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定家、夢になせとぞ

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非色の色の見ゆるまで_富澤大輔写真作品集『字』より

藤原定家。  駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮 馬を止めて袖に降りかかった雪を払う物かげもない、佐野の渡りの雪の夕暮。だからなに?としか反応しようもないような一首に見える。しかしその設計プロセスを先人の研究によって追ってみると、夕闇に沈みゆく雪景から歌神の姿が現れる。定家は万葉集、長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の以下の歌を「改修」した。  苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに 佐野/狭野は同じ地名の異表記と思われる。やれやれ、

さぞな旅寝の夢も見じ・2

(つづき)源氏が恋をした朧月夜がじつは政敵・右大臣の娘で、それが右大臣に発覚し、いろいろあって、源氏は京から追放され、須磨に流されることになりました。今の感覚なら、須磨は神戸と明石の間のところですから、京都からは新快速で1時間足らず。太宰府や佐渡ならいざ知らず、大して遠くないじゃん!て思います。平安時代だって、淀川を難波まで下り、そこから海を行けば、だいたい二日の行程だと思います。でも源氏にとっては「来し方の山は霞みはるかにて、まことに三千里のほかの心地」(須磨の巻)がするん

さぞな旅寝の夢も見じ

袖に吹けさぞな旅寝の夢も見じ思ふ方よりかよふ浦風 定家 詞書に「和歌所にてをのこども、旅の歌つかうまつりしに」とある。「をのこ」は男なのだけど、ニュアンスが現代語と微妙にちがう。ビッグボス・後鳥羽上皇と、上皇に従う和歌所チームの選手たちという上下関係が前提されていて、自分たちを下に置いてものを言う言い方なんですね。ボスに旅の題でおれたち皆で一首ずつ捧げますってことです。 定家の打順。ボックスに向かう時、さっと源氏物語が頭をよぎりました。旅といえば、源氏がちょいとやらかして

袖ふきかへす秋風に

旅人の袖ふきかへす秋風に夕日さびしき山のかけはし |定家 この日の歌会のルールは、五句目に「梯(かけはし)」を置くというものだった。「橋」にはすでに動きのニュアンスがある。詩は言葉の結晶だとして、その表面になにかの影がスッと動く。袖ふきかへす風であったり、暮れゆく空の色だったり。結晶の置き場所によっては、一篇の物語さえ映る。村尾解説*によると、舞台は中国、時代は唐代。「旅人」は反乱軍に追われて蜀の地を目指して落ちていく玄宗皇帝の軍。途中、最愛の楊貴妃さえも処刑しなければなら

なれし袖もやこほるらむ

忘れずはなれし袖もやこほるらむ寝ぬ夜の床の霜のさむしろ |定家 氷点下の詞が並ぶ。上句で凍り、下句で霜が降り、寒い蓆(むしろ=寝具)の上にひとり震える身体を横たえる。 「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫」(前々回)もかなり寒かったけど、そんなもんじゃない。もし私のことを忘れていないなら、二人で重ねた袖が涙で濡れて、今夜のような寒い夜に凍りついているでしょうか。私は冷たい床でひとり、寝られないまま、あなたのことを思っています。 でも... そういう悲痛

まつほの浦の夕凪に

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ |定家 まつほの浦(松帆浦)は淡路島の北端。聖武天皇が播磨に行幸した際、随行した笠金村(かさのかなむら)が長歌を詠んだ。陛下、おそれながら対岸にみえます松帆の浦にたいそう可愛い海女がいて、朝凪に海藻をとり、夕凪にそれを焼いて塩をとったりしているそうです。会いに行ってみたいものですが、海を渡る手段がありません。残念であります。いくら恋焦がれても、こちらの浜でうろうろするばかりです。なにせ、舟もなければ櫓もないので。 名

待つ夜の秋の風

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫  定家 この日の歌会のテーマは「花と月」を百首、だった。 定番中の定番。直球とカーブだけで完封しなさい。今風に言えばフォーシームとスライダーでねじ伏せよ。 そこで定家は考えた。スライダーをどこに決めたらいちばん効果的か。過去の全データを記憶から呼び出す。ハイライトされた一首が「古今集」のなかから浮かび上がる。 さむしろに衣かたしきこよひもやわれを待つらむ宇治の橋姫 |詠み人知らず 「脱いだ衣を寝床に敷いて、今宵もわた

