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【歴史さんぽ】旧東海道に残る江戸時代の痕跡

数年前、私が品川付近に住んでいたとき、毎日のように通っていた通りがある。

それが、江戸時代に栄えた東海道の跡である、旧東海道だ。
東海道は東京の日本橋から京都の三条大橋までの、全長約492kmの街道であり、江戸時代の交通の中心として栄えた。

現在は、開発が進みさらに大きな道がひらかれたことで、主要道ではなくなってしまったが、品川から大森にかけて残る旧東海道には、江戸時代当時の雰囲気を今に伝える史跡が数多く残っている

今回は、旧東海道の道を歩きながら、品川付近に残る江戸時代の痕跡を探した。

1. 旧東海道の周辺に密集する寺社仏閣

今回歩いてみたのは、品川駅から大森海岸駅までの5km程度の道のりだ。

この区間は旧東海道に沿って多くの寺社仏閣が立ち並び、江戸時代当時の品川が大きく栄えていたことを、今に伝えている。

品川付近の寺社仏閣の多さは、地図でみると一目瞭然だ。国土地理院の地図で旧東海道沿いを確認してみると、多数の寺社仏閣の地図記号があることに気が付く。(地図上の「卍」マークがお寺、「鳥居」のマークが神社を示す)

寺社仏閣の多さは、江戸時代当時に多くの人が行き交ってた指標だ。品川付近の盛り上がりは、寺社仏閣の多さからうかがえるだろう。

品川周辺の地図
旧東海道の西側に寺社が集中する


さらに、これらの寺社仏閣を詳細にみていくと、ほぼ全ての寺社仏閣が東海道からみて西側に立っていることに気がつかないだろうか?

これは、江戸時代当時、東海道のすぐ側まで海があったことが原因のようだ。

江戸時代の東海道品川の風景をみてみよう。
有名な江戸時代の浮世絵師、歌川広重の「東海道五十三次」で当時の江戸時代の風景を確認することができる。

歌川広重「東海道五十三次 品川」
東海道のすぐそばまで海が迫っている

この画像をみると、東海道の品川付近には、街道のすぐ側まで海がせまっていたことが確認される。

現在の旧東海道は埋立地が広がったため、海の雰囲気を感じられることはすくないが、江戸時代当時は、東海道の東側には海が、西側には寺社仏閣が広がる光景だった。

2. 品川付近で見られる寺社仏閣

旧東海道の品川付近には、多くの寺社仏閣が立ち並ぶ。
そのいくつかを回ってみた。

●品川神社

品川神社は品川の寺社仏閣で、最も多くの人が訪れる神社だ。
鎌倉時代に入る少し前、源頼朝が海上交通の安全と、祈願城主の守護神として祀ったのが始まりとされる神社だ。

東海道の鎮守として、江戸時代にも厚く祀られていた神社だ。
現在も多くの参拝客が訪れている。

品川神社

●東海寺

江戸時代に品川で最も大きな面積を誇ったお寺だ。
現在は、旧東海道から少し離れた位置にひっそりと立っている。

始まりは、江戸幕府が京都の高僧であった沢庵和尚を招いたことがきっかけだ。江戸幕府の庇護のもと、大きく栄えたお寺である。

なお沢庵和尚は、あの沢庵漬けを考案したことでも知られている。

東海寺

●荏原神社

709年創設とされる非常に古い神社だ。
多くの武士から信仰を受けたことでも知られている神社である。

現在は、旧東海道のそばにひっそりと立っているが、建物は非常に威厳があって、歴史を感じさせる荘厳さのある建物だ。

荏原神社

3.旧東海道沿いには意外な史跡も!?

ここまでみてきたように、旧東海道沿いには非常に多くの寺社仏閣が立ち並んでいる。

しかし、中には「なんでこんなものが???」といった史跡も存在する。
その代表が「鈴ヶ森刑場跡」だ。

「鈴ヶ森刑場跡」は江戸時代の頃の処刑場だ。
ここでは、多くの罪人が死刑となり埋められていた。

「鈴ヶ森刑場跡」は講談などにもたびたび登場する江戸の代表的な処刑場所として有名だ。

鈴ヶ森刑場跡

江戸時代の雰囲気が残る旧東海道は、探索すると沢山おもしろいものがある。非常に魅力的な街道だ。


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