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分人主義とは何か

【警告】
小説作品における物語の重要な部分に触れています。未読の方は十分に御注意下さい。

このテキストは『平野啓一郎論』の第一章にあたります。(全六章)

分人とは

平野啓一郎氏は近年「分人主義」を提唱してきた。「分人」とは何だろうか。それは「個人を分割する」という発想である。本来、これ以上分けられないという意味の「個人」(individual)を分けてしまおうというのである。
氏は「個人」という考え方は、元々西洋文化に特有のものであるうえに、現代においてアイデンティティの問題や他者との関わりについて考察するのにそぐわなくなってきているという。彼が「個人」の代わりに提唱しているのが「分人」(dividual)である。
自らの小説作品の中でも分人主義は実践されている。
たとえば『ドーン』の登場人物たちは分人主義を当たり前のように共有し議論しているし、『空白を満たしなさい』では、主人公の自殺の謎が分人主義によって解き明かされる。
「一区切りついた、という実感」(『考える葦』)というエッセイにおいて平野は「『ドーン』で〈分人 dividual〉という概念に至って以来、私はもう後戻り出来なくなってしまった。自己の把握の仕方も、他者の理解も、文学作品の見え方も変わった」と語っている。
登場人物たちによって直接分人主義が語られない作品においても、その底流に流れるのは分人主義であり、従って、平野啓一郎作品を語るにあたっては、まず「分人主義」とは何かについて理解しておくことが何より重要である。

