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江戸幕府の成立

第百五十四回 サロン中山「歴史講座」
令和五年6月5日

瀧 義隆

令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
メインテーマ「徳川家康の人間模様を考察する。」について
今回のテーマ「江戸幕府の成立」について

はじめに

江戸時代後期の、平戸藩主であった、松浦静山が著した随筆の『甲子夜話』に書かれた
織田信長・・・「鳴かぬなら、殺してしまへ、ホトトギス。」
豊臣秀吉・・・「鳴かずとも、なかして見せふ、ホトトギス。」
徳川家康・・・「鳴かぬなら、鳴くまで待てよ、ホトトギス。」
この川柳に見られる、三人の英傑達の性格分析であるが、「信長は短気者」、「秀吉は強権者」、「家康は耐久者」、を言い現しているが、家康は本当に「天下取り」を「耐えに耐えた上で」手にしたのであろうか?

今回の「歴史講座」では、家康の関ヶ原合戦後の行動に焦点をあててみたい。

1.「大名統制」について

徳川家康は、慶長五年(1600)九月十五日の「関ケ原の合戦」で勝利すると、豊臣秀頼の支配する政権を無視し、むしろ「新たな天下人」として徳川政権樹立に向け、次々と政策を実行し、他の大名達が徳川氏に抵抗し得えない状況へと政治力を拡大していくのである。
その実状を見ると、

①幕藩体制の確立
徳川氏の幕藩体制を考察するには、最初に「大名の種類」をみなければならない。

●「親藩(しんぱん)」
親藩の大きな役割は、もし徳川将軍家に、男系男子(将軍継嗣)がなければ、尾張・紀伊・水戸の三家から将軍を出すように決められた。この三家は「徳川」の姓を名乗る事が許され、他の一門は「松平」の姓を名乗った。「徳川家御一門」とは、将軍の子弟や御三家の分家を指すものである。

御三家とは、
尾張藩(藩祖は家康の七男の徳川義直)
紀伊藩(藩祖は家康の十男の徳川頼宣)
水戸藩(藩祖は家康の十一男の徳川頼房)

●「譜代(ふだい)・譜第」
「譜第の臣」といわれる、関ヶ原の合戦後に、徳川家に数代にわたり仕える家臣の内、特に功績に秀でた者を、家康の代になってから、大名にとりたてたもの。
「願い譜代」・「譜代格」・「準譜代」等があり、また、徳川家に臣従した時期により、「安祥譜代」・「岡崎譜代」・「駿河譜第」等と、複雑になっている。代表的には、水野家・本多家・大久保家・酒井家等が有名であるが、時代によっても譜代大名の数は大きく異なっている。
※この「譜代(第)」について史料をみると、

「姓名部五 譜牒譜第本朝俗世系不絶数代属其家日譜第出續日本紀」

『古事類苑 47 姓名部』吉川弘文館 昭和42年 375P

『續日本紀』は、平安時代の初期に、菅野真道等によって完成された「史書」であり、基本が奈良時代の史料であることから、「譜第」については、奈良時代には存在する地位であった、と考えられる。

●「外様(とざま)」
関ヶ原の合戦の前後に、新しく徳川家の支配下に組み込まれた大名のこと。「外様」とは、もともとは主家とは緩い主従関係にある家臣で、室町時代から外様の用例が見られている。江戸幕府における外様大名は、豊臣政権時代には徳川家康と同列の大名達で、戦略的な意味合いから、関東や京・大坂・東海道の要地には置かれることはなく、江戸から離れた地方に配置されていた。

※「外様」ついて調べると、「鎌倉時代、得宗北条家の直臣である御内(みうち)以外の御家人を指し、室町時代には、大名の格式の一つとして幕府と疎遠な関係にある大名を呼んだようである。江戸幕府では、関ヶ原の戦い以後に徳川氏に服属した大名を親藩・譜代と区別して外様と称している。外様とは、公家社会にも存在し、堂上の公家衆はすべて内々と外様に二分されており、室町時代中期には明確に存在していた。」『国史大辞典 第十巻』吉川弘文館 平成元年 353~354P

このように外様の大名達は、徳川氏所縁の大名達と明確に区別され、警戒されていたのである。

②「武家諸法度」・「天下普請」・「一国一城令」・「人質制度」について

●「武家諸法度」の内容をみると慶長二十年(1615)六月十三日、徳川幕府は、幕府年寄衆(老中の事)の奉書(将軍の命令書)によって、「武家諸法度」を発令した。その内容は、

