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「書くこと」について考える 『取材・執筆・推敲――書く人の教科書』を読んで

古賀史健さんの『取材・執筆・推敲――書く人の教科書』を読んだ。
「書く人の教科書」というタイトルだが、具体の技術本というよりは、心構えのような抽象的なものを中心にかかれている。

別に急にライターを目指し始めたわけではない。上記の通り、技術的なことが記載された本ではないということも知っていたので、文章力の向上を目指して読み始めたわけでもなかった。

では、なぜ400ページ以上に渡る本書を読み始めたのか。

「書くこと」に対しての、何かしらの回答が欲しかったんだと思う。
完全に趣味として書いているこのnote。趣味といえども、それなりに時間と労力をかけているつもりだ。だからこそ、人生の貴重な時間を使って、お金にもならないことを、何のために「書いている」んだろうと疑問が生じてしまっていた。

本書を読んで、その疑問に対して自分なりの回答を出せた気がする。今日は『取材・執筆・推敲――書く人の教科書』を読んで思ったこと、今の段階での自分に対する「書くこと」についての考えを書きたい。


書くために考える

「取材」の章からこの本は始まる。

正直、自分はライターではないし、取材して文章を書くことなんてないだろうと思っていたので、丸ごと読み飛ばそうと思っていた。

が、ここで書かれている「取材」とは辞書的な意味の取材ではなかった。章の冒頭にはこう書かれている。

家族や友人とのおしゃべり、はじめてのカフェで注文するブレンドコーヒー、なにかを「知ろうとすること」はすべて取材である。

古賀 史健. 取材・執筆・推敲――書く人の教科書 (p.43). ダイヤモンド社. Kindle 版.

要するに、日常の何気ない出来事も、ハリウッド映画も、小説も、すべてライターにとっては取材対象だと筆者は主張している。

これには自分もしっくりと来た。よい文章を書く人は、特別な経験をしているわけではなく、何気ない日常の出来事ですら、それをインプットにして感動できる文章を作っている。

じゃあ日々の出来事を「取材」して、文章に活かせるようにするためには、何が必要か。アンテナを張る、なんて抽象的な言い回しじゃなくて、筆者はしっかりと回答を述べている。「考えなさい」と。

取材とは、「読む」や「聴く」で終わるものではない。そこで仕入れたさまざまな情報を、自分のあたま(ことば)で考え尽くす。

手厳しい意見だ。もう少し楽な方法はないかと懇願したくなる。でも、きっとこれしかないんだと思う。ただコンテンツを享受するだけでは成長はないのだ。つらくても、苦しくても、書くために考え抜くしかない。


考えたから楽しくなる

考え抜くなんていうと、辛いだけのような気もするが、これは「書くこと」を趣味とすることで得られるメリットでもある。

シンプルに、人生が楽しくなるのだ。怪しい宗教みたいなことを書いているが、スピリチュアルな話ではない。

今まで、何も考えずにスルーしてきたもの。日常の何気ない物事の1つ1つから、何かしらの良さや、学びを見つけることができるようになる。これは「書くこと」を趣味にするようになって感じた明確なメリットだ。


後は、文章の読み方も変わった。今までの人生でも、文豪や好きな小説家の文章を読んだ時、「文章がうまい」と思うことはもちろんあった。

でも自分が文章を書くようになると、そうした小説なんかだけではない、悪い言い方をすると「普通の文章」でも感動できるようになってきた。

「普通の文章」というのは、巷にありふれている、雑誌やら記事やらで書かれている文章のことだ。特に違和感なく、スラスラと読み進めることができる文章。しかし、よく考えると、そうした普通の文章を書いているのは、その道のプロたち。

何も引っかかるところがなく、読み進める事ができる。それが当たり前と思っていたが、そんなことはない。文章を書くことを仕事にしている人が血反吐を吐きながら、何とか形づくられたもの。だからこそ、不自由なく読めるのだ。

自分が文章を書くようになってこれは痛感した。スラスラと違和感なく読める文章を書くこと。この凄さを書くことで実感できるようになった。


自分はクリエイターではない

自分のことはクリエイターではないと思っている。クリエイター、クリエイトする人、つまるところ、何かを作り出す人。そんな人種ではないと、こうしてnoteを書いている今でも思っている。

小学生くらいのころは、小説家になるのもいいんじゃないかなと思って、小説を書き始めてみたこともあった。中学生のころは、アニメーターを目指して絵の練習をしたりもしていた。高校生になったらギターを始めてみたり。

それらすべて挫折した。その原因を、「才能がなかった」とか、ありがちな言葉で誤魔化していたが、この本のある一文がぐさりと刺さった。

ひと言でいってぼくは「ほんとうに言いたいことなど、なにもない」人間だったのだ。

p.128

筆者である古賀さんも、映画監督や小説家を目指していたらしい。それらに挫折した後、判明したのがこの事実だったと振り返っている。

これはその通り。結局のところ、自分でコンテンツを作り出せないのは、それだけの労力をかけて言いたいことなど、何もないから。

だから、作品の感想なんかを記事にすることはあっても、自分自身で0からモノを作り出すことなんてできやしない。そんなことはわかっていたものの、やはり言葉にして突きつけられると辛い。それでも、なんで自分は書き続けているのだろうか。


その後に本書はこう続く。

「言いたいこと」を持たなかったはずのライターは、取材を通じて「どうしても伝えたいこと」を手にしてしまう。

p128 

そう、自分自身のことではないのだ。自分が感じた感動、コンテンツの良さを書きたいと思う。伝えたいと思うのだ。そして、それはライターにしかできないことだと筆者は続ける。

浅学非才で、からっぽのライターだからこそ、おおいに驚き、おおいに感動することができるのだ。さらにその感動が、読者にも伝わっていくのだ。

p131

改めて、自分がなんで「書くこと」を続けているのか。それをハッキリと自覚できた気がする。

自分が0からモノを作り出せない空っぽの自分だからこそ、素晴らしいモノを作り出す人たちの作品を、無邪気に感動できる。その感動を多くの人に伝えたい。だからこそ、書くのだ。これが自分の「書くこと」なのだ。

モヤモヤとしていたものが、少し晴れたし、何より励まされた。クリエイターでない自分だからこそ、書くことで何かできることがあるんだなと。


以上、『取材・執筆・推敲――書く人の教科書』を読んで、改めて自分にとっての「書くこと」について考えたことだ。この本は、この後の執筆や推敲についての内容も素晴らしく、非常に勉強になったが、自分に一番響いたのはここだった。

書くことで、人生は豊かになる。考えることは辛いけども、その分日々のインプットが上質になっていく。そして、空っぽの自分だからこそ書ける感動を、多くの人に伝えていきたい。

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