『私とは何か——「個人」から「分人」へ』は「分人主義」について詳しく知りたいという読者からの要望に応えた著作であるという。
この中で平野はこう語っている。
一人の人間には、仕事をしている時、家族と過ごしている時、友人に会っている時など、様々な顔がある。通常、人は、その場に応じて、あるいは相手に合わせて、色々なキャラを演じ分けて生きているのだと考えられている。人は、シチュエーションごと、場面ごとに応じて様々な「仮面」を被る。しかし、仮面の裏には「本当の自分(自我)」というものがある。そんな風に考えられていたのである。しかし、そのような考えには無理がある。
人間が、常に、場に応じて空気を読み「仮面」を被って生きているのだとすると、人間関係とは、ニセモノの仮面を被った者同士の、その場限りのかりそめのコミュニケーションに他ならなくなってしまう。また、日々の生活とは、ニセモノの自分を生きるだけのものに過ぎない。それが人生だとしたら、とても虚しいではないか。
平野は「本当の自分がどこかにある」という考えが良くないのだと言う。分人主義では、対人関係から離れたところに「本当の自分」があるのではなく、誰と会っている時でも、その対人関係ごとの顔が、全て「本当の自分」であると考える。そして、そこにしか「本当の自分」はないのだ。それこそが「分人」である。
表の顔(仮面)と裏の顔(本当の自分)を区別するという考えだと、実際には「本当の自分」がどこにあるのかは全く分からない。我々は、常にぐらぐらしている足場(自我)の上で、日々、偽のコミュニケーションに身を窶(やつ)す、悲しい存在に過ぎない。
分人主義では、一人の人間の中に複数存在する分人全てが「本当の自分」であると考え、各分人を全て足したものが「個人」だと考える。そして、中心に存在すると思われていた「自我」ではなく、各分人の構成比率が、その人の個性であるとする。
「その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される」
分人のネットワークの中心には何もない。
そして「分人」と「個人」の発想の根本的な違いは、分人が対人関係のコミュニケーションにおける濃度を基準に考えられている点にあるだろう。
著者は、人間におけるコミュニケーションの大切さを繰り返し強調する。
(分人とは)すべて他者との出会いの産物であり、コミュニケーションの結果である。他者がいなければ、私の複数の分人もなく、つまりは今の私という人間も存在しなかった」
私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない
分人主義では、分人関係を三段階に分ける。
まずは、ステップ1。まだ相手をよく知らない段階である。ここでは、不特定多数の人間との、汎用性の高い分人が想定される。考慮されるのは地域差くらいだ。
たとえば、コンビニでレジを打つ店員と、特別な人間関係を取り結ぶことは通常ない。平野は大学時代、近所のコンビニに毎日のように通ったという。そこには自分と年の近い店員がいつもいた。しかし、ついに彼とは一度も会話することはなかった。とはいえ、それは特別珍しい話ではない。コンビニという場では、社会常識の範囲での儀礼的なマナーがあればそれで良いのだから、毎日顔を合わせたとしても、店員とことさら仲良くなる必要はない。
ただし、地域差というものは意外に重要なものかも知れない。
著者は地域と分人に関する、とても面白い例を挙げている。
平野は、京大生だった頃、大学の友人たちと焼肉を食べに行った時に、丁度高校時代の同級生が北九州からやって来ていたので一緒に連れていった話を書いている。しかし、高校時代の友人と大学の友人では、言葉(郷里では北九州弁)も違うし「ノリ」も違う。モードを切り換えながら喋るのを目撃されるのはかなり恥ずかしかったと書いている。その気持ちはよく分かる。
問題は、相手には自分の分人は決して見えないということである。平野自身は、大学の友人向けの分人と高校の友人向けの分人を自然に切り換えていたという。しかし、当然だが、友人からすれば、目の前には一人の平野がいるだけだ。平野は、人格そのものがころころ変わる、軽薄で滑稽な人間に見えた(かも知れない)。恐らく、分人の切り換えが自然であるなら余計に。
彼らに自分がどう見えていたかと考えると恥ずかしいのである。
ここでは「地域差」という、カテゴリーでのコンフリクトが起きているといえる。
さて、ステップ2は組織(集団)内での分人である。ここでは一般社会におけるそれ(コンビニでのやり取りのような)より、より緻密でローカルなルールが存在するであろう。
ステップ3が特定の相手に向けた分人で、完全に一対一の、その人向けの分人である。
ステップ1からステップ3に進むに従って、より濃密な対人関係となる。
平野は、初対面にも拘わらず、いきなり自説を40分間に渡り開陳し周囲の人間を閉口させた「演説男」の例を紹介している。
繰り返しになるが、注意しなければいけないのは、分人対分人として対峙している際、たとえ、自分の分人を意識することは出来たとしても、相手の分人は決して見えないということである。どんな時でも、相手は分人ではなく一つの人格を持った個人に見えてしまう。
「演説男」は、一見、無礼で性格の悪い人間(人格)に見える。しかし、分人の総体としての個人はこちらからは決して見えないのだから、どんなに嫌な奴でも、人格そのものを否定することは出来ない。
彼は確かに、一切気を遣わず、空気も読まず、思ったことをそのまま喋っている。しかも、それはひたすら一方的であり、こちらにしてみれば大変不快である。彼は、周囲の人間が抱いているその不快感を斟酌することすらしない。とはいえ、彼は人格下劣な人間なのではない。ここで生じているのは、分人関係のステップにおける錯誤なのだ。初対面なのに、ステップ1や2を経ずにいきなり3に進もうとしたのが悪いのであって、元々の人格に問題があるとまではいえない。その証拠には、恐らく彼といえども、既にステップ3に至っている友人たちとは良好な関係を築けている筈である。
平野は「コミュニケーションは、極力シンプルな方がいい。お互いに色々と気を回さずに、思ったことをそのまま言い合うのが理想だ」と語っているのだから、基本的には、人間関係というものはステップ3に進むのが良いとされているようだ。
「私たちは、相手の個性との間に調和を見出そうとし、コミュニケーション可能な人格をその都度生じさせ、その人格を現に生きている」と平野は言う。「なぜなら、コミュニケーションが成立すると、単純にうれしいからである」。
この「うれしいからである」という言い方が実に平野らしいのではないか。
「複数の人格のそれぞれで、本音を語り合い、相手の言動に心を動かされ、考え込んだり、人生を変える決断を下したりしている」。
つまり、それら複数の人格は、すべて「本当の自分」である。「本当の自分」であると感じられる関係には喜びがあるのだ。
ただし、分人関係のステップという考え方は、若干危うい。何故なら「本音で語り合える関係において本当の自分が実現されている」と語る平野にとって、本当に分人関係と呼べるのはステップ3の関係だけにも見えるからだ。
平野が、パリで日本語学校に入学した時の話である。
彼は、思いがけず上級クラスに入れられてしまい、落ちこぼれてしまう。他の生徒との会話に全くついていけなくなり、結果として教室の中では、随分と陰気な人間になってしまった。別に陰気なキャラを演じた訳ではない。自然に陰気になったのである。
ところが、日本人の友人と昼御飯を食べに行くと、一瞬にして快活になる。
平野は、あの時同じクラスだった人たちは、もう私のことを忘れているだろうという。つまり、彼らとは分人関係を築けなかった。残ったのは場に対する不快感・違和感だけである。「本当の私=真の分人関係」どころか、関係性そのものがなかったのだ。
昼飯を食った友人とは関係性があったし、恐らく今でも友情は続いているのであろう。
ただし『私とは何か』の別の個所では、あの語学学校での分人は暗いスイス人(同級生)たちのせいだったとも語っている。
やや整合性を欠く説明だと思う。日本語学校の同級生たちとは本当に分人関係が築けていたのだろうか。ステップ1や2の、社会常識やクラスのマナーでの範囲内の分人関係なら、別に暗くなる必要はない。フランス語の勉強が進まないことには苛立っても、クラスメートを気にする必要はない。コンビニの店員に接するように接すればよい。
また、彼が殊更に言う「スイス人」というのは国民性のことだろうか。だとしたら単なる偏見である。
言葉が通じず、今では、国籍以外、どこの誰かも思い出せないような人たちとも、ステップ3の分人関係が存在したのだろうか。
それはステップ2の組織内での分人関係にすら達していなかったのではないだろうか。コミュニケーションそのものがほぼ不可能だったのだから。
友人たちとの例で言えば、高校時代の友人と大学の友人、それぞれのやり取りを双方に見られるのが恥ずかしかったのは、そこに濃密な関係性があったからである。感情生活が存在していたためである。
親とのやり取りを見られるのも恥ずかしいし、恋人との会話を盗み聞きされたら、更に恥ずかしいであろう。そこには感情の交流があるからだ。
しかし、友達とコンビニに行って買い物している様子を見られても、別に恥ずかしいところは何もない。コンビニの店員とは、単に社会常識の範囲内での儀礼的な関係に過ぎないからである。
実は「分人」に三段階を用意してしまったために「分人」の本質が見え辛くなってしまっているのだ。
「分人」は、他者との関係性の中にしかない。「本当の自分」とは、他者の他者性を受け容れることができる分人である。他者と十全にコミュニケート出来る自分である。
そう考えると、単なる社会的な、儀礼的な関係をも含めて分人と呼ぶのは若干説明が破綻しているように思う。