・文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事。
・群飲佚游ヲ制スヘキ事。
・法度ヲ背ク輩、国々ニ隠シ置クヘカラサル事。
・国々ノ大名、小名並ヒニ諸給人ハ、各々相抱ウルノ士卒、反逆ヲナシ殺害ノ告有ラバ、速ヤカニ追出スヘキ事。
・自今以後、国人ノ外、他国ノ者ヲ交置スヘカラサル事。
・諸国ノ居城、補修ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止セシムル事。
・隣国ノ於テ新儀ヲ企テ徒党ヲ結フ者之バ、早速ニ言上致スヘキ事。
・私ニ婚姻ヲ締フヘカラサル事。
・諸大名参勤作法ノ事。
・衣装ノ品、混雑スへカラサル事。
・雑人、恣ニ乗輿スヘカラサル事。
・諸国ノ諸侍、倹約ヲ用イラルヘキ事。
・国主ハ政務ノ器用ヲ撰フヘキ事。

物集高見・物集高量著『廣文庫 第十七冊』名著普及會 昭和52年 401~402P

以上のように、武士の生活行動に規制を明確にしたのである。
また、後日、「公家諸法度」も制定し、朝廷や公家達の行動にも規制しているが、内容が複雑であるので、省略する。

●「天下普請」について
徳川家康は、慶長八年(1608)二月十二日に、朝廷から「征夷大将軍」に任命されて、実質的に「天下人」となると、各大名に対して「天下普請(大名普請・手伝い普請とも言う。)」を命じた。普請は、慶長八年(1608)から慶長十九年(1614)頃までかかり、各大名にとっては、大変な財政的負担となっていた。この「天下普請」の目的は、対豊臣氏への防衛の為の城を築き、豊臣氏滅亡の為の方策であったと共に、各大名の財政を消耗させてしまう狙いもあった。「天下普請」と称して、改築・補修等を命じた城は、家康の本拠地である「江戸城(武蔵国)」ばかりではなく、「二条城(山城国)」・「駿府城(駿河国)」・「彦根城(遠江国)」・「膳所(ぜぜ)城(遠江国)」・「名護屋城(尾張国)」・「福井城(越前国)」・「高田城(越後国)」・「丹波亀山城(丹波国)」・「篠山城(丹波国)」・「大坂城(摂津国)」・「伊賀上野城(伊賀国)」・「加納城(美濃国)」

以上のような、徳川氏にとって重要地点となる地域の城の整備を、特に旧豊臣方の大名達に強要したのである。・・・・・・・・資料①参照

この「天下普請」に関する史料をみると、

「池田備中守長吉は伏見城の修築を奉り、松平又八郎忠利古田兵部少輔重勝、遠藤馬助慶隆は近江国彦根の城新築の事を奉り、慶隆は美濃加納の城をも築かしめられ、吉川蔵人廣家は御許蒙りて周防国横山に城を築く。(後略)」

『国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』 吉川弘文館 平成十年 99~100P

「池田備中守長吉」・・豊臣秀吉の猶子であったが、関ヶ原の合戦では、徳川方に加わり、その後に鳥取藩主となった。
「松平又八郎忠利」・・深溝松平の一族で、徳川家康に仕えて、三河吉田三万石の領主。
「古田兵部少輔重勝」・・・ 豊臣秀吉に伊勢松坂城を与えられ、関ヶ原の合戦では徳川方となり、伊勢松坂五万五千石の領主となった。
「遠藤馬助慶隆」・・もともと、織田信長に仕えていたが、後に豊臣秀吉にも仕え、関ヶ原の合戦では徳川方に参加し、戦後、美濃八幡の藩主となる。

この史料には、慶長八年(1603)十二月頃に、池田・松平・古田・遠藤等の大名達が、それぞれの城の改修を命ぜられ、また、新規の築城を願い出ていることを示すものである。

●「一国一城令」について
慶長二十年(1615)六月十三日、徳川家康は、全国の大名に対して、次のような「一国一城令」を発布した。

「貴殿御分国中居城をば被残置、其外之城者悉可有破却之旨上意候」

【国史大辞典 第一巻』吉川弘文館 昭和五十四年 673P

「一国一城令」は、「一領国に一つの城」という意味で、領主が住む「居城(ゐじょう)・本城(ほんじょう)」があって、その居城を守る為の領内の各地に「支城(しじょう)」があり、そこには有力家臣が「城番(じょうばん)」として配置されていた。このような臨戦体制のような領国支配を廃止して、「郡奉行(こうりぶぎょう)」や「代官(だいかん)」等を配置して、農民支配を基礎とする体制へと変革させる目的であった。

