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発達障害と呼ばれる子の子育てをしているママのためのマインドフルネス

発達障害だと呼ばれたうちの子

うちの子は字が上手く書けません。読むときも一文字づつ読んだり(日本語ではそれで通じるのですが、英語の場合はそうではないのです)、たとえば英語の『bdpq』、日本語の『ぬ』や『ね』のクルクルがどっち向きだかわからない。タイ語の『ผ』 と『พ』 も。彼の頭の中で文字はひっくり返ったり、旋回するらしい。

これはディスレクシア(読み書き障害)という発達障害の一つとして認識されています。実はこのディスレクシア、英語圏では20%くらいの子供に見られる『症状』だそうです。

去年までうちの子は普通のブリティッシュ・インターナショナルスクールに通っていました。小学校の2年間をそこで過ごしたのですが、入学してまもなくこの『発達障害』が明らかになりました。相手の目を見ず空中を見て話していることがあったり、肉を食べず好き嫌いが偏っている(ように見える)ことから、他の子供たちからも少し変わった目で見られていたらしく、典型的な発達障害の症状がみられるとして、家庭でも指導するように担任の先生からアドバイスがありました。

基準値からズレていることが問題なのであれば、そもそも問題はない

先生『ミスまいこ、大丈夫ですよ、がんばりましょう、ネイティブ英語の家庭ではないですし、きっとがんばったら良くなりますから。』

わたし『そうですか。息子と話してみます。だけど、それはよくならなければいけないことなのですか?誰のためにがんばるのですか?学校の基準に沿うためにがんばるのですか?それともケンブリッジ・カリキュラムの基準?わたしは他のご両親のようにスペリングやかけ算がここまでできてほしいとかいう要望もありません。だから先生もそんなに気にしなくていいですよ、母親のわたしが気にしていませんから。』

*ケンブリッジ・カリキュラムとは、イギリス系インターナショナル・スクールが採用している認定カリキュラムのことです。

先生『あなたとあなたの息子さんのためですよ。』

わたし『どうしてわたしたちが望んでいるかどうか判らないことが、わたしたちのためになるのか分かりません。』

先生『今なら努力してディスレクシア(読み書き障害)にならずに済むことができるかもしれないんですよ!』

わたし『なって何に困るんですか?』

先生『どんどん授業の内容が理解できなくなって、ついていけなくなります。』

わたし『誰についていくんですか?』

先生『クラスの他の子供たちや、学年の基準やカリキュラムにです。』

わたし『なるほど。だったら問題ありません。わたしたちは気にしてませんから。基準は、本人であるべきです。』

基準値でなければ障害、その気配があれば症状と呼ばれる

読み書きが『標準』でできていなければ障害。運動が『標準』でできていなければ障害。ぼーっとしていたら障害。興奮しやすくても障害。社交的でなかったら障害。そしてその気配があれば病気ように『症状』と呼ばれます。日本語では障害=オブスタクルだけれども、英語では無能=ディスアビリティという言葉を使います。これを子供が信じてしまったら最悪です。

基準値から足りないから、基準値に届くようにすることが教育の正義だったら、子供を誰かが用意した設定値に合うようにトレーニングすることになります。もうずいぶん点数だけよければいいという教育方針は無くなってきたかもしれません。だけどそれは目に見える数字が見えにくくなっただけで、『基準値』は残像として存在しています。

この歳までに九九を覚えるとか、赤ちゃんでもいつ頃言葉が出るとか、いつ歩くとか、すべてに『基準値』が存在して、その位置から外れそうだったら親たちは自分の子供が普通じゃないんじゃないかと心配して、基準値だったらほっとして肩を撫でおろします。

あなたの世界でたったひとりのその子は、あなたにとって普通じゃない特別な存在です。だったら普通じゃなくてもいいんじゃないですか?

あなたと毎日暮らしているその子はあなたにとっていつもどおりで普通です。だったらそれが普通なんじゃないですか?

どうしてどこの誰かも知らない人が決めた基準にがんばって合わせなくちゃいけないんですか?将来の年収にも、社会的成功とも、もはや今では相関関係もなくなってしまったこの基準になぜ怯えなければならないのですか?