ところで、著者は、分人主義の利点として「気が楽になる」あるいは「問題が一気に解決されるわけではないが、現状を見つめ直すことは出来る」と述べている。確かに「演説男」の例を見ても、非常に居心地の悪い状況で、単に怒ったり、相手に責任を押しつけたりするのではなく、その状況を冷静に分析して見せるのは、分人主義の良いところが表れているように見える。
人が見ているのは分人の一つに過ぎないのだから、こちらからは相手の人格を決して否定出来ない。ということは、同時に誰からも自分の人格を否定されないということでもある。これは大変「気が楽」である。
会社で上司に叱責されても、手ひどい失恋をしても、それは決して人格の否定ではない。分人と分人が合わないだけなのだ。ミスマッチであって、人格の否定ではない。別の場所では、あるいは別の組織、別の機会においては良好な関係が築けたのかも知れない。むしろ意気投合していた可能性すらある。
また、こちらが本音を相手に伝えたとしても、その言葉の暴力性によって相手の全人格を傷つけてしまうことはない。そもそも分人主義では相手の全人格を見ることはできない。見ることも知ることも出来ないものを否定するなど不可能である。従って、無駄に慎重に発言する気遣いは不要だ。そう考えることによっても「色々気を回さずにすむようなシンプルなコミュニケーション」が実現され得るであろう。
『私とは何か』という著作は、結局、自己啓発書の一種として読める。
何故なら「自己啓発」というのは、新たな自己分析の視点を提供されることによって、自分というものを見つめ直し、自己改革への一歩とするというものだからだ。
「分人主義」は社会変革の思想ではない。社会(対人関係)を内面に取り込んだ上で、そのような自分の内面を自省するものである。
この著作は「分人」という新たな視点によって、自分を見つめ直す足がかりを提供する。「自己啓発書」の定義にぴったりなのだ。

