箱庭の幽霊
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サナの細い体が仰け反って吹きとび、目の前に勢いよく転がり込んできた。照明のないこの狭い道では飛び散る血も見えなかったけど、確かにその濃い匂いを感じた。生の匂い。そして死の匂い。
そのまま走り去り、すぐそばの曲がり角を曲がって逃げるべきだった。這いずってでもそうするべきだった。けどサナの血の匂いと、その体につまずいて転んだ時、私の体は全てを諦めてしまった。
どぶの匂いと、薄汚い水たまりから身を起こす。サナに呼びかけても反応はない。手を触れても体の震えが帰ってくるだけ。
唐突に、闇を切り裂く光で照らされる。暗順応していた目が眩しさにくらみ、何も見えない。けど足音でわかる。警官に、ついに追いつかれたのだ。
奴らはフルフェイスヘルメットの下でもごもごと喋りながら、こちらに近づいてくる。数秒後、私達は撃ち殺されるのだろう。
何度も夢に見、そのたびにねぐらで跳ね起きてきた、悪夢そのもの。『夢であったらどんなに良かったか』。そんな言葉を今日まで繰り返してきたけれど、今日ほど切実にそう思ったことはない。
目がなれてくる。いっそ盲いてしまっていればよかった。
あと数歩のところに歩み寄る二人組は悪夢の鬼そのもの。衛星通信用アンテナを生やした防弾フルフェイスヘルメットに、鎧のような防弾ジャケット。その下を筋力強化装甲服で覆い、手には人体をたやすく貫通する針を放つ電磁加速拳銃。
なぜ今日まで、この鬼たちから逃げおおせてこれたのか。今となっては首をかしげるほかない。きっと鬼共の腹が空いていなかったせいだ。
泣けばいいのか笑えばいいのかわからない。ただ一切無駄のない動きでこちらを向く銃口を見ているしかなった。
その時
『おはよう』
失禁しそうなほど驚いた。とんでもない大音量で鼓膜を叩かれたかと思った。穏やかな声のありふれた言葉を後ろからかけられただけなのに。
技術の鬼2匹は早くも照準を切り替えている。私の後ろの方へ。
鬼を恐れ、背後からの声を恐れ、震えながら振り返る。
そこにいたのは、騎士だった。
白い。二人の警官が投げかける光の2重円の中、その人影は煙のように白く揺らいで見えた。
霧のように朧気な、ボロ布の塊から頭と手足が覗き、鈍く光る。骨董品のような金属光沢を持つ両腕と両足。
一際強く、鋭く光る白い目。白磁のような頬には、幾筋かの涙あとが溝状に刻まれていた。
『なにを、してるんだ』
若い男の声。澄んでいて良く通り、耳に心地良い。倒れているサナさえ、その声に耳を傾けているように見えた。
警官が発砲した。威嚇でもなんでもないフルオート射撃が白い騎士を射抜く。連中のライトの下で、その針の群れは全てを焼き切る光の剣に見えた。
1人の砲火は縦一線。もうひとりの砲火は横一線。白い騎士の体を4つに切り分けるような射撃。
崩折れたのは、白い影のはるか後方だった。壁か何かだろう。暗くてよく見えない。だが騎士は無傷だった。溝状の涙あとから、白い霧が舞った。
『・・・そうかい。まだやってるのかい』
騎士が一歩踏み込んだ。警官たちは電磁加速銃に弾体供給ベルトを接続し、射撃を続ける。間近で見るのは初めてだ。装甲板数枚程度なら無理やり貫通する、武装警官最強の連続射撃形態。
鬼二人は脚部アンカーを地面に打ち付け、腰を落として自らを砲台に変える。前方のたった1人に狙いをつけ、空気を裂く発砲音を轟かせた。
騎士は歩く。一歩一歩、何かを確かめるように。襲いかかる銃撃は全て通り過ぎていく。彼にとって、この暴力はそよ風ですらない。
歩く、歩く。その一歩が徐々に早まっていく。警官の1人がアンカーを解除し、射撃頻度を下げつつ後退をはじめた。逃げるのだ。あの鬼が。
白い騎士は、それに気づいた。
男どもがやる喧嘩のように、彼は拳を上げた。それが見えたと感じたとき、白い霧が私を通り過ぎていた。
慌てて振り向くと、その拳が逃げずにいた鬼の胸を貫いていた。
埃も立たず、欠片もこぼれず、血の飛沫すらない。でも鬼は、激痛に叫びあげていた。臨終際のカラスのようにばたばたと足掻いていた。白い騎士はその鬼から拳を引き抜き、奴の倒れるのに任せた。
