質問ではないのですが_身勝手ながらご縁を感じました_拙い文章ですが読んでいただけると幸いです__今日____Peing_-質問箱-

自分ではない"だれかの肯定"をできた。うれしかった。

匿名質問箱サービスが少し前からTwitterの中でいろいろと使われていて、ぼく自身もpeingというサービスにアカウント登録し、決して多くはないものの、質問を受けられるようにはしている。

ぼくの注目度は自覚しているものの、決して高くはない。そのため、運営からのテンプレ的な質問が来ることも少なくないが、ユーザーが投げてくれる質問があり、それがうれしいために継続している。

先日、ぼくのnoteを読んだ、という感想を質問箱に投げてくださった方がおり、その内容にぼく自身が感動した。

ぼくがnoteで毎日更新すること、 #新潟を許容度の高いエリアに という目的に対しての活動をしていることの理由は、この質問箱に投げてくれた様な人を増やしたいと思ってのことだし、そこに完全にマッチした形だ。

そのことがうれしくてたまらないし、もっともっとこんな風に感じて、自分の生活や行動、認識みたいなものが、前向きに1mmでも、1秒でも変容する人を増やしたいし、そのきっかけになりたい。

当該noteは、学校はサボってもいい場所であり、地を張ってでも行かなければならない場所ではない、ということを実体験を基にし、ツラツラと書いた記事だ。

この記事はサボることを全面的に推奨しているのではなく、「体調がすぐれない」と「気が乗らない」は、体調面か精神面かの違いでしかなく、不全状態になる前兆だ。

それを無理やり腕を引っ張りながら行かせたところで、能率を高めるものでも何でもなく、大人がそれを子どもに強要することは、何も考えずに周りの空気に引っ張られているだけではないか、ということを提議したもの。

学校へ行くことは苦行で、それを乗り越えるためには体調管理をバッチリ行い、学校を休むことなく通うことができる人間がすばらしいのだと評価されるなどという誰が決めたのかも分からない常識は疑うべきだ。

つまり、学校には休まずに行くべきだ、というよくわからない前提認識を疑おうとしているのが、このnoteで書いた内容だ。

学校のように閉じられた空間の中では、人間関係がこじれてしまった場合、学生は逃げ場所を失ってしまう危険性がある。

そして、それを阻もうとするのが小さな頃には安全基地として機能していたはずの大人だ。

「学校にはサボらずに行くべきだ」という認識を持つ大人たちは、「気が乗らない」と発言する当人が学校の中でどんな人間関係になっているのかを正確には把握できていない。

正確に把握できていないにも関わらず、他の大人たちが持つ認識に合わせるべきだと思い込み、そこから外れることは「恥ずかしいこと」であるかのごとく振る舞い、その認識を押し付けようとする。

その根本的な問題は、相互にコミュニケーションを図るだけの関係性が構築されていないことにこそあり、そこに疎い大人であればあるほどに、許容度が低く、無自覚な上で追い詰めてしまう。

当該記事は、ぼくが過去に許容されなかったことから書いており、そのことは、ぼくの中で強烈な原体験として記憶されている。

この記事を書くに至った出来事からはすでに20年以上が経過している。当初は負の感情でしかなかったが、現在は負の感情はない。

似たような状況や環境になっている人たちが、少しでも前を向けるような取り組みをしていきたいと考えていて、その様な思いから書いた記事であり、それが今回、はっきりと届いたのだということを自覚できた。

その意味でもすごくうれしかった。

毎日更新するnoteを書きはじめた当初、3ヶ月ほどまでは「なんで書いてるのか」「なんのために書いてるのか」「仕事なのか」「意味あるのか」といった声を聞かされた。

#スポみら の企画をしている段階だったこともあり、この企画過程を一つの共有項目としてつくってみよう、とも思っていたし、対外的に発信していく場を確定させたかったのもある。

大したコンセプトも何も、個人のブログなのだから、コンセプトも何もあるものか、という態度ではじめたのだが、#スポみら を継続的な活動と位置付けたこともあり、「過去の自分を許容する」ことからはじめた。

上でも書いたが、その時のぼくこそ、ぼくが活動を繰り返していることの要因であり、要素であり、要言が含有されている時間をたしかに実感していたから。

似たような許容されなかったり、自分を肯定することもできず、他人から否定され、認められず、認められる方法も見つけられずにいる人は少なからず存在していて、その解決方法は一様ではないことはわかる。

だが、自分以外の誰かが困っているときに、ぼくが書いた内容がきっかけで行動できたり、発言できたり、1mmでも1秒でも行為を変容する機会にすることができれば、これほどうれしいことはない。

匿名での意思表示のため、決して誰かはわからないのだけれど、本当にうれしかったし、表明してくださった方の存在を認知できている訳ではないのだけれど、この学生が少なからずスッキリすることができたのであれば、書いてよかったし、その後に自分の気持ちを書き連ねることで、自分がどうしたいのか、何を求めているのかが明確になった様子が伺える。

そして、ぼくは誰かの記事を読んだ際にはできるだけ自分のコメントなり感想をつけて投稿するようにしているのだけれど、改めて、それを大切にしていこうと思えた。

自己満足な文章かもしれないけれど、そこにはたしかに想いを込めて書いた文章があって、その文章は「人」から生まれていることは間違いない。

すると、感想をくれたサボった人から返信に対する返信が届いた。

真剣に「考えること」ができている彼は、すでに19歳当時のぼくとは比較にならないぐらいに立派な気もする。


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