社会と個人

平野は、個人を分割したものが分人なのだという。では、そもそも「個人」とは何だろうか。
「個人は、確かに分けられない。しかし、他者とは明瞭に分けられる。区別される。だからこそ、義務や責任の独立した主体とされている」(『私とは何か』)
平野は、このような考え方は根本的に間違っているという。「個人は分けられないが、他者とは分けられる」のではなく、むしろ「個人は分けられるが、他者とは分けることはできない」と考えるのが分人主義である。
しかし、実は、このスタート地点において既に「分人主義」の大きな矛盾点が露呈している。
「分割可能な個人」とはいったい何なのだろうか。
平野は「個人」とは西洋文化に独特の発想であると書いている。それは、明治期に二つの考えの輸入によって日本にもたらされた。
一つは、キリスト教における「二人の主人に仕えることは出来ない」という一神教の考え方である。ただ一つの神に対峙する人間は、確かにただ一つの人格を持つ存在でなければならない。何故なら、人格が複数あったら、複数の神に仕えることが可能になってしまうからである。ここにおいて、唯一の「個人」というものが必然的に発生する。
また、もう一つ輸入された「西洋文化」は、論理学における「個体」という考え方である。
社会をカテゴリーによって分類し、国家や地域、会社、学校、家族などと分割していった先にあるのが「個体」としての「個人」であり、逆に、個人を束ねていけば組織や社会が現れる。
そう考えると、個人が分割不可能で厳密な一単位でないと、論理学(集合論)は成立しない。
平野のいう「分人」とは、そのように分割出来ないと思われていた「個人」というものを、社会生活における対人関係によって分割してしまおうというものだ。
『理想の国へ-歴史の転換期をめぐって』という平野との対談集の中で、大澤真幸氏は「「分人」について考えると、個人の身体の中にすでに社会が入っている」と語っている。
大澤の指摘通り、結局「分人」というものは、社会関係を内面に取り込んでいるのだ。
平野によれば、「個性(その人らしさ)」は「自我」ではなく、複数の分人の構成比率によって決定される。分人の構成比率とは、そのまま、その人の対人関係そのものであり、社会性である。
翻って「西洋文化」においては、個人は社会の一要素に過ぎない。
分人主義では、人の中に社会(の人間関係)の反映を見るのだから、全ての分人の統合(個人)が、(その人にとっての)社会全体に対応しているといえる。
平野がいかに社会性を重視しているかというのは、『私とは何か』の最後で、文化多元主義と多文化主義に触れている点からも明らかであろう。詳細を述べるのは避けるが、社会思想の潮流によって分人主義が影響を受けるというのは、分人主義が社会を相当意識していることの証左である。
ただし、ここで、大きな疑問が生じる。
著者は、分人を全て足せば個人になるという。本当だろうか?
日本人には、キリスト教も論理学も明治期に導入された馴染みの薄いものであることは著者も認めている。キリスト教と論理学によって設定された「個人」と、対人関係を取り込んだ「分人」とでは、そもそもの発想が根本的に異なる。
平野の説明を素直に読めば、キリスト教も論理学も、ほぼ無縁な日本人にとって、分割すべき「個人」などというものは最初から存在しない。それなのに、分人を統合したものが「個人」になるという。
元々の定義を否定したものを分割し、かつ統合したら、その定義に戻ってしまうというのはおかしな話ではないか。
社会をカテゴリー(部分集合)で分割していった先に個人があり、個人の集合が社会である。それは良いのだが、更に言うと、我々日本人には「個人」がないだけでなく「社会」というものが存在するかどうかも怪しいのではないか。あるのは個々の対人関係だけなのではないだろうか。それは「社会」ではなく「世間」である。我々にとって「分人」という考えが受け入れやすいとしたら、そもそも我々が、その場その場の対人関係のみ(世間体)で生きているからであるように思われる。
「分人主義」は、本当は「分人関係主義」と称した方がより適切であっただろう。
問題は、個人(individual)のもじりとして分人(dividual)を設定したことにある。個人主義と分人主義はほぼ関係がないにも拘わらず。
確かに、大変語呂は良いし、そう呼びたい気持ちは分かる。しかし「個人」の存在しないところにおいて「個人の分割」を提唱するのはそもそも不可能なのである。
とはいえ、話を再度引っくり返すようで申し訳ないが、にも拘わらず、後の章で検討するように、恐らく平野にとっては、個人を分割し、かつ再び統合するという発想には大きな意味があるのだ。
既に述べたように「分人主義」という考えは自己啓発的にそれを捉えた場合には一定の意義があるといえる。しかし、それ以上に大きな意味を持つのは平野作品の読解においてである。平野作品は、人間の分割と統合というファンタジーを常に描いているからである。むしろ、分人主義に矛盾があるからこそ、そこにファンタジーの生まれる余地が存在するともいえる。平野にとって、個人は分割され得るものでなければならないし、分人は統合可能なものでなければならない。

