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「編集」の難しさを実感してます

どうも、えんどうです。

自社のコンテンツ制作を担う立場になってから半年ほど経ちました。とはいえ、本格的に稼働をしはじめたのはここ2ヶ月ほどで、手を回せるようになってきたのは、それこそ1ヶ月以内といったところです。

何が言いたいのかというと、ボクはポンコツってこと。いいんです。自覚してたし、それほどまでにスーパーな人材だって自覚もなかったので、当然の実感なのです。それはいい。

今回の主題である「編集って難しい」ってのは、おそらく、本でも、絵でも、映像でもいいのですが、何かしらの制作物を手がける人たちは通ったであろうし、通っているのだろうと思います。本当に難しいですね。

この困難に感じているだけでは、ただ時間だけが過ぎていってしまい、うまくいったとしても下手くそな進捗をしていくにしても、どこかにまとめないといけないとは思っていたので要素をかいつまんで書いていきます。

全体構成

何を持っても大切であろう全体構成。たとえば、コンテンツの全体的な方針設計を企画で決めるとして、作品などの制作するコンテンツごとに決めるのが構成かな、と。

この構成次第によっては、内容が陳腐なものになってしまうし、それを避けるためには構成の型を決めなければなりません。

これまで、編集する立場にいた事はありませんが、自分でテキストを書くようになっていたのもあり「構成、だいじ」とは認識・把握してました。

当たり前ですが、この当たり前を当たり前として認識するにも、自ら「言葉」や「映像」、「画像」など、なんでもいいので、とにかく「生み出した」「生み出し続けた」経験がなければ理解できないものだろうと思います。

ボクは小学生や中学生の頃に書いてきた読書感想文や卒業文集などを書く際には、「かっこよさそうに」とか「頭がよさそうな」という前置詞を用いた上で言葉を選んでいたぐらいにアホでした。認めます。アホでした。非モテだったので勘弁してください。

当時、全体構成なんて考えていたのかといえば全く考えていませんでしたし、考えられませんでした。

「起・承・転・結」なんてものを授業でやっていたことは認識・把握していましたが、それに対して「かっこいい」「頭の良さそうな」言葉選びをしたい衝動が勝ってしまっていたのを微笑ましく思い返す次第です。

文章で書くのであれば、要素を埋めていくだけで完成するような型が最低限、必要です。それは映像だろうと、画像だろうと、一緒だろうとも。「守・破・離」なんて言葉がありますが、守るべき型がなければ「型なし」で、支離滅裂になってしまいかねませんから、構成の型は決めておくことは一つの安心感だろうと思っています。

文章校正・推敲

自分の文章なり作品であれば、全く構いません。ボコボコに殴られるのだって、リアルな顔に対してパンチを浴びせられたり、お腹にミドルキックを喰らうのでもないもの、それが校正や推敲。校正や推敲でメタメタにされたとしても、それは全然いいのです。納得できます。受け入れられます。自分のものであれば。

自分以外の人に文章を書くことを依頼しておきながら、校正や推敲をすることって、書くことや作ること、生み出すことの大変さを理解しているからこそ、後ろ髪を引かれるような気持ちになるのです。

でも、やらなければなりません。何度でも読んだ上で、全体的な構成を踏まえながら、その中で使われている言葉の中に誤字脱字があるのか。言葉の羅列からの表現で違和感がないか。語句の選び方一つとっても、文章は読まれ方や読み方が大いに変わってしまいます。

全体的な構成を前提として持ちながら校正・推敲をしていくことは、制作物を仕上げる上での必須事項であり、必要要件。そんな風に思っています。

言葉選び

校正・推敲といった類のものと被ってしまう部分があるかもしれませんが、ボクは根本的に「言葉選び」が作品の成否とまでは言わないまでも、制作物として認められるかどうかが変わるであろうと考えています

選べるだけの語彙がある、なんて前提条件が必要にもなるので、小学生や中学生だった当時のボクを振り返っても、語彙が少ない中でどうやって「かっこいい」とか「頭がよさそう」ば言葉を選んで使っていたのか、不思議でなりません。やっぱりアホだったんですね。はい、すいません。

映像や画像でもそうなのですが、「添える言葉」だったり「添えたくなる言葉」が出てくるものっていうのは、制作者や撮影者が自分なりの言葉を映像や画像の中に落とし込めている証拠だと、ボクは考えています。

文章においては言葉の選択を連続的に行うものですから、当然といえば当然なのですが、その当然の中にだって「受け入れがたい言葉」「受け入れやすい言葉」があります。

そして、その言葉の良し悪しを決めるのは「解像度」だったりします。

その文章を読むことによって、細かい情景まで浮かんでくるかどうかは、言葉を選んでいる・使用している当人が、どこまで解像度を高くして書き切っているのかどうか。

抽象的な物言いになっていたとしても、具体的な事象を表現する際に解像度を高くできていると、納得感や腹落ち感の高い文章として印象に残りやすくなります。

ただ、それをするためにも装備としての語彙が必要だ、という前提条件は変わりませんので、普段からどれだけ語句や語感を読書物から読み取り、感じとるのか。

もし、仮にそれが苦手な人だとしたら構成でどこまでカバーできるのか。

こんな風にして日々の業務を行っている次第であります。

それでは、また。

遠藤 涼介(Twitter

株式会社シーエスレポーターズ(コミュニケーションデザイン室の室長/ SNSチームリーダー)https://cs-reporters.com / オフィスえんどう代表/ #スポみら 主催者 /クラウドファンディング達成者/ #えんどうnote 更新中 / #オールユアーズ公認共犯者

所要時間: ガガーっと思ったままのテキストで40分ほどでした。

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