●「人質制度の確立」
家康は、江戸に幕府を開設すると、慶長八年(1603)七月、御三家を初め、譜代の大名や外様の大名達(原則、一万石以上の大名)、更に、大名の家老達にも「人質」を江戸に住まわせることを求めたのである。「人質」の対象は、正室とその子供であった。この「人質制度」の始まりは、鎌倉幕府にあって、豊臣政権下でも「人質徴収」と称する制度があった。

『徳川實紀』の慶長八年七月の項に、次のような記述がみられ、

「諸國闕地はことごとく一門譜第の人々を封ぜられ、天下の諸大名はみな妻子を江戸に出し置て其身年々参覲す。(後略)」

『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』吉川弘文館 平成十年 85P

以上のように、徳川家康は、各大名に対して、「武家諸法度」・「一国一城令」・「天下普請」・「人質制度の確立」等を強要して、法的にも財政的にも、また、領国支配についても「がんじがらめ」に幕府の支配下に置くこととして、将軍をトップとする幕藩体制の盤石な確立を狙ったのである。

2.「江戸府内を整備する家康」

●「上水道の整備」
徳川家康は、天正十八年(1590)八月一日、江戸へ入府したが、当時の江戸は湿地帯が多く、荒れ果てた土地が点在する状態であったとされていて、井戸を掘っても塩分の強い水しか汲みあげることが出来ず、家康は飲料水を求る為に大久保藤五郎に命じて、「小石川上水」を作らせた。更に、「神田上水」も造成して、領民の飲料水の確保に成功した。(後に玉川上水・本所上水・青山上水・三田上水・千川上水等が開発された。)

●「埋立地の拡大」
家康が入府した頃は、江戸は「江戸前島」と称されるような地形で、現在の日比谷あたりまで海が広がっていたのである。江戸湾の浅瀬に、江戸城の堀を造成する時に出来る土や、神田山を切り崩した土を運んで埋め立てを行って江戸の土地を拡大したのである。埋め立てによって新たに出来た地域が、八重洲・築地・佃島・永代島等の名称で現在にも残っているのである。

●「五街道の制定」
家康は、江戸城の防衛の為に、慶長六年(1601)には、「五街道」を整備して、江戸を中心とする道路整備に着手している。「五街道」は、全て江戸の日本橋を起点としており、
東海道・・・・江戸日本橋~京都三條大橋(五十三次)
日光街道・・・江戸日本橋~今市~日光(二十一次)
中山道・・・・江戸日本橋~京都三条大橋(六十九次)
奥州街道・・・江戸日本橋(または、江戸城大手門から)~千住~白河~宇都宮~福島~仙台~一関~花牧~盛岡~青森~松前~函館(百十四次)
甲州街道・・・江戸日本橋(または、江戸城半蔵門から)~内藤新宿~八王子~甲府(四十四次)

この五街道は、慶長六年(1601)から整備が始まり、「東海道」は寛永元年(1624)に、「日光街道」は寛永十三年(1636)に、「中山道」は元禄七年(1694)に、「奥州街道」は正保三年(1646)に、「甲州街道」は明和九年(1772)に完成した。

※この五街道には、「一里塚(いちりづか)」が設けられて、塚の上には「榎(えのき)」や「松」が植えられ、旅人や運送業者に距離を知らせる目印とした。

3.「貨幣制度を採用した家康」

徳川家康は、関ヶ原の合戦直後の慶長六年(1601)には、貨幣制度に着手し、貨幣の種類を下記のように定めた。

慶長大判・・・・小判8枚(両)2分通常利用されることはなかった。
小判(一両)・・・大名等の上級武士や大商人達が使用していた。
丁銀(ちょうぎん)・・・・関西地区を中心に使用されていて、目方によって価値を決めていた。
一分金(判)・・・4枚で一両となる。(現在の貨幣価値で、一分は15,000円程度。)
一朱金・・・・・16枚で一両となる。
一文銭(銅銭)・・4,000枚で一両となる。・・・・・・・・・資料②参照

このように、貨幣を制定し得た背景には、徳川家康が大久保長安に命じて、「佐渡」や「但馬の生野」・「伊豆」・「石見」等を発掘し、莫大な鉱山を手に入れて、それを幕府に献上していた事にある。これが徳川幕府の財政的基盤を盤石にした要素でもあり、且つ、貨幣を造幣して江戸中心の経済的発展を目指しのである。ただ、この中心となった大久保長安は、長安自身も莫大な金や銀を自分の懐に入れて、贅沢三昧の生活をしていたが為、慶長十八年(1613)四月に中風で死去した後、同年の七月には、家康の命令により、蓄財の調査が行われ、長安の家族がこれを拒否した為に一家七人は切腹させられて、家も断絶となった。・・・・・・・・資料③参照

