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第3回 4月18、19、20日の医療支援で感じたこと(人と情報に寄り添う)

今回の能登・七尾地区の医療支援では、リアルタイムの情報をうまく拾えなかったため、あえて予定を立てず輪島市へドクターカーで行けるとこまで行ってみようとトライしました。

金沢市内のビジネスホテルを拠点として活動しましたので、輪島市へ「のと里山海道」という無料高速道路を利用しました。

facebookには動画を載せましたが、舗装されていても、下り方面への1車線のみが開通していて、崖崩れや山崩れで片側車線が「消滅もしくは埋もれて」いるため、通過することを最優先とした工事であることがわかりました。

左右の蛇行はもちろん、上下や継ぎはぎの段差で、タイヤと車体の差が少ない車や、大量の物資や資材を積載した車は、かなり厳しい状況でした。

車酔いしやすい方はまず無理です。

医療機器を固定するのに、一部、スプリングワッシャーに変更して、ネジが緩まないように準備していました。(医療機器をスプリングワッシャーで固定するなんて普通ありません。)
医療機器は無事に機能していましたし、ネジが取れることもありませんでした。

なんとか2時間かけて輪島市内に入りました。

瓦礫が左右に寄せられていましたが、それ以外の建物は壊れたままでした。(写真を撮る気持ちになれませんでした。タイトルの写真が精一杯です。)

能登の皆様、奥能登の皆様は、生活圏内での団結力がとても強く、災害以外のアクシデントでは、協力するのが当然、お互い様が当たり前であることを肌で感じました。


南大呑地区の郵便局にて。郵便局長さん、七尾の根上先生のご厚意で実現

4月19日に、七尾市南大呑地区の郵便局へ、医療過疎の支援の一環としてドクターカーで行きました。別地区の方が地震で自宅が崩壊し、親戚の家へ身を寄せていらっしゃり、毎日周辺を散歩していたら、南大呑のみなさんが「声をかけようかどうかとても迷った」「この地域の人ではないよね」「ようやく声をかけられた、ああよかった」と言われたことを教えていただきました。
みなさん、とても優しいです。ドクターカーで、ぼーっとしていたら、あるおじさんが、「あんた、これ食べるかい?」とタラの芽をくださいました。何もしていなで時間が経っていく私を不憫に思って、ぶっきらぼうに、目線をそらして・・・

おそらく急いで山で採ってきてくださったのでしょう。そのまま手渡しでいただきました。


そのくらい、情が熱いし、一軒一軒が離れていても、地区の家族構成から年齢、勤務先や学校、さらに病気の状況までみなさんが共有されているようでした。埼玉で生活していたらとてもありえないです。ここでは個人情報なんてものは全く存在していないようです。でも、緊急事態ではとても有益です。

特に、地震で多くの家屋が倒壊したので、「〇〇んとこのじいちゃん、ばあちゃん、助けに行かなきゃ、杖ついてるし逃げ遅れてるかも!」と、迅速に安否確認が出来ていたようです。

昔ながらの「隣り組」といった地域コミュニティが非常に良い意味で機能しています。事実、行方不明者の事例は見当たりません。

個人情報保護ばかりが一人歩きして、最小限の情報が共有されていない東京地方では、災害に見舞われた場合、行方不明者が多数発生することが容易に想像できます。
犯罪に利用されてしまうことは困りますが、今一度、個人情報の保護を考えなおう必要性があることを感じました。

能登地方の強いコミュニティが、震災発生直後から1ヶ月くらいまでは、多くの命が守られたと考えます。

しかし、震災3ヶ月以降では「強いコミュニティ」が若干、足枷になっていることを知りました。

外から入ってくる人には、常に警戒する=ボランティアに依頼するのを躊躇する

助けてもらっても、何もお返しできない=ボランティアに依頼するのを躊躇する

両親も、祖父母も、曽祖父母も、ご先祖様も、みんなじっと耐え忍んできた

だから、復興が進まない、ボランティア登録してもなかなか出番が回ってこない・・・ボランティアの方をあまりみないし、片付けが進まないという被災住民の皆様の声がポツポツ出てくる。

この情報を知ったのは、なんと「北國(ほっこく)新聞」でした。

情報化社会、デジタル社会が当たり前であった私には盲点でした。被災者の方の多くは高齢者であり、情報化に取り残された人たちである。その人たちが利用する情報源は、テレビや新聞、ラジオであると気がつきました。

医療支援はもちろん、情報にも、被災者に寄り添っっていくことに気づかされました。


みなさまからいただいたサポートは能登での支援活動に100%使わせていただきます。ドクターカーでの活動報告も、随時行っていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。