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カフカをめぐるプラハ旅行記

2017年の秋にプラハへ旅行に行ってきました。まだ日本は暑く薄着のままでオランダ経由でチェコに行きました。航空会社はKLMです。

機内食

前の座席についているタッチパネル式のディスプレイがあまりにも高性能で驚きました。昔は壊れてる座席があって点かなかったり、音が出なかったりして、使えても映画を見たり、落ちゲーみたいな簡単なゲームしかなかったのに、今では世界各国の音楽やラジオが聴けて、スマホの充電ができるようにUSBポートがあって技術の進歩を感じましたねー。特にいつもは安い飛行機で移動するので新鮮でした。流石に十時間以上フライトすると違います。なんとなく眠かったのでラヴェルを聴いてました。ふだんから何か聴いてないと眠れないんですよね。

オランダについて数十分でチェコ空港行きに乗り換えました。その着陸のとき久々にめっちゃ耳が痛くなりました。内耳が破裂しそうです。

プラハ空港に到着です。ここからカフカの職場だった王立の労働災害保険局に行きます。現在はセンチュリー・オールド・ホテルというホテルになっていて、そこに宿泊します。でもバスがわからず……。なんとか係員に聞きまくり、プラハ駅に着くエアポート・エクスプレスバスに乗りました。プラハ駅から20分ほど歩くと着く。そうGoogle MAPは告げました。

元労働災害保険局

着いた時にはもう真っ暗。8時くらいだった気がします。ゴロゴロとスーツケースが石畳をぎこちなく走るのを腰で支えていたので身体はばきばきです。チェックインを済ませてホテルに入る瞬間が旅行で一番好きな瞬間という私ですが、このときはかなりテンションが上がりました。

ホテルの壁

フィッシャーのペーパーブック! と内心ツッコミを入れて、一息ついて買ってきたバーガーキングを食べました。ファストフードは買うのが楽でいいですね。旅行の楽しみかたを間違えている気がしますが。
ちなみにその本は、

全部集めると署名になるんですよ。白地なのがブロート版との決定的な違いを主張してます。
そこでその日に何をカフカが書いていたか全集の日記で確認してから寝ました。明日はフランツ・カフカ博物館に行きます。

朝5時です。完全な時差ボケを発揮して早朝の散歩に出かけます。

昨夜はまったくわからかったのですが、道路の片側には窪みが等間隔に並んで彫られていて、後ろの方からがたがた何やら走ってくる音が聞こえてきました。

おおカフカの時代にはなかった交通だ! 赤い車体に白いラインでガラス張りの向こうには窓辺に座席が縦に並ぶ、なんとも人数効率を考えてなそうな路面列車が視界を遮ります。あれはトラムといって時間制のチケットを買って乗ります。でも実際には、いつから乗ったかを自分でつけられるのであまり買う意味がない気もしましたが、警察に見つかると4000円くらい(多分)罰金になるそうです。私は一日乗車券を買いましたが誰にも見せろと言われませんでした。運転手のおじさんと話した時もチケットについてはなにも言われなかったので経済状況が謎です。しかもチケットはすべての乗り場で買えるわけではありません。発券機もしくはキオスクみたいな売店で売ってます。なぜ? でも私はひたすら歩いてたので結局最終日まで利便性に気づかずにいました。

こんなところにあのフラメンコギターの名手、アル・ディ・メオラの広告が。普通のショッピングモールにポスター貼ってんのかよ。聞きてえー、と思いながらも通り過ぎました。


チェコといえばアール・ヌーボーの代表的な画家ミュシャの生誕地。有名になったのはフランスですが、あの大きな『スラヴ叙事詩』の画家でもありますし、国民的英雄という側面もあるんでしょう。日本でも今年ちょうど六本木の新国立美術館でやってましたね。私も見に行きましたが、カフカっぽい世界観ではなくてふーん、と思いながらも好きな絵ができたのですが。

『ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭』の左下に振り返ってる少女がいるんですが、多分小さくて見えないですが、その娘と目が合うように描かれていて面白く、

未完の『スラブ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い』の左のほうでハープを演奏する少女がその娘と似ていたのでかなり特権的なモチーフなのかな、と思っていたらモデルがミュシャの娘なんですね。ルヤーナの方のモデルは知りませんが、こういうタイプの少女がかなり出てくる気がしました。カフカだと女性は大体黒い服を着ている印象があります。

通りかかったところにカフカの顔が! 生首。怖え、変な建物もあったもんだ、と歩いていこうとしたら、通りがかった人がFranz Kafkaとめちゃくちゃ良い発音で立ち止まったのでよく見返すと、実はここがカフカの生家だったんです。そういえば決定版カフカ全集の手紙編にこれの写真あったなあ。吉田仙太郎訳の巻だ。

撮影は訳者本人なんだあ。吉田仙太郎はグスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』や高科書店からカフカ自身が出版に関わった三つの短編集を当時カフカが依頼したように大きな文字で出版した方です。2017年に平凡社ライブラリーで復刻された『夢・アフォリズム・詩』がおそらく現在一番手に入りやすいと思います。

おすすめです!
話がだいぶ逸れましたが、カフカの生家はカフェになっていてシーズン・オフだったので入れませんでした。『カフカとの対話』でもよく現れるヤン・フス像のある旧市街広場の裏にあって少し感動。ここには聖母マリアの像が建っていて、よくブロートと待ち合わせに使っていたのでした。が、いまは取り壊されてありません。

横目にドヴォルザークホールを見ながらマネの立像を通り過ぎて、ゲオルク・ベンデマンが落ちたであろう橋を渡って緩やかな坂を下って枝垂れた木々の生える閑散とした庭のなかを歩いてから、カラフルな建物に挟まれた急な坂を上る途中に博物館のお土産屋さんがあります。おおー、カフカが。

Kが対称に配されたモニュメントの、この写真から見て左手に博物館があります。右のほうには不思議なモニュメントがあります。そっちはカフカと関係がないのかな? 関係はなさそうでしたが、公共の建物には大抵、写実的あるいは神聖な像が備え付けられていて、街には立像がそこそこ立っているのに未だカフカの立像を見つけられず、不安になっていました。三日間いろいろ見に行ってみて気づきましたが、カフカにはまともな立像は存在しません。

まずこれ! 私の目指しているフランツ・カフカ賞の景品のモデルにもなっているこの像です,台座にFranz Kafkaと彫ってあります。それでいいのか! みんなが靴を触るので金ピカになってますが、そもそも何を考えればこんな像になるのでしょうか。『ある戦いの記録』の「騎行」とか? それともカフカの写真はスーツ姿ばかりだからか? それとも下は父親で、ずっと息子であり続けたことを肩車で表してるのか? なににせよ謎です。
そして次。

