セクハラ概念死すべし

タイトルの通り。

改めて思うけど、法治国家や人権といった建前がある国で「セクハラ」とか「 #metoo 」が流行ったのはどう考えても尋常じゃない。私が(セクハラ行為とは別に)「セクハラ」が問題と思うのは以下の点で、順に説明する。

・基準が曖昧で恣意的
・男性の意見が反映されない
・男女に等しく適用されていない
・私刑の肯定に繋がっている
・それぞれの問題の本質を隠している


基準が曖昧で恣意的

「相手が不快に思ったらセクハラ」という基準は、とてもじゃないが人を批判する際の基準として成り立っていない。人によって不快の基準が異なっているのは言うまでもなく、不快感の表明さえあればどんな発言・行動でも(たとえば挨拶や会釈さえ)セクハラにできてしまうこの基準は、要は気に入らない相手を攻撃する為の便利な道具だ。

基準に客観性が求められるのは言うまでもなく、(挨拶や会釈にリスクが伴う社会をお望みなら話は別だが)少なくとも常識的・日常的(とされるような)行動はノーリスクでできるようにしなければならないんじゃないのか?
(些細な行動さえリスクを伴うようになると、今度はリスクを恐れない傍若無人な振る舞いが最適解になりかねない。恋愛工学がそうであったように。)

男性の意見が反映されない

基準の曖昧さ・恣意性に加えて、「具体的に何がセクハラか」を決める裁量が女性に実質的に独占されているのも批判されるべきだ。「これはセクハラ含まないべきだ」「これは立派なセクハラだ」といった男性の意見が反映されたことが一度でもあるだろうか? 女性が作った基準を男性にも適用する(後述)という形で誤魔化されているが、そもそも基準が一方的に押し付けられている時点で、どれだけ健全な基準でも公平からは程遠い。

男女に等しく適用されていない

先の「男性の意見が反映されない」がルール決定時の話なら、こちらはセクハラが処理される現場の話だ。「そもそも」に「そもそも」を重ねるような話になるが、セクハラの基準は本当に男女に等しく適用されているだろうか? 私はそうは思わない。
具体的な被害に対して男性が「これは不快だからやめてほしい」と声を上げても、それがセクハラとして批判されるかを決めるのは専ら女性側の裁量だし、明らかにセクハラの要件を満たしていない告発(たとえばそもそも全く性的な言動ではないなど)に対して「それはセクハラ」ではないと男性が主張しても聞き入れてもらえるとは限らないだろう。

「等しく適用される」と「等しく適用される”ことがある”」では意味合いが大違いなのは、どうか言わずもがなであってほしい。

私刑の肯定に繋がっている

さて、仮にあるセクハラの告発が妥当(基準に当てはまっていて、男性側の弁解もある程度弁えられている)だとしても、今まで通りに加害者を非難していれば万事解決というわけにもいかない。

先の項と同じく現場レベルの話として、セクハラ認定を受けた後に待っているのは法や理屈に基づかない私的な制裁ばかりだ。仮に基準と適用がきちんとしていても、その後の対応が道理にかなっていないのであれば見過ごすわけにはいくまい。

これまでの4つの問題点を総合して言えば、「セクハラ」の定義、適用、処罰のそれぞれをきちんと厳密化すべきだということになるのだが、冒頭で述べた通り、私はセクハラという概念をなくすべきだと考えている。
5つ目の問題点の話に入ろう。

それぞれの問題の本質を隠している

私がセクハラという概念をなくすべきだと考えている最大の理由は、なんといってもこの一言に尽きる。「セクハラ」、或いは「性にまつわる不快感」というカテゴリは、どう考えてもそれぞれの事案の本質を覆い隠してしまっている。

一般にセクハラにカテゴライズされるもの、
すなわち性犯罪性差別性的で失礼な言動相手に非がない不快感など。これらの本当の問題点はそれが不快だという部分ではないし、それぞれに対する適切な対応も異なっているだろう。

「セクハラ」という言葉を使い続けることは、これらの問題から目をそらすことであり、効果的な対処を怠ることでもある。それは確かに気分がいいのかもしれない(なにせ気持ちを根拠に相手を非難するだけでいいのだから)けれど、ともすれば加害・被害を放置し、時に加担さえしているのと同罪だ。


以上、 #セクハラ概念死すべし

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