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輪廻とは無明であり解脱とはその無明を滅することに他ならない


まずはじめに

今回の題名は、前田専学先生がシャンカラ思想を「輪廻とは無明であり、解脱とはその無明を滅することにほかならない。さらに言い換えるならば、ブラフマンとは別異であるという直観を捨てて、不異の直観を得ることが解脱である」と述べていることから、このテーマにて『ウパデーシャ・サーハスリー』を引用して、ご一緒に考えてみましょう。

輪廻について

輪廻(りんね)または輪廻転生(りんねてんしょう)とは、サンスクリット語のサンサーラに由来する用語で、命あるものが何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わることを意味しています。また、「生まれ変わり」は大多数のインド哲学における根本教義である。

サンサーラからの解放は、モークシャ(解脱)、ニルヴァーナ(涅槃)、ムクティ(脱)、カイヴァルヤ(独存)と呼ばれることもあります。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見て、二度と再生を繰り返すことのない輪廻からの解放を最高の理想としています。

無明(無智さ:avidyā)について

学者さんは、アヴィディヤーを「無明」と翻訳するのは、おそらくですが、仏教用語に用いられる無知のことで、特に、仏教における法(真理)に暗いことを述べていることに合わせてのことだと思われます。

「ア」は後に続く単語を否定しますので、「ヴィディヤー」の意味である「智慧」を否定することになりますので「無智さ」となります。

付託(アディアーサ:adhyāsa)について

無明(無智さ)のことをシャンカラ師は、「アートマン(真我)と身体・感覚器官・内的心理器官(アンタッカラーナ)などの非アートマンとの相互付託」が生じているとしている。

この付託(アディアーサ)とは、暗闇で荒縄を蛇と間違って錯覚(誤認)するように、以前に知覚したものを別の場所にて想起して他の形で現れたように誤認すること(想起というあり方で,以前に見られたものが別のものにおいて誤って顕れ出ること)だとしている。

シャンカラ師の言うところの「非アートマンとの相互付託」とは、非アートマンをアートマンとし、または、アートマンを非アートマンであると誤って認識していることが無智さであるとしている。

シャンカラ師は、このような誤った相互付託という無智さを解消し、アートマン=ブラーフマンであるとの認識によって解脱に達すると考えていたようです。

輪廻の根源とは

それでは、『ウパデーシャ・サーハスリー』第一章純粋意識(=アートマン)から引用してみましょう。

一節
一切に遍在し、一切万有であり、一切の存在物の心臓の内に宿り、一切の認識の対象を超越している、この一切を知る純粋意識(=アートマン)に敬礼する。

二節
[「ブラーフマナ」などにおいて]結婚式と聖火設置式をはじめとする一切の祭事行為を述べ終わり、そこでいまやヴェーダ聖典は、[ウパニシャッドにおいて]ブラフマンの知識を語り始めたのである。

三節
[過去の生存における善悪の行為の結果としての]業は、[その業にふさわしい神・人間・動物などの]身体との結合をもたらす。身体と結合すれば、好ましいことと好ましくないことが必ず起こる。好ましいことと好ましくないことから貪欲と嫌悪が起こり、貪欲と嫌悪から諸行為が起きる。

四節
[諸行為から]善行と悪行が起こり、善行と悪行から無智な人は、再び同じように、身体と結合する。このように輪廻は、車輪のように、永久に激しく廻り続ける。

五節
輪廻の根源は無智であるから、その無智を捨てることが望ましい。それゆえに、[ウパニシャッドにおいて、宇宙の根本原理]ブラフマンの知識が述べ始められたのである。その知識から至福(=解脱)が得られるであろう。

六節
知識のみが無智を滅することができる。行為は[無智と]矛盾しないから、[無智を滅することが]できない。無智を滅しなければ、貪欲と嫌悪を滅することはできないだろう。

七節
貪欲と嫌悪が滅していなければ、必ず行為が[貪欲と嫌悪という]欠点から生じる。それゆえに至福のために、この[ウパニシャッドにおいてブラフマンの]知識のみが述べられているのである。

