能力主義とAbleism(エイブリズム)
どうも、ゑんどうです。
『「能力の生きづらさをほぐす」』の著者である勅使川原 真衣さんの著書紹介を兼ねたインタビュー記事に大きく唸りをあげながら読み込んでしまいました。
能力主義とは有能な人たちに与えられた特権である。これはボクがこれまでに送ってきた大したことのない人生の中で得た最も大きな教訓かもしれません。
ボクたちは日常的な生活を送る中で「できる人」と「できない人」を区分けします。しかし、同じ区分けの中だとしても悪意のない「できない人」と、明らかに侮蔑的な視線で送る「できない人」を使い分けてしまうこともあるでしょう。
何を隠そう、ボク自身もそうやって侮蔑的な視線でやろうと思ってもできない人のことを見てきたと自覚しており、当時のことを非常に恥じていますし、大きな後悔をしている次第です。
いろいろな職種や業種を経て、また一事業者として様々な業態の事業者と契約を結びプロジェクトを共にして思うのは、上の記事内でも紹介されているように他者評価なんてものは「置かれた環境次第で見え方が変わる」のです。
得て不得手とは違い、置かれた環境や状況によって発揮できる成果に至るまでの過程が異なるのは誰にだって起こり得ることであり、環境や状況に左右されない人もいれば、上手く乗りこなせる人もいるでしょうが、それだって個々人の特性だと言えます。
今日のnoteは、この「やればできる」とか「できるまでやる」といった精神論的、根性論的、ひいては自己啓発的な論旨を主軸にした人たちは、いつの間にかAbleismって差別をしていることにすら気づいていないのではないかってことを含めて考えてみる機会にします。
Ableismとは何か
Ableismはエイ"ブ"なのかエイ"ビ"なのか発音が難しいのですが、"ブ"の方が近しい発音なので、カタカナとしては"ブ"にしておきます。はい、どうでもいい話をしてすいません。
Ableismとは、能力のある人が優れているといった優生思想的な思考に基づいた、目に見える、見えないに関わらず、大きな特徴や特性(言い方を選ばなければ"障害")を持ってしまった人々に向ける差別と社会的偏見を意味する言葉です。
これは、物理的な障壁から社会的排除や制度的抑圧に至るまで、様々な形態をとることがあり、それは(障害者の)機会、自律性、ひいては幸福を制限することにつながり、その人に不利な状況を生み出してしまいます。
情報やサービスなどがどれくらい利用しやすいか、障害を持つ人や高齢者などが不自由なく利用できるかどうかの度合いを示すことをアクセシビリティと言いますが、アクセシビリティを欠いたあらゆるデザインはAbleismに該当します。
たとえば、ニュースやドラマ、映画など、各種メディアで、障害(できない側の人)を悲劇的あるいは感動的なものとして取り上げること。これは歴としたABleismであり、夏の風物詩となっているあの番組もそうです。
何より、この差別は能力主義的な規範を満たす人々にとっては、優越感や権利の感覚を生み出し、利点にもなり得るため毅然とした対処が必要です。
しかし、そのためには、あらゆる形態の能力主義を認識し、障害者のアクセシビリティ、公平性、インクルージョンを促進することが不可欠です。
(能力主義者からみる)Ableismの利点
能力主義からみるAbleismの主な利点の1つは、人々が努力すべき身体的・精神的能力の基準があるという考え方を強固なものとし、その基準を満たした人々にだけ優越感や権利を与えることができると考えてしまえることです。
その基準を満たした人は「普通」または「健常者」であり、その基準に満たない人たちは「異常」や「障がい者」と位置づけられます。
また、障害は自然な変化ではなく、生得的な失敗や悲劇であるという多様性なんて程遠い考え方を後押しすることにもつながっています。「障害者は健常者よりも能力が低い」、「価値がない」といった考えを強烈に支持しますが、対照的に、健常者は自分の人生や運命をコントロールできていると感じ、自信や自尊心を持つことができるのかもしれません。
さらに、能力主義が行き渡り過ぎている世界は、健常者の社会的・経済的な優位性を促進することがしばしば見受けられます。
たとえば、健常者は、教育、雇用、または公共サービスをアクセスしやすいだけでなく利用しやすくなる場合がありますが、これは健常者を念頭に置いて設計されているからです。