本当に中心はないのか

「「本当の自分」はどこにあるか」は『私とは何か』第一章のテーマでもある。
平野は分人の背後に「本当の自分」という中心はないと言う。あるのは、各分人のネットワークだけである。
嫌な上司、あるいは教師でもいいが、そのような人間に適当に調子を合わせて話している時の自分は「ウソの自分」であり、部屋で一人になって考えごとをしている時の自分こそ「本当の自分」であるというのが、分人主義以前の、従来の考え方であった。平野も、中学高校ではクラスに馴染めず疎外感を感じていたが、一人で好きな本を読んでいる時には、これが「本当の自分」であると思えたという。
しかし「分人主義」では、部屋で一人きりで考えごとをしている時でも、それが「本当の自分」なのだとは考えない。たとえ一人でいる時でも、人は、直前に会った人のことを考えていたりする。つまり、直前の自分(その人との分人)を引き摺っている。一人でいる時でも、人は、常に誰かとの分人として考えごとをしているのである。
『空白を満たしなさい』の終盤、主人公の土屋徹生は、あるNPO法人の代表である池端と「分人」について議論する。池端は言う。
「人間は、一人になった時も、いつも同じ自分で考えごとをしているのではありません。その時々に違った分人で考えている。誰かと一緒にいた時の分人の余韻、人格の名残のようなものです。」
他の誰からも切り離された自己としての「本当の自分」はない。
逆に言うと、分人全てが「本当の自分」である。
ただ、中心になる自分というものがなかったとしても、それぞれの分人の中で、特に快適に感じられるものに軸足を置き、その比率を高めることで、より自分を好ましく感じられる存在にしていくことは可能だと平野は言う。
分人関係が対象、場所と切り離せない以上、分人の構成比率を変えるとは、対人関係の整理(仕事・生活する場所を変えるなど)に帰結する。環境を変え、分人を整理するのだ。ただし、それは社会に対する働きかけではない。社会の中での自分の立ち位置の変更である。
ただ、では、そうやって分人の構成比率を俯瞰して眺めている私とは何なのだろうという疑問が生じる。「本当の自分」というセンターが存在しないのだとしたら、俯瞰している自分とは一体何なのだろう。
平野は、自分にとって好ましいと思われる分人に軸足を置いて思考せよと言う。
また、分人は、人との関係だけでなく、好きな物(音楽などの趣味において)との関係においても発生するとも言っている。
「必ずしも直接会う人だけでなく、ネットでのみ交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る」
実際、学生時代、敎室で疎外感を感じていた著者が、自分を救ってくれたものとして紹介しているのは三島由紀夫とトーマス・マンである。氏は、読書によって生じた、三島やトーマス・マンとの分人関係を現在も大切にしている。
さて、分人を統合する中心としての私は存在しない。
かつ、小説や音楽といった、物との関係も分人化できる。
だとすると、ここから導き出せる結論は明快である。
この著作『私とは何か』を読み、その思想に共感した読者にとって、軸足を置くべき分人とは、この本であり、この本を通じて知りえた平野啓一郎氏との分人以外にない。
私は、この本が自己啓発的だと述べた。
自己啓発書の忠実な読者は、著者に心酔しつつ、自己変革を試みるものだ。たとえば、膨大なフォロワー数を誇るインフルエンサーと、彼の著作を購入する熱狂的なファンを見ればよい。
『私とは何か』で「分人主義」に出会った読者は、新たな自己分析の視点を得る。そして平野氏に励まされながら自己改革を試みようとするのである。
そういう意味でも、この本は自己啓発書の一種と言える。
あるいは「分人主義」というものに、どことなく反発を感じる人間がいるとしたら、それは著者との分人関係をうまく築けなかった人なのである。彼は、要するに平野啓一郎という人物が何となく好きになれない、虫が好かないのだ。
また、平野は「本当の自分」とは何かという点について、実に彼らしい例を挙げている。
平野は、中学高校時代の敎室ではとても孤独であり、大好きな小説を読んでいる時の自分こそが「本当の自分」だったと感じていた。ただし、そう語った後で、すぐに平野は、中学や高校時代の友人が、これを読んだらどう思うだろうかと考えると心が痛むと言うのだ。そのような物言いは、中学高校時代の友人に悪い気がする、と。
これもまた平野らしい。
真の(ステップ3の)分人関係には「喜び」があると彼は語っていた。敎室での孤独を語ることは、その喜びを傷つける。
仮に、クラスメートとの会話が心底嫌で、中学高校時代に忘れたい思い出しかなかったのなら、無論、心は痛まないであろう。それは、むしろ消去したい分人関係なのである。つまり、全ては相手(対象)次第なのだ。「本当」とは、相手との関係性の中にしかないのである。