峰のあらしも雪とふる

名もしるし峰のあらしも雪とふる山さくら戸のあけぼのの空 朝の空気を吸おうと思って少しだけ戸を開けてみたら、風に舞うは雪か花か、夜明けの空。しばらくそのまま見ていよう。縦に切り取られたフレームを、無数の花びらがほぼ水平に舞い散る。一瞬止まったり、回ったり、また水平に戻ったり。そして空の色は少しづつ、明るくなっていく。 「嵐山」の名の通り、風が桜を雪と降らせている。「名もしるし」は名も著し、有名なあの峰ということだ。「山さくら戸」は定家の時代からすると古い、もしかしたら使われ

風をも世をも恨みまし

いづくにて風をも世をも恨みまし吉野の奥も花は散るなり 定家25歳。父・俊成と並ぶ和歌界の大御所・西行からのリクエストに応えて詠んだ一首。 なので、ちょっと西行についておさらいしておきます。1118年生れ、「遁世の歌人」「隠者文学の代表」なんていうタグが付けられることが多いです。実際、23歳で出家し、その後は、北は奥州平泉から南は筑紫まで、じつにいろんなところに旅をしています。しかし貧しい恰好で野宿しながら歩き続けた乞食坊主というのとは、全然イメージがちがうようです。むしろ

身にしむ色の秋風ぞ吹く

白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く 定家 白妙(しろたへ)は白い布という意味だけど、ただ白けりゃいいわけじゃない。その繊細なテクスチャーをたとえばこの例文から想像してほしい:「白雪降りて地をうづみ、山上、洛中、おしなべて常葉の山の梢まで、皆白妙になりにけり」(平家物語)。 愛する人と別れる場面。いや別れた後の、追憶の場面かもしれない。ついさっきまで一緒にいたのか、それとも時が経って思い出しているのか。いやもしかすると、まだ別れていないのか。君はいま想像さえして

さくら色の風

さくら色の庭の春風あともなし訪はばぞ人の雪とだにみん 定家 風が色に染まる。これだけでも花吹雪の描写として喝采したいところなのに、「その痕跡もない」と制する。「あと」は二重の意味がある。春風の跡と、人が訪れた跡。そのどちらもない静止した瞬間が下句で増幅される。仮にもし、いま誰かが訪ねて来たらなんと思うだろう。春にあるはずのない雪か。 知覚的に鮮やかな印象を与えるにもかかわらず、じつは知覚的な要素はほとんどない。春風はすでにやんでその跡もないし、来訪者は想像しているだけで、

袖うちはらふかげもなし

駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮 定家 馬を止めて袖にかかった雪を払いたくても、物陰も見えない一面の雪の原。「袖」とあるから、馬で行くのは公達だろう。白い風景に、一点の色彩。このまま広重まで一直線につながるような構図だ。かげもなしと否定語で止めたあと、佐野の渡りの雪の夕暮が浦の苫屋の秋の夕暮と同じリズムを刻む。 本歌は万葉集・長忌寸奥麻呂の 苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに だという。狭野は「さの」と読む。やんなっちゃうなー、三輪の

影ぞあらそふ

梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ 定家 袖の上で今たいへんなことが起きている。梅の香の漂う、うっとりする早春の夕べ。月が煌々と照らす。と、袖に目を落とすと、匂いと月影があなたの袖を奪い合ってるじゃないですか。いいんですか、こんなことしてて。そうね。じゃ、どうしたらいい?ていうかんじの会話をG線上のアリアかなんかにミックスしたらどうだろう。 学生の頃、友達に、物語のダイジェストを語る天才がいた。あるとき、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』を語り始

峰にわかるる横雲の

春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空 定家 複数の別音源を重ねる現代のDJ mixのような一首だ。一つめの音源は古今和歌集、壬生忠岑の「風吹けば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か」。二つめは源氏物語最終巻の「夢浮橋」。そして三つめが『文選』に収められた「高唐賦」という物語詩だ。村尾解説* によると、巫山を訪ねた王が不思議な美女と出会う。一夜を共にした美女は、自分は雲の化身であると告げる。朝には山の雲となり、夕べには雨を降らすので、それを見て自分を思いだしてほ