このように、できる側の人たちにとっては能力主義の世界線は大きなメリットしかありませんが、それがあまりにも当然すぎる世界線のためメリットであることすら認識できていないことでしょう。
反面、できない側である障害者にとっては大きなデメリットでしかないわけですが、まず、ボクたちはこれらを認識することが重要だろうと思うのです。
Ableismの問題点
能力主義を貫く人たちが多くいることや不寛容な社会によって生じるデメリットはどんなことがあると思いますか。
あらゆる機会への参加にはじまり、成功への道程に困難や障壁作ってしまいますし、できない側に属してしまっている人たちの自律性、自己決定といった意思をも制限する可能性があります。これは冒頭で記載したアクセシビリティの話です。
教育や医療といった受ける権利があるはずなのに、それを受益することが困難な状況に陥ってしまう社会的なインフラへのアクセスからはじまり、雇用などの面では権利を有しているはずなのに機会を得ることができないなんてこともしばしば発生してしまいます。
能力主義によって支配される世界は、複合的な抑圧や差別を助長することになってしまい、飛躍的な物言いに聞こえるかもしれませんが、人種差別、性差別、同性愛嫌悪など、他の形態に向けた差別を強化することにもつながりかねません。
「できる/できないで何をそこまで」と思うかもしれませんが、能力主義とはできない側に向けた差別的な偏見を抱いてしまうことから始まるものであり、それを認識できていない場合、既にAbleism的な思考をしているのだと気づく必要があります。
それぐらい、ボクたちは「できること」が当たり前の世界観、つまり、能力主義が生み出す「できない側」の不利益を認識し、より公平で包括的な世界観を実現すべきですし、何より、現時点ではそういう世界線を生きているのだと自覚するべきなのです。
Ableismへの向き合い方
能力主義に対処するためには、それが微妙なものであれ、あからさまなものであれ、あらゆる形態の能力主義を認識し、固定観念化し受容してしまっている不公平を自覚することからはじまります。
できないものはできないのです。
日本のメディアに露出する象徴的な障がい者である乙武洋匡さんに、走れといったところで走れませんし、ジャンケンをしろといってもできないことは明らかです。
今は障害といった社会的にはハンディとなってしまうような特性を主題にして話していますが、障害にだっていろいろな種類があるわけで、その多様性を理解し受け入れることをしなければ本当に公平な社会なんてあり得ないわけです。
何より、自分自身が能力主義者として振る舞っていないのかどうかを振り返ることは誰にでも必要なことではないでしょうか。
逆説的に、もしかしたら障害を持っている人が、自身の状況を利用して逆能力主義者的に立ち振る舞ってしまうことも存分にあり得ますし、それを避けるためにも、自身が何をできて何ができないのかを自覚し、他者に強要することのない姿勢や態度を強く意識すべきです。
そのためには努力も必要だし、精神的な鍛錬も必要でしょうが、できない側の人たちに向けた公平な態度こそが、合理的な配慮が当然な社会への一歩だとボクは思うのです。
おわりに
能力主義は有害かつ広範な差別である、というのがボクの根幹的な主張です。なぜ、「差別」といった強い言葉を使うのかといえば、ボクができない側の人間であるからです。
ここでいうできないとは、障害的な文脈でもあるでしょうし、仕事的、業務的な文脈でもあるわけで、自分以外の家族の分脈でもあります。
何より、自分ができない側であると自覚していた方が精神衛生上、適切であると判断していることもなきにしろあらずではありますが、できる側であると思い込んでいた時期にメタメタにされた過去があるからでもあります。
ただ、Ableismは障害の有無にかかわらず、能力といったカラダのどこにあるのかどうかもわからない概念によって規定されてしまうケースが多々あることでしょう。
それが少しでも減っていく世界線になることを期待して、今回のnoteを終わろうと思います。
ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)
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