恋愛と分人主義

また、中心としての「本当の私」を置かない分人主義への疑問として、全人格的な対応が求められる場合どうしたらよいのかという問題がある。その代表的な例は恋愛関係であろう。
『決壊』の主人公である沢野崇は「同じ部分だけ繫がり合って、残りは他の人間と繫がってればいい」と言い、実際、同時に複数の女性と付き合っているような男である。一対一の恋愛を至上とするのは一神教の影響に過ぎないと彼は言う。「日本じゃそもそも八百万の神だよ。」と彼は嘯(うそぶ)く。
しかし、いつどんな時でも相手のことを考えてしまうような、分人の壁を破壊する全人格的な体験を指して、人はそれを「恋愛」と呼ぶのではないか。だとすれば、それを分人主義で測るのは不可能である。『決壊』の崇のように、複数の女性と器用に交際しているような人間は決して「恋愛」はしていない(ように見える)。
「あなたといる時の自分——アンケート:I Love You. の飜訳は?」というエッセイでの平野の説明によれば「人が、誰かを好きになる、というのは、実は「その人といる時の自分(=分人)が好き」ということである。他の誰といるよりも、その人といると笑顔になれる。快活になる。生きていることが楽しい。人は決して、ナルシスティックに自分一人を好きになることは出来ない。しかし、この人といる時の自分は好き、と言うことは出来る。だからこそ、その相手を大事にする。いつまでも一緒にいたいと思う」というものである。
「あなたが好き」なのではない。相手の全人格は決して見えないのだから。それでも「あなたといる時の自分が好き。だからあなたの存在はかけがえがないし、私はあなたを愛する」。
随分とトリッキーで功利的な物言いである。
そのような説明で納得出来るだろうか。
繰り返すが、恋愛とは破壊行為であって、決して建設的なものではないように私には思われる。
『葬送』において、愛するショパンをサンド夫人から奪い、自分の庇護下においたスターリング嬢は、この上ない幸福感に浸る。
ショパンは重い肺病に冒され死にかけている。良かれと思ってではあるが、スターリング嬢は、そのショパンを故郷スコットランドに連れて行き、引きずり廻した挙げ句、彼の病状を回復の見込のないところまで追い込んでしまう。
相手を独占したい。また、相手に自分の全てを捧げたいと思う。それは、相手を死に追いやるのである。
ここにおいて分人主義には新たな綻びが生じていると思うのだが、それは著者自身が気にしているようで、用意周到な彼は「第4章 愛すること・死ぬこと」において、一時的に盛り上がるだけの「恋」と継続する「愛」を比較した上で、分人主義と愛について考察している。しかし、その考察はやや曖昧である。彼は、全人格的な愛について「やや保守的な着地点に辿り着いた」として、含みを持たせたまま、考察を終わらせている。

