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306 土人形


はじめに

3月3日は、桃の節句と呼ばれます。平安時代ごろから、宮中を中心にひな人形を飾る文化も広がっていき、江戸時代には公式の節句の一つとなりました。桃の木は、邪気を払うとされていて、この時期にきれいな花を咲かせることから、桃の節句と呼ばれるようになりました。基本的には、男女関係なく子どもの健やかな成長と健康を願った節句の一つと考えられています。
桃の節句では、童謡にもあるようにお雛様を飾る方が多いかと思いますが、これは、皇室、宮中の婚礼を模していると言われています。
今日は、京雛も素敵なのですが、もう少し素朴で庶民の手で広がっていった土雛の文化について少しお話してみたいと思います。

土人形

土人形の歴史は古く、江戸時代以前より玩具としても多くの子どもたちに親しまれてきていました。江戸時代には産業としても盛んになり様々な地域で生産が進められました。特に、雪深い地域では冬の副業という側面も持っていたため、生活を支える重要なものの一つでした。
日本を代表する土人形の産地と言えば、宮城県の堤士人形、京都府の伏見土人形、長崎県の古賀土人形となりますが、これらを総称して日本三大土人形と呼びます。
しかし、大衆に愛された土人形の産地は全国各地に存在します。中でも地域で見ると東北地方は、日本の土人形界の宝庫といわれています。その中心的存在が、日本三大土人形の一角である仙台の堤人形となるわけです。東北三大土人形というものも存在し、花巻人形と米沢の相良人形を加えて、東北の三大土人形とされています。
大黒様や恵比寿様などを模り鮮やかに着色された置物は、縁起物としてもインテリアとしても人気があり、外国からの観光客の皆さんにも人気があるそうです。

各地に広がる

私の地元、長野県の飯山氏市の隣にある中野市にも土人形の里と呼ばれている地域があります。下のポスターは、長野市に隣接する須坂市にある世界の民族人形博物館で特別企画のポスターです。

世界の民族人形博物館

土雛が日本全国に広がりを見せていく過程については、貴族社会から武家社会への広がりという流れと江戸時代の産業振興という流れの2つが、大きな要因と考えられます。
そのため、例えば、長崎県という出島を有する特徴的な地域では、古賀人形という素朴な形と鮮やかな色彩の土人形が発展しました。動物をかたどったものなどに加えて「阿茶さん(中国人)」「オランダさん」など、異国情緒あふれるモティーフがあるのもそうした背景からの特徴です。また、土もその土地の特徴です。土の良しあしやその土地の風土がにじみ出るのも土人形の醍醐味です。

土人形の作り方は、型に粘土を詰めて型から外したものを天日で乾燥させるところから始まります。その後、窯で焼き、胡粉で下塗りし、泥絵の具で彩色して仕上げます。重要なのは、型にあります。
形を決める型は、原形をまずは造りその周りを粘土や石膏で覆い、はがして型を作ります。江戸時代、この型を譲り受けたり指導を受けて作るために京都や江戸から職人を招いたりして各地域では、土人形を発展させていったところが多く存在します。

学習も同様で、型がしっかり身についていることで発展的な内容や応用問題にも対応できます。型とは学び方や公式、基礎知識など様々ですがその方がしっかりしていれば、地域ごとの特性同様に個性も発揮できますし、応用も可能となります。
各教科の型もありますが、もっと重要なことは自ら学ぶために自分に合った学び方(学ぶ型)を身に付けることかもしれません。そして、時代によって流行や手法は変わっても、その型はその変化にも対応できるものが多いのです。

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