【ネタバレ有】映画『オッペンハイマー』の感想。その根底のテーマとは何だったのか?

映画『オッペンハイマー』を観てきてあまりにも感動してきたので、その感想を書きます。

「聖人とは愚ちゅんなり。」
というのは私が一番好きな荘子の言葉である。
愚ちゅんというのは、愚鈍という意味だ。

映画を見終わった後、私はこれまで映画を見終わったとき感じたことのないような感動と満足感、動揺を感じた。

映画『オッペンハイマー』は、単なる実在したロバート・オッペンハイマーの人生をなぞった伝記的映画ではない
史実とは離れた描写も多かっただろうし、映画にするにあたって描かなかったシーンも多々ある。
ロバート・オッペンハイマーはあくまで今作のテーマを描くためのツールで、要素に過ぎない。

では、今作のテーマとは何だったのだろうか?
それは人類の愚かさ、だったと私は考えた。
人類とは、ロバート・オッペンハイマー個人でもストローズ自身でもトルーマン大統領でもない。
個々の一人ひとりの人間が集まって形成される、人類全体のことである。

今作で描かれた人類の愚かさは、想像力の欠如と虚栄心、2つがポイントになっている。

まずは想像力の欠如について。
一番最初に、オッペンハイマーが青りんごに毒を仕込むところ。それを誰かが食べたら殺人事件だし、その先に自分が引き受ける結末も相応のものになる。
それなのに、一時の怒りに任せてとんでもないことをしている。もとからオッペンハイマーは想像力が欠如している。
次に、オッペンハイマーが不倫をしていること。それは周りを傷つけることだし、社会的倫理に反しているし、それが公になったらどうなるかなんていうのはちょっと考えたらわかること。
しかし、これもオッペンハイマーはそこまで想像ができない。
また、不倫相手が1人自殺して大泣きしているのに、何十万人という民間人を殺す兵器の開発を喜々と行い、オッペンハイマーのみならず開発メンバーやアメリカ政府がその成功に乱痴気騒ぎをしていること。
1人死んでそれで、その何十万倍という命が奪われたら相応の悲劇があるのに、それに関してはほとんどの人が想像できていない。
ようやくオッペンハイマーも原爆が2発落ちた後に薄々気づき始める。
私が一番好きなシーンは、オッペンハイマーがスピーチ中にその悲劇の程度に気づき始めたところ。
皮膚がただれ、一瞬で炭化した死体が見える。これは原爆の本当に本当に少しだけ垣間見えた、原爆の現実だ。
皮膚がただれていたのはノーラン監督の娘さんだが、これは「自分の大切な人がこういうことになる」とほんの少しだけ見せた、想像力を働かせた場合の結末のほんの一部である。
オッペンハイマーだけではなく、原爆投下に喜ぶほとんどのアメリカ国民は想像力が欠如しているから、そんなことさえわからない。ただ喜んでいる。
一番愚かさの象徴になっていたのは、トルーマン大統領である。
原爆が落ちた場所の名前させちゃんと覚えていないし、さらに水爆の開発を進めようとする。原爆の悲劇についてなんて微塵も想像力が働いていない。
アメリカ大統領はアメリカ国、そしてアメリカ国民の一番の責任者であるため、そんな大統領をそういう風に描いたのはノーラン監督の鋭い皮肉の1つだろう。

次に、虚栄心について。
まずはストローズである。ストローズは自らの虚栄心のために全てをでっちあげようとし、全てを破壊していく。
しかしオッペンハイマーもまた、虚栄心に取り憑かれている。最初の青りんごも虚栄心故にやったことでもあるだろう。
また、アメリカ国もそうだ。虚栄心と共に他国と競争をして、原爆を落とした。

観客は、この想像力の欠如と虚栄心による登場人物の愚かさを笑う。
しかし、描かれているのは「登場人物の愚かさ」ではない。
これまで、そして今の人類の愚かさである。

今作では、あえて原爆によって起きた広島・長崎の惨状を描いていないのだと思った。
観客は、その惨状をしっかり勉強していない限り知らない。
現代の人類である観客もまた、想像力が欠如しているのだ。

観客が笑っているのは映画の登場人物ではなく、実は自分たち自身なのである。
オッペンハイマーが犯した怒り、不倫、ストローズの虚栄心もまた常日頃人類が繰り返していることである。

オッペンハイマーも世界に一人だけならこんなことにはならなかったかもしれない。
オッペンハイマーは、自分の人生・科学・世界情勢に翻弄された。
しかし、オッペンハイマーは同時に愚かな人類の一部として、愚かな結末を引き起こす一部となっていたのだ。

冒頭、アインシュタインが出てきて「毎日ああして池に石を投げている」と言われていたと思う。
これはある意味、もはや科学界についていけなくなった用済みの老人のように描かれているのだと思うが、実はその姿こそが、想像力の欠如と虚栄心から最も離れた聖人の象徴であったのだと思う。
禅宗の曹洞宗は、只管打坐といってただただ座禅に打ち込むことを最も重要としている。
私はこの映画を通じてはっと合点がいった。
ただ座る、この一見最も無意味な行為こそが実は人間ができる最高の行いであったのだ。
アインシュタインがただ毎日石を投げる、これもまた同じ意味を持つ。
アインシュタインは過去に兵器開発を進言した過去があり、だからこそ危険性に気づいたのかもしれない。

最後のシーンでは、地球が焼けている。
これも観客は「そんなことありえない」と思うかもしれない。
しかし、科学兵器開発の最前線に立ってきたオッペンハイマーなどはその現実性・可能性をひしひしと感じていた。
それをすぐ差し迫った現実と考えられない観客もまた、想像力が欠如しているのだ。
そして、日々虚栄心と共に人類の破滅に加担している。

人類の歴史は、想像力の欠如と虚栄心による破滅の繰り返しであった。
しかし、人類は科学を発展させて、その破滅が人類の破滅・地球の破滅に直結する段階まで来ている。
オッペンハイマーは、そこに至るきっかけを作った張本人である。

この映画が観客に訴えているのは、「もうすぐ破滅する人類と地球の予言」か「人類と地球の破滅を止めるためのメッセージ」か。
私は、前者だと思った。
悲惨さをより具体的に描写するのではなく、人類の愚かさを描くことに集中しており
止めるような方向性に集中していない。
私の解釈では
この映画は、もうすぐ終わる人類と地球のこれまでの歴史の総括として作られたものであるように感じた。
この映画もまた、人類と地球の終わりと共に消失するのであろう。






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