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ぼくはなんで子どもが好きなんだっけ

 10連休中のGWも、すでに折り返し地点を過ぎ、そろそろ身動きをとろうとする意思が弱まってきて、再び仕事に行くまでのカウントダウンを肌で感じている人も増えてくる頃かと。

 そんなぼくは世間的な連休に入る前の状態から特に変わりもなく、平常通り、仕事へと勤しんでおり、せっかくの連休なのに子どもたちと出かけられない事実が、ものすごくツラく、寂しい気持ちとなって押し寄せてきているため、毎日涙で枕を濡らす日々。

 世の中の父親や母親のみなさんが、どんな意識や認識をもち、幸運にも共に暮らせるようになった子どもたちを見ているのかはわかりませんし、ぼくに対して話をするのと、実際の子どもたちに対する接し方に乖離がある場合も決してないとは言えないでしょう。

 ぼくは子どもが大好きです。いや、大好きになりました。幾たびか書いているものの、元々は子どもが(どちらかと言えば)嫌いで、友人や知人に「子どもができた」「赤ちゃんが生まれた」と聞いって見に行ったとしても「カワイイ」と感じる機会は皆無だったし、そんな状態なもんだから口に出して「カワイイ」を発する機会もあるわけがありませんでした。

 それが今となっては、自分が運よく子どもたちと共に生活をする機会を受け、1人、2人、3人と人数が増えるたびに、幸福度が増しているのを実感していますし、街中でまったく知らない家族の子どもを見かけても、ついつい微笑んでしまいます。自分で言うのもなんですが、気持ち悪いぐらいに子どもが好きになりました。

 ぼくはなんで子どもが好きになったのでしょうか。ふと気になったので考えて見ました。

 ぼくの抱く家族観は「家族は"他人"の集合体」です。血が繋がっていようがいまいが、根本的には別人格の個人である、と考えています。だから、ぼくが考えるすべてを長男をはじめとした子どもたちが理解できるわけがないし、その逆もまた然り。もちろん、我が家の妻も同様。

 一緒に過ごす時間や場面が多いからといって、全てにおいて理解できるわけではないですし、できるようになるとは思えません。しかし、共に過ごす時間や場面が多くなればなるほどに、共感する場面が増えますよね。

 つまり、それは感情の上下左右への振れ幅を同期できる機会がたくさんあるわけで、それが増えれば増えるほどに、喜怒哀楽の機会を共にすればするほどに、いわゆる「絆」と呼称される目に見えない相手を思える力が育まれるものだとは考えています。

 子どもとの生活は決して楽ではありません。

 大人たちがこれまでしてきた壮大な無駄を、子どもとして生まれてきた瞬間から全て0ベースで身につけなければならないし、取り組んでいかなければなりません。生まれた瞬間は目も見えなければ、言葉も話せません。歴史上の出来事を勉強などを通して学び、記憶に定着をさせる作業を取り組み続けなければなりません。

 生まれてきた瞬間に、それまでの人類が取り組んできたすべてを脳内にインストールすることが可能になれば......SFの話でしかありませんが、戦争などに無駄な歴史を繰り返してしまうような愚かな無駄を犯さなくなるのではないか、なんて考えもします。

 何もできなかった「子ども」が徐々にできる事柄が増えてくるのと同時に、自我も芽生えて嗜好が出てきます。気分によって嗜好が変わるものだから、数時間前には「好き」といっていたのに、平気で「嫌い」「いやだ」と述べてしまっては、楽しい食事の場面を重苦しい空気の蔓延する場面へと一瞬で切り替えてしまったりします。

 夢中になると、ただでさえ視野が狭いのに、ググーッと入り込んでしまうがために、危険が迫っていても認識すらできない場面だって少なくありません。信号待ちをしていて、信号が赤なのに、横断歩道の模様しか見てないがために渡ろうとする、なんてのも平気でできてしまう。

 彼らと接していると世の中の「危険」に気づく機会が多く、それを認識しながら安全対策を練って生活をするのが必然となります。

 そんな風に大変な思いをしているのに、なぜに好きだと言えるのでしょうか。それを考える上で、彼らの行動をじーっと、共に遊びながら本当にじーっと見ていたんですが、あることに気づきました。

 基本的に効率化されていない彼らの行動は無駄だらけ。無意味な行動だって本当にたくさんあります。だけど、それが必要なんですよね。いかにして無駄を多く経験するのか、その経験した内容を自分の行動に反映させるためにはどうしたらいいのかを考えながら試行錯誤を繰り返しているんだとわかりました。

 そして、その「無駄さ」は「自然」なんです。効率的に行動をしたり、考えずに行動できるようになることは「意味」を増やすことです。AをやるにはCが邪魔だから、CをやらずにBをする。もうちょっと具体的にすると、ブロックで遊ぼうとする際に、近くに別のおもちゃがあると、どこになんのブロックがあるのかわからなくなるから、ブロックで遊ぶ際には他のおもちゃは片付けよう。

 これは大変に「意味のある行動」です。そして、ブロック遊びを効率的に行うために無駄を省く行動だとも言えますが、散らかっている様子を彼らは正直、なんとも思っていません。もちろん、欲しいブロックが見つからない時には必死になって探しますが、そこに転がっているのがブロックであろうが、ぬいぐるみであろうが、プラレールであろうが、どうってことない。

 その「意味のない行動」を徐々に徐々に「意味のある行動」に変容させていく過程を見れるのが、なんとも言えない至極の時間だと感じるわけです。

 それと同時に、普段から「絆」を育む対象であるぼくや妻に対し、無条件で「母親」「父親」の役割を求めてくれる無垢さと、ところどころあるハグをはじめとしたスキンシップを自然と求めてくれる「頼りなさ」が愛しいんですね。

 その無意味さの持つ儚さと、頼りなさからくる無垢な表現を目にする機会が多くなったからこそ、「カワイイ」と思えるようになったし、好きになれたのだと気づきました。よかったよかった。

 ちょっと長くなってしまいましたが、今日はここまでにしておきますね。

 今日もお読みいただきありがとうございます。そんな彼らの行き方を見習わないといけないな、と思うこともあれば、頑張らないとなって思う時もあります。そう思わせてくれる彼らってすごいですね。


ぼく:遠藤 涼介/Endo-san (@ryosuke_endo

#スポみら (元 #スポーツの未来に僕たちができること )オーガナイザー。 第一弾、新潟経営大学イベントの資金調達を目的に行ったクラウドファンディングは3サイトで募集し、すべて目標達成(総合達成率140%)#新潟 を #前向きな空気の溢れるエリア にすべく活動中。

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