『ウパデーシャ・サーハスリー』1.1-7

ココで区切って考えてみると、諸々の行為は「アディアーサ」という付託から動機づけされる(←ココが分かりにくいと思いますが先に進みます)。そして、それらの行為は、善行と悪行となり、その行為の結果として、無智さであるゆえに、「私」という観念と行為が結びつくので、「好ましいこと」と「好ましくないこと」というどちらかの印象を必ず持つこととなります。

「好ましいこと」と「好ましくないこと」というどちらかの印象からもっと「好ましいこと」が欲しいという「貪欲」やこれ以上の「好ましくないこと」は嫌だという「嫌悪」が起こるので、次の諸々の行為が起きることとなります。

このサイクルが生きているときに車輪のように廻り続けるように、無智な人は、「貪欲」と「嫌悪」という欠点を持ち続ける限りにおいて、常に身体と結びついて車輪のように輪廻が永久に激しく廻り続けるということとなる。

だからこそ、至福(=解脱)のためのウパニシャッドに述べられているようなブラーフマンの智慧によって、輪廻の根源となる無智さを捨て去ることが望ましいとしているのだ。

ココでシャンカラ師の考えとして重要なことは、「行為では無智さを滅することができない」ことであり、なぜならば、行為と無智さは矛盾することはないからだとしている!

湯田豊先生による三種類の解脱

湯田豊先生によれば、ウパニシャッドの解脱には三種類があるとしています。

まず、「善い行為による解脱」そして「欲望のない状態による解脱」および「アートマン(真我)を“観ること”による解脱」があるとしているのは、ジャナカ王に授けた教説「真我を悟る聖者とは?」にて、ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッドのヤージナヴァルキァ師とヴィデハ国ジャナカ王との対話からも「善い行為による解脱」について、見て取ることができそうです。

「欲望のない状態による解脱」については以下に引用します。

六節
「執着している人間は、リンガ(原因身)のとらわれる世界へと、行為と共に至り行く。如何なる行為を執ろうとも、今生の業(カルマ)を費やして新たな行為を為すために、再びこの世に帰り来る」

以上は、(転生の)諸欲を持つ人間の為すことです。しかし、諸欲を持たぬ者は(転生はしないのです)。諸欲を持たず、諸欲からは自由であり、欲が満たされており、アートマン(真我)だけが欲の対象である者の生気(プラーナ)は身体から去っては行かないのです。こうした者は絶対者ブラーフマンとなっており、絶対者ブラーフマンに合一してゆくのです。

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4.4.6

「アートマン(真我)を“観ること”による解脱」についてはたぶんですが以下のものではないでしょうか?

七節
「心の臓に宿りおる、すべての欲が消えゆけば、限りある者不死となり、その身が梵(ブラーフマン)に至るなり」

例えば、蛇の抜け殻が蛇塚の上に捨てられて命なく横たわっているのと同じく、この肉体も(死後には)横たわるのです。したがって、アートマン(真我)は身体を離れて不死となり、生気となり、絶対者ブラーフマンとなり、光となるのです(と、ヤージナヴァルキァ師が言った)

(その時)ヴィデハ国ジャナカ王は「私は尊きあなた様に雄牛千頭を差し上げます」と言ったのです。

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4.4.7

最後に

「諸欲」を持たないことと、「貪欲」と「嫌悪」そして「罪悪」という無智さの欠点を止滅させることは、似て非なることのように思うのは、「食べる」「眠る」などの「欲」は最低限必須なことなので、行為に関して限定するならば、「貪るような欲」となる行為を滅していくということだと思います。

無智さという欠点の止滅には、「私」という観念とマーヤ(幻力)による行為との結びつきに関しての智慧が必須なのですが…

『ウパデーシャ・サーハスリー』の散文篇をすべて引用して考えるというのも時間がかかるし、散文篇の「弟子を悟らせる方法」の引用の方がわかりやすいかなと検討中です。

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