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『私だけ聴こえる』 プロダクションノート

2015年のある昼下がり、シャワーを浴びながら昔読んだ詩の数行をふと思い出した。
 
おれは三日間音を殺してみた
おれは三日間色を剥ぎとってみた
おれは三日間形を毀してみた     『おびただしい量』岡田隆彦
 
詩に倣って少しの間、音を殺してみる。水の滴る音、床を擦る足音、遠ざかる車の音…一切の音が聞こえない想像に身体を浸していたら、ちょうど書こうとしていた東日本大震災の番組提案と結びついて、津波の映像が無音で浮かんできた。迫りくる津波を遠景に、地鳴りも警報も叫び声も聞こえなかった人が普段通り生活している。
聞こえる人たちのいなくなった街。
その画が脳裏に焼き付いて、シャワーを出て、あの日、津波から生還したろう者の証言ドキュメンタリーを作ろうと思った。
 
宮城沿岸部を歩いてろうの方々を尋ねる。
「どうやって津波が来ることを知ったのですか?」
答えの多くは近所に住む<耳の聴こえる子供たち>が駆けつけたことによって一命をとりとめたというものだった。その娘・息子たちに話を聞く。普段から「何かあると親が困るだろうなと思って」近くに住み、震災があった時は真っ先に駆けつけたという。自分の子供の安否を確認するよりも先に、体が勝手に動く様にして実家に向かった人もいた。

「津波によって亡くなったろう者については知らなくていいのか?」
頭をよぎった疑問を捨て去れず、僕は人づてに連絡先を入手し、津波で亡くなった夫妻の息子さんに電話をかけた。
「私は…あの日、両親の近くにいませんでした。普段、仙台に暮らしていますから。なるべく早く実家に戻って、家の階段を登ると両親は手を繋いで並んで死んでいました。その後、近所の人たちの話を聞くと、どうやら何度も両親を呼びに行ってくださったようです。目の前が小学校ですから。一緒に移動していれば助かったのに、なぜか行きませんでした。手を繋いでいたので、もう生きることを諦めたのかもしれません。耳も聞こえないので、避難生活に耐えられないと思ったのでしょうか。
…わかりません。ずっと考えてるんですけど…わかりません。両親のことが私には最後までわかりませんでした。」
声に次第に嗚咽が混ざってきて、彼の傷口の瘡蓋をめくって血が流れ出るのを見ている気がした。
取材はここで終えた。
耳の聞こえない親と耳の聞こえる子。
その親子は長い間一つの家族という親密でちいさな空間に居たはずなのに、違う星から来たかのようにかけ離れた存在に思えた。
 
その後、番組のレポーターで手話通訳士のアシュリーから「コーダ=CODA(Children Of Deaf Adults)」という言葉をはじめて聞いた。
「取材でろうの人たちの話を聞きに行ったでしょう?耳の聞こえる息子や娘に出会ったでしょう?彼らはコーダっていうの。私もコーダ。これはまだ知られていない、新しい概念なの。」
コーダについて話しはじめた彼女は「ろうの世界と聴者の世界のあいだで育ち、居場所を失い、ストレスに苛まれる」と言った。どうしようもなく不安定で、あちこちにストレスが現れる。アルコールやドラッグに溺れる人も少なからずいる。コーダは世界中に点在し、自分たちが何者なのか、その定義をこれから作っていくところだ、と。


アシュリーの熱を帯びた話を聞きながら、僕はあるイメージに浸っていた。
がらんとした田舎のショッピングモールで幼い自分が迷子になっている。
不安に耐え切れず大声で泣き叫んでみたが、親にはその声が少しも聞こない。
持ちうる力を振り絞っていくら叫んでみても、親が僕を見つけることはない。永遠に見つからない迷子になって、その諦めが身体中に染み渡ったあとも僕は自分だけで過ごさなくてはならないのだ。
それは恐ろしいイメージだった。
アシュリーは真っ直ぐにこちらを見て「コーダのドキュメンタリーを作って欲しい」と言った。
 
それから7年が経ち、アメリカ中西部に住む10代のコーダたちと作った映画は完成を迎えた。
この映画になにかしらの役割があるとしたら、迷子になってしまった世界中のコーダに<同じ経験を持つ人>の存在を知らせることだろう。
コーダの世界に一時でも入り込んだ聴者として、一言だけ言わせてもらえるなら、当事者はコーダだけではないと思っている。自分の人生に馴染めず途方に暮れている人が映画館の座席で、コーダに映し出される自分の姿を見てほしい。
本当は誰もがこの世界で迷子であり、居場所がないのかもしれない。
そこに<他者と生きる>という当たり前のことを捉え直す契機がある。
このことが僕とコーダに、そして制作に関わった全ての人にこの映画を作らせたのだと思う。



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