もうひとりの鬼は早くも背中を見せていた。
白い騎士はぐっと足をたたむと、飛び上がるように走り出す。そして鬼が10数歩かけた距離をたった数歩で詰めて、通り過ぎた。
どっと鬼が倒れる。強化装甲服がバキバキと嫌な音を立て、橙色の火花を闇に散らす。ヘルメット越しの嗚咽の音が数回して、それきり何も動かなくなった。
周囲の無人工場が、予定通りの生産を続ける音だけが響いている。鬼の警官達は、死んだ。もう動かない。
ぼんやりとサナを揺する。微かな反応。急がないと、この子も死ぬ。相棒の血の匂いが、足の力を取り戻させた。ともかく彼女を助け起こそうとした矢先、白い手がそれを制した。
『ちょっと、待て』
見上げると、骸骨のようなフルフェイスヘルムと目があった。白く輝く瞳は無慈悲に見えて、けども何かを迷うようにあたりを見回している。
数秒ほどして彼は、サナの腹部に向かって手をかざした。
サナの体が震えた。
「ち、ちょっと!」
『大丈夫。血をとめた、だけだから』
戸惑うように彼は手を下げて体を起こすと、自身の額に手を当てた。途端にヘルメットがさらさらと崩れ、下から男の顔が現れる。
来ている服と同じように白い髪、白い肌。骸骨のような印象は、白いフレームの眼鏡に残るだけだった。
「ええと、大丈夫か?」
「・・・うん、でも友達が」
「そう、だな。はやく救急車を呼ばないと」
そう言って男はあたりを見回す。
何を言っているんだろうこの男は?私達が何者か知らずに助けたとでも言うのだろうか。
「そんな連中に頼れるわけないじゃない。あたし達は市民でもなんでもない」
「そうか。そうだな。うん、じゃあ・・・」
戸惑うように男は指をくわえたあと、それをすっと天井に伸ばした。
「なにしてんの」
「うん。足を用意しようと」
その言葉が終わったとき、頭上から新たな物音が響き出した。
小さく低い音。それがあたり一面から集まってくるように、どんどん高まってくる。声を上げそうになった瞬間、天井が破れた。
夜空はちらりと見えただけ。赤い航空灯を明滅させる小型ドローンがイナゴのように室内へ降り注いできた。今度こそ、恐怖から悲鳴を上げた。
だがドローン達は私を食い殺しに来たのではなかった。回転翼に私達が触れないよう、注意深く向きを変えながら周りを取り囲んでいく。彼らが赤い眼光の群となって周囲を包みきると、ふっと体が宙に浮いた。
「寝そべるように、楽にして。動かないで」
上の方から白い男の声が聞こえる。速度を増し、上昇していく感覚だけがあった。
「ちょっと、どうなってるの!」
「静かに。君たちを運んでいく。医者のところまで」
視界が開ける。私とサナは隣り合って、組み上がったドローンに身を預けていた。まるで列車からはがしてきた、あのリクライニングシートのようだった。目の前でトラス状にドローンが組み上がり、車の運転席の中にいるみたい。そして白い男は車のボンネットに当たる部分に立ち、夜の街を見下ろしていた。
色とりどりに輝く山が彼方にそびえている。反してその裾野は深く、暗い。アドバンスドニュータウンの夜景。でもこんな高度からは、はじめて見た。
工場の上空を何機もの警戒ドローンが飛び交い、赤い光の航跡を残していく。けども私達の飛行を咎めはしなかった。
「さ、行こうか」
男が白い髪を揺らして『車内』を覗き込む。
「君のお医者さんは、どっち?」
どこまでも異常な白い男は、なぜか楽しそうに笑った。
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(人間の脳は)一つ一つの神経細胞が、それぞれの顕微鏡的な心で決断に迷ったりしているわけではない。そのレベルには、心などありはしない。
”心”はもっと高次のレベルでのみはっきり現れる生命体の属性として出てくる。
(機械の心についても同様である)
J・P・ホーガン著『造物主の掟』より
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