なんの恨みがあるんですか。写真に撮りにくいじゃないですか。顔のパーツがぐるぐる回るの見て楽しいんですか。
まあふつうに楽しかったですけど。それにしても生首、スーツお化け、生首ですか、やはりカフカは国民的英雄というよりは国民的オモチャなんでしょうか。実際どう扱っていいかわかりませんよね。オーストリア=ハンガリー二重帝国時代のプラハに生まれたユダヤ人でドイツ語作家ですし、ミュシャみたいにスラヴ系の人々が虐げられてきた歴史を描いた民族的英雄ではないわけですから。
博物館に戻りましょう。といっても撮影禁止だったので写真はないのですが、すごく細かいところまで解説されていて興奮しました。幼い頃カフカは意地悪な家政婦に、お前はラヴァショルだといわれ、以来それを気にするようになったというのを『カフカとの対話』で読みましたが、それが載ってました。ラヴァショルというのは19世紀の有名なアナーキストです。カフカはのちにプラハのアナキズムや社会主義運動の会合に参加している通り、政治に関して興味を持っていた人です。当時の潮流だといえばそれまでですが、まわりの友人達が参加するのをやめた後も、通っていたみたいです。カフカはかなり不思議な人で、若い頃はシオニズムに批判的ですが、晩年は独自ではあると思いますがシオニズムに近づいていってヘブライ語を習い始め、イェルサレムへの移住計画を立てたりします。だから単にアナキズムに興味があったわけではないのでしょうが、『カフカとの対話』ではアナキズムについて神の恩寵なしに人間の幸福を追求する人々と言いながら、彼らが愛すべき性格をもつ人々であるがゆえに、自分で主張するような世界破壊者たりうる、とは思えないとも言う。もちろんこれは『カフカとの対話』なので話半分ですが。
あとは叔父の写真とか、カフカのスケッチのアニメとか、恋人の写真や公文書の類です。現在集英社のマスター・ピースで川島隆が訳している論文もありました。多分コピーだと思いますけど。
字が独特で、言ってしまえば下手です。きっと凄まじい速さで書くんでしょうね。先日調べたんですが『城』の執筆期間が9ヶ月でその間に短編をいくつか書いてるわけですが、『城』は断片を全部集めると文庫でおよそ700ページちょっとくらいですか。それならあんな字でもおかしくないんでしょう。ブロートはカフカの速記文字の一部が読めなかったと言いますし。
あとは登場人物の名前が彫られたロッカーがある部屋があって、そこの確かグレゴール・ザムザがゲオルク・ザムザになっていて笑いました。誤字ですね。直さないのでしょうか。あと流刑地にての機械の模型がありました。なんか四角かった。
カフカ博物館は暗すぎるので目が疲れます。だから体調が悪いときはやめたほうがいいです。気持ち悪くなります。揺れてるスペースがあったりします。あとオーソン・ウェルズの『審判』を見てから言ったほうが楽しめると思います。
最後にお墓に行きます。
新ユダヤ人墓地にカフカのお墓はあります。トラムで20分くらい行くと郊外に出ます。プラハ市内はほんとうに観光地化されていて人が多いのに対してここまで来てしまうと人通りがすくなくて安心します。

門の前に露天のお花屋さんがあって大きなお婆さんがいます。そこで花を買っていきます。門には蒙古髭の生えた門番もいませんし、田舎からきた男でも入れます。

指示の通り歩きます。一番手前の通りにあるので探しに入らなくても大丈夫です。夥しい数の墓地は圧巻ですが、肩が重くなりますよ。

5分くらい歩きます。
カフカは1924年6月3日、ウィーンの郊外キールリングで肺の病で亡くなりました。ちょうど誕生日の一ヶ月前で、1883年生まれなので40歳ですね。死後に短編集『断食芸人』が出版されました。最後は喋れなくなって筆談でコミュニケーションをとっていたそうです。その頃のメモは残ってますが、ノートは全部、その当時の恋人ドーラによって焼かれてしまったのでありません。別に勝手にやったのではなくてカフカが自分の原稿を焼かせたんですけど、その数は20冊くらいというのは平野嘉彦の著作で読んだのですが、どうなんでしょう。
そのあとの中欧の状況はご存知のとおり。ナチスドイツが1935年ニュルンベルク法を制定し、ユダヤ人をドイツ帝国民から除外し、1919年来からの目標であったユダヤ人全体の殲滅に乗り出し、ホロコーストを本格化した。カフカの妹や恋人、友人達の多くがその被害に遭い、収容所で死去した。カフカが描いたと言われる非人間的であり、だからこそ人間的である暴力装置が、直に彼の周辺を襲ったのである。とどこのカフカ解説本にも書いてありそうなことを書いておきます。
着きました。

フランツと両親の墓碑
三姉妹の墓碑

満足しました。

余談ですが、

カフカの職場はスイートルームになっています。ボロい商売だな!

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