分人主義とネット

現在では見る影もないのだが、かつて個人ブログというものが流行った時代があった。
平野は、普段は大人しくて口数の少ない友人が、ブログでは辛辣な批評を書き連ねているのを知って驚いたというエピソードを紹介している。友人は、ネットではまるで別人のように見えた。他の友人たちは「本当はああいうヤツだったんだなあ」と呆れた顔で言い合ったという。
勿論、分人主義の考えでは、そのような場合でも、表向きは猫を被っていた人間が、裏で思い切り本性を現しているのだとは考えない。人当たりの良い大人しい彼も本当の彼であり、辛辣な批評家としての友人も本当の彼である。そのような分人が自分との関係性の中では見えていなかったというに過ぎない。
平野は、その経験をしたのは二〇〇〇年代初頭だったと書いている。ちょうど、インターネットが普及し始めた頃だ。
更に、追って登場したSNSの発達により、若い人にとって、書き込む場によりハンドル・ネームを変え自分を使い分けるのは当たり前の行為になってしまった。インターネットでは、人々は実に簡単に色々な人格(分人)になり、様々な場所で活動することができる。
これは推測に過ぎないのだが、もしかしたら「分人」という発想そのものがネットから得られたのではないだろうか。
「私たちの交友関係は、SNSの登場により、今やすっかり可視化されてしまっている。自分の好きな人が、自分の嫌いな人と親しくやりとりしている様を目の当りにする機会も、以前とは比べものにならないくらい増えた」(『私とは何か』)
平野の友人は、ただ大人しいだけではなく、辛辣な一面も最初から持っていた。以前はそれが見えていなかっただけなのである。
今までは見えにくかったが、ネットによって可視化された現象を改めて言語化したものが「分人」という考え方なのかも知れないと私は思う。
「個人」や「個人主義」というものは、そもそも日本に存在しなかったと平野自身が言っている。
日本人は、そもそも分人主義だったのだ。それは、社会の複雑化や価値観の多様化といった時代の推移とはあまり関係がない。
単に、ネットの普及によって、それぞれの分人が安住できる場(各種SNS)を見つけることが可能になり、かつ、それが見えるようになったというのが実状ではないか。
また、「私」は分人関係を通じて対象の中の分人と繋がり、その分人がまた他者との分人へと無限にリンクしている(「分人のネットワーク」)という言い方にも、インターネット(ハイパーリンク)の影響を感じる。
分人主義は、本来分人関係主義であると私は述べた。また「本当の自分」は相手との関係性の中にしか存在しないとも。
少なくとも、検索エンジンの台頭以前では、どこのページともリンクしていないページはネット上には存在しない、あるいは存在したとしても無価値であった。
同様に、ある分人は対象となる分人と必ずリンクしている。一切のリンクを切断された分人は消滅する。
誰ともリンクしていない「私」は存在しない。無価値なのである。
私は、そこに分人主義とインターネットとの強力なアナロジーを感じる。

さて、以上が「自己啓発」として分人主義を捉えた場合の理解である。
次章からは、個々の作品論を踏まえた上で、そこに存在する分人主義を適宜振り返っていくことにしたいと思う。
既に述べたように「分人主義」とは、最初からそうであったものを言語化したものに他ならない。
平野は、分人主義を提唱した後に書かれた作品(『決壊』以降)を、分人主義によって書かれた作品としているが、そのような考えはナンセンスだ。彼の作品は最初から分人主義であり、分人主義以前、分人主義以後などという区切り方はおかしい。全てを共時的に扱うべきである。
たとえば、既に、長編デビュー作の『日蝕』に分人主義はくっきりと刻印されている。

2024.2.8 文章を読みやすく修正しました。内容に変更はありません。
2024.2.10 更に修正しました。内容に変更はありません。


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