見出し画像

“ホントの自分”なんていない

いないだろう、いるわけがないじゃないですか。

それを語る人は誰なんでしょ。紛れもなく、ホントの自分がいると思ってる、あるいはホントの自分がいると述べている人自身ではないんですか。

よく自分探しの旅、なんて耳目しますが、どこに行ったって探せるわけがありません。だって、そうじゃないですか。探そうとする人自体はいるわけで、どこにも行ってませんから。

それが分かっているはずなのに、どうして“自分を探す”だなんて、捉えようによっては矛盾していて、その上、自らを否定するような考えをしてしまうのでしょう。

おそらく現状、自身が置かれてる状況や環境などに不満や不安があり、自身が満足する生き方ができていないと認識、知覚しているのだと思います。

その環境や状況で引き出される感情が自身の望むものではないだけでなく、その強度(質)や数(または頻度)といった割合が多いのでしょう。

本人からしたら不本意な形や状況なので、それを解消することは、その環境や状況を打破しなければなりませんが、日々の生活をどうにかするためには我慢を続けなければならなかったり、引き出される感情を飲み込む他にない、なんてのは十分に理解できます。

ただ、そこで折り合いをつけられる人はまだいいのかもしれませんが、僕のように折り合いをつけるのが下手くそで、付き合い方も未熟な人間はうまく処理ができず、抱え込んでしまった結果、精神的な疲労感を抱いてしまいます。

それを抱き続け、一気に吹き出してしまうと精神的な病として発露した結果、自分や周囲の人間が気に病み続けることになってしまいかねません。

では、どうしたらいいのでしょうか。

彼は僕が経験してきた内容から出した一つの方法ですが、自身の尊厳を保っていられない状況なのであれば逃げだして構わないのではないでしょうか。

僕は決して強い人間でも、賢い人間でもないですが、なんとか生き長らえることができているのは、そんな風に切り替えるポイントを多く設けているような態度が奏功しているのかも知れません。

無論、それによって損なうものもあるとは思いますが、自身の健康や生命よりも優先させなければならないものなど、共に生活をする子どもたちの存在以上のものなどありません。

僕はそれをベースにして考えるようになってから、一定程度、保てているような気がします。

なんだかとりとめなくなってしまいましたが、早起きの長男と三男を連れて公園で虫を追いかけながら書きましたので、ご容赦ください。

では、また。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!