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不一致を嫌い不完全を愛する僕ら

情報化社会が進む中、ロボットは日進月歩の進化を遂げてきた。正確、精密な彼らがつくるものに、私たち人間は仕事を奪われている現在。

しかし、それと同時に、浮き出てきたのが、人間の素晴らしさ。コロナの中、多くの人が孤独を苦しみ、友に会うことができない、また、顔と顔を合わせて会うことの大切を痛感した。これは、ロボットが埋めてくれなかったのだ。

コロナ禍、Siriと話して、寂しさが紛れただろうか?そんなことはないだろう。完全なロボットが埋められず、不完全な人間だからこそ必要だということが、明らかになった。

僕も寂しかった。
完全なものよりも不完全なものは、不完全さに面白みがあるのだ。その人ならでは、違いこそが、主張こそが、人として面白みなのだ。

ところが、次のような話もよく聞く。

価値観の不一致で別れた。あの人とは合わないわ。あの人は別の世界の人だから。

私たちが、人を嫌う時、そこにあるものも、「違い」なのだ。不一致は、相容れない。不一致は、嫌い。愛せないのだ。時には、自分に合わないことが怒りにも変わる。

価値観の合う人と付き合いたい。そんな言葉が行き交う。不完全こそが人としての素晴らしさなのに。こんなことを書いてる僕も、価値観の合う人と付き合いたいと思う当の本人だ。

私たちは、不完全という「違い」を求め、愛すのに、不一致という「違い」を嫌うわがままな生き物。

双子の兄をもつ僕がさらにいうなら、同じものも愛せないのだ。

なんて図々しいなんてわがままな僕ら。
(みなを一括りにして申し訳ないが、)

適度な違いと適度な一致それをのぞむ僕ら。
こんなところも含めて、僕らは不完全で素晴らしいと思いたい。

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