ネガティブって悪いのか

自己啓発本ってやつを必死こいて読んだ時期があった。
思想を押し付けてくるような、それでいて人を鼓舞してきやがるような、なんともストレートで軽快な言葉ばかり並んでいる。でも頭を空っぽにして読んでいると、「あれ、なんとなく私にもできるんじゃね、もしかして」となって、細かい内容を無視すりゃ、漠然としたパワーをもらうにちょうど良い。

でもだいたい共通して、「ネガティブ思考は毒だ」「ポジティブ最高」「ポジティブに考えるからこそ上手くいく」といった具合に、激烈にネガティブ思考が否定されているのだ。実際そうかもしれない。否定はできないし、そうでない方が人からも好かれやすいだろう。

でも実際ネガティブ思考って何さ。治るのかいそれは。どうやったら治るんだい。おじさんに教えてくださいよ。完全に治りうるものかい。
答えを求めて、また本を読む。「こう考えておくと吉です!これを実践しましょう!頑張りましょう、気合だぜ!」としか書いてない。

あ~、本や人に教えを乞いたところで、その教え通りに動いたところで、根本的な答えにはつながらないんだな~と、私的に思った瞬間であった。
結局は、一つの教養で、参考で、ファンタジーだ。鵜呑みにするとグチャグチャにされるし、思想に食われる。
その何年か後にショーペンハウアーは読んだ。

私は生まれてこのかた、真正のクソネガティブであると自負しているのだが、最近は特に、どれだけ当たり前のことも、起こることの確率が低いことでも、どうしても疑うことがやめられない。

でもほんと疑うだけ。何をするでもない。
言ってしまえばもはや妄想のようなもので、海を眺めていると、あ、ゴジラ出てくるかもとか、そんな塩梅である。サンタクロースだって現象として否定できるが、存在そのものは未だにいるのか、いないのか、はっきりと結論付けることができない。深く考えているようで、何も考えていない。何が起こっても、なんとなく、自分という肉体のフィルターを通して、外の世界に起こっていることを見ている。ただの傍観者のような感覚で、ただただその場所で起こり得るいろんな可能性について、ずーっと考えているような感覚である。勿論そのリンクが強まる時だってあるし、時には深く感情移入もする。強い刺激には不安定にもなる。ただ、今は起こることに対し、自分のことであるような、他人のことであるような、その境界をとても曖昧に、眺めている。

良いことも悪いことも、やむを得ずどっちもある。起こりえないことなんていうことも実は何一つないし、反対もまた然り。だから頭で考えていることは全部妄想で、私が本気で考えるのは、自分でその存在をはっきり認識したときだ。それ以外に考えるのは、正直めんどくさいからである。

本に書いてあるネガティブ思考というのは、ここの定義が曖昧だ。
私の思うネガティブ思考というのは、考える初歩の「疑う」というのが、どのぐらいのモノや現象に対して適応されるのか、そしてどれぐらい自分ごととして考えてしまうか…という話だと思うのだ。結果として、思考の割合がプラスになるか、マイナスになるか、その肉体反応としてハッピーになるか、死にたくなるか、ということだと思うのだ。

でも疑わないって無理じゃない?
これってなぜだろう、何を考えてるんだろう、どうなってるんだろう、と思うのも、言葉では「疑問」というし、疑うことからきている。
みんなネガティブじゃん!それを根本的に直そうだなんて、脳みそをカギ棒でクチュクチュするしかないじゃないの。素晴らしい!ノーベル賞だね!

冗談はさておき、手段はどうあれ、疑うことをやめることができたなら、意図的にマイナスを遮断できる。プラスで満たせる。結果「あなたは」ハッピーになる。おお確かだ。視点のひとつとして、自分良ければ全てよし。
でもいろんな可能性を放棄している。気づき得る良さの種をも無視している。個人的には、大変もったいない。人生長いぜ。

とは言うものの、実際疑い続けることの疲労感はとてつもないものがあって、私自身も大いに苦しんでいる訳だが、今のところ、なぜだかどうしてもこれがやめられない。考えたところで、脳みその機能には個人差があって、全然理解できないことが殆どなので、畜生と思うことも多い。
例えば私は、仕事絡みのお勉強にちっとも明るくない。畜生め!
でもまぁ、やめられない。私はクズのド阿呆だが、いずれは絶対いいやつになりたい。と、思うからかもしれない。それがあるからかもしれない。
アホだったけど、アイツいい爺さんだったよねと言われて死にたい。これが結構難しい。道は険しい。どうしたらいいだろう?

結局、世間からして、個人的に湧いて出たこれらの疑問を、じっくと考えるこのプロセス自体が無意味なのかも知れないが、悩むということは捨てられない。ネガティブな思考そのものをやめることは、可能だが、多分倫理的に厳しい。

その割合や幅はすべて、どんな風になりたいか、何を目指すかによって変わってくるような気がする。そして、それが自分に達成できるのかと、またその可能性や方法を、その都度考えてやる必要がある。生きていく中、そこのバランスがじわりじわりとながら取れた時、自分の場合は最初に話した観測視点のブレというか、バイアスというか、そんな感じのものが一気に減った感覚があった。

一般的にポジティブと呼ばれる言葉も繰り出せるようになったし、私は本質的には何も変わっていないのだが、どうだろう、ネガティブ自体が間違っているのだろうか。皆にあってしかるべきで、無視するべきではないものじゃないか。

要はあんまり人や本のことを鵜呑みにしなさんなよ、それは私も含めて。
と言いたいだけである。

今のところ、私は割と胸を張ってネガティブをしている。

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