。
確かに、能力がある人が評価されるべきだ、というのはイエスだと思います。でも、評価されているのは能力があるからだ、というのは100%イエスだとは、私は言い切れません。
たまたま持って生まれた環境や才能に、私たちは劣等感や優越感を抱くべきなのでしょうか?
確かに、能力主義においては、劣等感や優越感を抱いてしまう、ということはあると思います。でも、そもそも、その能力主義という価値基準自体がもし間違っているのだとしたら…?
マイケル・サンデルさんはこうも書いています。
どう思われますか?
(文責:森本)
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