なお、貨幣制度を改定したのは、寛永十三年(1636)三代将軍の徳川家光の時であり、その後、寛文十年(1670)に江戸の貨幣制度が完成した。

以上のように、徳川家康は、慶長六年(1600)の「関ケ原の合戦」に勝利したものの、実質、「征夷大将軍」に補任されて「天下人」になったのは、慶長八年(1603)の事であるから、「天下人」になる以前から「天下人」を充分意識して、大名統制を初めとして、江戸という都市のインフラの整備・法の制定等を次々と実行し、江戸幕府の確立を非常に迅速に成し遂げたのである。

これを、『徳川實紀』で確認すると、慶長八年(1603)四月の項目に、なお、貨幣制度を改定したのは、寛永十三年(1636)三代将軍の徳川家光の時であり、その後、寛文十年(1670)に江戸の貨幣制度が完成した。

以上のように、徳川家康は、慶長六年(1600)の「関ケ原の合戦」に勝利したものの、実質、「征夷大将軍」に補任されて「天下人」になったのは、慶長八年(1603)の事であるから、「天下人」になる以前から「天下人」を充分意識して、大名統制を初めとして、江戸という都市のインフラの整備・法の制定等を次々と実行し、江戸幕府の確立を非常に迅速に成し遂げたのである。

これを、『徳川實紀』で確認すると、慶長八年(1603)四月の項目に、

「この頃江戸彌大都會となりて、諸国の人幅輳し繁昌大かたならず。四方の遊民等身のすぎはひをもとめて雲霞の如くあつまる。京より國といふ女くだり、歌舞伎といふ戯場を開く。貴賎めずらしく思ひ、見る者堵のごとし。諸大名家々これをめしよせ、其歌舞をもてはやす事風習となりける。 大納言殿もその事聞し召たれど一度もめされず、衆人其厳格に感ぜしとぞ。(後略)」

『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』吉川弘文館 平成十年 80P

「幅輳(ふくそう)」・・集まること。
「游民(ゆうみん)」・・無職の人達。
「身のすぎはひ」・・・職業・「なりわい」の意味。
「雲霞(うんか)」・・・雲や霞のように、人が集まりくること。
「國(くに)」・・・・「お国」のことで、京と書いてあるが、出身は出雲であり、出雲大社の巫女であったが、時期は不明ながら諸国を巡回して「ややこおどり」をひろめ、慶長八年頃から「かぶきおどり」という新たな名称とした。
「貴賎(きせん)」・・富める人も貧しい人も。
「堵(かき)」・・・・垣根や壁のような状態のこと。
「大納言(だいなごん)」・・・・慶長六年(1601)三月に徳川秀忠が大納言に任じられたことから、秀忠を「大納言」の官職名で書き著している。
「厳格(げんかく)」・・・・手加減をせず、きびしいこと。

このように、江戸府中は、急速に発展し、武士階級のみならず、地方の一般の町民達が次々と江戸に流入し、「出雲のお国」が流行らせた「歌舞伎」の元祖も江戸に開設される等、この史料にも江戸の大発展の様子を見る事ができるのではなかろうか。

以上、今回の「歴史講座」で明確になったのは、徳川家康は、「関ケ原の合戦」直後から「天下人」を充分に意識しつつ、着実に徳川政権樹立の方策を強行し、江戸を日本の中心に位置付たのである。徳川家康は様々な施策を実施しているが、このような家康の政治力には、「鳴かぬなら、鳴くまで待てよ、ホトトギス。」に示されるような、家康の「忍耐強さ」と強力な実行力・先見の明があったと考えられるものの、決して家康一人では成し得るものではなく、そこには「有能なスタッフ達の存在」そのものがあった、とも考えられるのである。

まとめ

現代社会に於いても、会社組織に限らず、様々な組織を潤滑に運営していく為には、優れたプレーンの協力がなければ、動かし得るものではない。優秀な人材に恵まれる為には、中心人物となる者が「どれだけの力量を持っているか?」にかかっていると考えられる。その点、家康は、織田信長や豊臣秀吉とは大きく相違する、家康自身の生れながら備わっている「人徳」があったのではなかろうか。家康は、「人は一人では決して動かない。」という事を現代社会にも伝えているのでは、と考える。

参考資料

江戸城
江戸時代の金銀貨幣1
江戸時代の金銀貨幣2

参考文献

次回予告

令和五年7月10日(月)午前9時30分~
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
メインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
次回のテーマ「徳川家康の外交」について

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