なんでもかんでも障害にすることは親子にとって障害物以外なにものでもない

発達障害とはそもそも意味不明な言葉です。それは親と子供を阻害する考え方です。これこそまさにオブスタクル=障害物であり、子供をいつのまにかディスアビリティ=無能にしてしまう呪いです。

以前、発達障害の子供たちにマインドフルネスを指導してある方がわたしの授業を受講されていた際、『マインドフルネスを発達障害の子供たちに、どう生かしたらいいと思いますか?どうしたら子供にもわかりやすく伝わると思いますか?』と聞かれました。

でもわたしは明確に答えませんでした。なぜならその人は子供を『基準値』に近づけるためにがんばっていたからです。もちろん人それぞれの正義があり、使命感もあると思うので否定はしませんでした。ただわたしと論点がまったく違うのです。マインドフルネスは『今ここに意識を集中することで落ち着く』から字が書けるようになったり、なわとびできるようになったり、じっとできるようになるためのものではありません。

マインドフルネスはマインドの構造をフルで把握するためのものです。

マインドに振り回されなくなってくると、落ち着いたり、俯瞰してみたり、もちろん字が書けるようになったり、なわとびもできるようになるとは思いますよ。

そこでそれを『子供にもわかりやすく』というと、まるで大人のほうがマインドフルネスをわかっているかのような前提で話していますよね。でも実際は反対です。子供のほうがマインドの純粋な部分を見ていたり、大人が解らなくなってしまった広範囲のマインドをむしろ繊細に感知していたりします。

マインドが混乱しているのは、子供ではなくて、大人です。大人がもう少し何が起こっているかについて多面的、多次元的にとらえることができたら、彼らは混乱する必要がないのです。

ディスレクシアの子の多くは、観念をひとつに固定することが想像できない

ディスレクシアの子供たちの多くが『視点が一定ではない』(もしくは一点ではない)という相対的な観点を持っています。一瞬で色んなバージョンでものごとを見ているような感じです。そのために、大人の固定観念にかえって混乱してしまうのです。チョイスがひとつしかないということが、彼らには想像できません。彼らは文字が回って見えても、地図を回して読んだりはしません。ものごとを立体的に受け止めて、奥行を洞察しています。

彼らはとんでもなくマインドフルです。なのにマインドの一部しか見ていない大人から、何の説明もなく当然のようにひとつの基準だけを指定されるので、困惑してしまうのだとわたしは思っています。

マインドフルネスが必要なのは子供じゃなくて、基準に縛られている大人

『想像力の欠如から生まれる不自由とは大人の代名詞だと思ったほうがいい』とわたしは常々心に留めています。わたしたちはどうしても知ってるとか、分かっているとか、そういう風にすぐに経験から答えをはじき出すようにできています。それがマインドの構造です。決してそれが悪いわけではなくて、そこにはなんだかよく分からないそれぞれのアルゴリズムがあるわけです。

でも子供のマインドはまっさらで、もしかしたらあなたが思っている感じと全然違うかもしれないわけです。それを何の根拠もなく『みんなそうだから』とか『調査結果の基準値』だからということで、それが正しいとして、そこにこだわってしまうと、どんどん苦しくなっていきます。そこにはもしかしたら自分にはわかっていなことがあるのかもしれない、という想定がこれっぽっちもないわけです。そうすると常に良いか悪いかのジャッジメントが発生します。

マインドフルネスが必要なのは障害だと言われる子供ではなく、むしろそういう基準に振り回されている大人です。固定概念やそれによって起こるジャッジメントに気づいて、可能性が拡大すると基準値も拡大するはずです。

マインドフルネスとは、ものごとを『ありのままに見る』とか、『ジャッジせずに見る』とか良く言われますが、子供はいつも世界をありのままに、ジャッジせずに見ています。固定概念という障害があってその感覚がわからないという症状があるのはむしろわたしたちです。

追伸:現在息子は転校し、週一回の頻度で課外学習があるというオルタナティブで小規模な学校に気に入って通ってます。息子は以前と何も変わっていませんが、その学校で彼のことを問題がある子供だとは思っている人は誰もいないのです。

いただいたサポートは、博士課程への学費・研究費として、または息子の学費として使わせていただいています。みなさんのサポートで、より安心して研究や子育てに打ち込むことができます。ありがとうございます。