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「一者」と「求道者」の短歌・佐佐木幸綱

筋肉と意志の短歌

 「現代歌人文庫」の第23巻『佐佐木幸綱歌集』を読んだのは1985年のことである。当時は札幌のホテルで働いていた。ホテルというと、一般的なイメージとしては、エレガントで紳士然とした落ち着きを思い浮かべる人が多いだろう。まあ確かにフロントなどはそのイメージが当てはまるし、ホテル全体の従業員にも、そのようなイメージが求められ、少なくともそうしたフリはしなければならないのであるが、私が所属していた部署は、「ホテル内の土方」と呼ばれる宴会部であった。仕事は完全な肉体労働で、半年で体重が10キロ近く落ちた。ホテルマンになったのはたんなる成り行きである(結局2年間ホテルでウエイターとして働いた)。マスコミ志望であったが、受験した会社は全て落ちた。大学院(人文学系)に進むこともちらりと頭をかすめはしたが、当時のカルチャー見取り図では文学はごみ扱いだったので、そのような動きを先導していた業界人の餌食にされるのはかなわんと思って、そちらの道は放棄することにした。とは言え、文学部を出たばっかりでまだまだ本に対する興味は持っていたし、そのような労働環境からの逃避のツールでもあったので、本屋にはよく出入りした。ただ仕事が重労働なのと時間がなかなか確保できなかったので、長編小説をじっくり読むことは物理的に困難であった。書店でたまたま短歌集が並べられている書棚の前に立った時に、三十一文字の分量なら時間的に好都合ではないかと軽薄に思いつき手にしたことが、短歌を能動的に読むきっかけとなった。

 幾つかあった短歌集から佐佐木幸綱のものを選んだのは、目次をめくったら「直立せよ一行の詩」という言葉が目に飛び込んできたからである。鮮烈な印象であった。1985年においては「直立」という生における姿勢は抑圧されていたのだから。とどのつまりは魂(ソウル)というやつが1985年には排除されていた。

 その歌集を読んでみると、当たり本であることが即座に知られ、たちまち魅了された。それ以前にも、教科書などで短歌に触れる機会はあり、石川啄木や若山牧水や古今和歌集などの作品は好みだなと感じることもあったが、少女趣味っぽさに気恥ずかしさも覚えていたのである。短歌=少女趣味という図式が私の中では出来上がっていた。佐々木の作品はそのような図式を変えてしまった。いわゆる「男歌」である。佐々木自身が『直立せよ一行の詩』の後書きに次のような言葉を書いている。

 短歌は<しらべ>ではない、<ひびき>なのだ、という思いがしきりにする。情ではなく、あるいは情と対等に、意や志を重視したいとする私の短歌観にこれはもとずている。感覚的な表現をすれば、情には流れよどみ、意や志には貫く折るが似合う。情は水、意や志は鉄だ。したがって、一首の中に時間を感じさせない短歌でありたいと願った。一首が、いわば一語であって発光体でありうる短歌、<ひびき>の語にこだわれば発音体、震源体である短歌を願った。<しらべ>の短歌のリズムが流れるそれとすれば、<ひびき>の短歌のリズムは直立していなければならない。本書の書名は、このひそかな私の願いの表れである。

『直立せよ一行の詩』後記

 「ひびき」。「意志」。「鉄」。「直立」。佐佐木幸綱作品を構成するこれらの要素は、短歌という舞台に置かれると新鮮で、なおかつ私にとって魂のふるさとと巡り合うような懐かしさを覚えるものであった。『直立せよ一行の詩』は1970年から72年にかけて書かれた短歌集だが、そこには実存の肉感性が鮮やかに記されていた。あるいは運動部員の剛毅な純真さといったものが言葉の端々から感受された。1985年においてはひねた文化部員気質がヘゲモニーを握っていたがゆえに、そうした風潮に窒息しそうだった私にとって、それらは砂漠のオアシスにように感じられた。次のような言葉は、1985年には私たちの風景から完全に欠落していたのである。

直立せよ一行の詩 陽炎に揺れつつまさに大地さわげる
噴水が輝きながら立ちあがる見よ天を指す光の束を
つづけざまに稲妻激しく立つ天の一角へ向け解き放つ吾を
人間の芯をつらぬく火の柱立たしめよ高く苦しきものを
冬の旅にて見る冬の滝ごうごうの男の心すっくと立てて
かんかんと鐘鳴り朝の鉄冷ゆる変身断念せし目覚めにて
鐘打てば木端微塵の鉄片のきらめく音ぞ人を呼ぶなり
迎え撃つ清しさ 冬の眼玉きりきりと見開いて不動明王像あり
ラグビーに疲れ果てし日禁煙の口腔あつし舌の記憶も
おまえの臭いがにおう夢何も見えない夢合宿所のむし暑い床に目覚める
狂いつつ爆ぜよ弾じけよまっすぐに青春へ来し百本の竹
竹は内部に純白の闇育て来ていま鳴れりその一つ一つの闇が
たかぶりて怒れるごとく相打てるおお青竹の青き閃き

 引用したい歌の一割にも満たない数首を引いてみたが、言葉の熱量の高さに圧倒される。80年代には、そして現在においても、このような言葉は、われわれの文化的風景からは消滅してしまっている。なぜか?その理由は、端的に言って、消費社会にわれわれが完全に飲み込まれてしまったからである。佐佐木幸綱の中に脈打っているのは消費者の感覚では全くない。強いて言えば、ここにあるのは宗教家の感覚である。およそ消費社会に馴染まない「短歌」という形式を選択したことのうちに、すでに、佐佐木の本能の特異性が表れている。手っ取り早く言えば、佐佐木は根っからのソウル・シンガーなのだ。佐佐木が多用する「天」は、すでに佐佐木の肉体の芯の中にある。そして、この肉体は「中学、高校時代、私には籠球とラグビーしかなかった」(「出遭い」)と本人がエッセイで語っているように、運動神経に恵まれていた肉体であり、そうであるがゆえに世界を感受しそれを把握する知的センスを、運動神経の良さを通して身につけてもいた。躍動する肉体と世界の遭遇を、肉体の喜びとして受け止め、世界と自身の実存の意味を、一瞬のうちに把握してしまう芸当は、残念ながら運動神経に恵まれなかった80年代の文化人たちには真似することのできない、瞠目すべき才能であった。

 その才能は20世紀の原始人と呼べそうなガストン・バシュラールの才能と並べることができそうだ。鍛冶屋の手仕事に労働の美徳を見出すガストン・バシュラールは、筋肉と意志の鍛錬により人間の有効な力を信じることができ、陽気な世界を肯定するのだが、そのようなバシュラールの資質は佐佐木幸綱の資質に相通じるものがあり、バシュラールの次のような言葉は、佐々木の短歌の動性と想像力の質を的確にとらえているようだ。

 われわれの夢そのものの中では、硬さのイマージュは一様に覚醒のイマージュであること、換言するなら、硬さは無意識の状態にとどまることができず、われわれの活動を要求するものだということを、もっと正確な手段で証明できるだろう。(略)人間は水の中、満々たるあたたかい水の中でしかよく眠らないのである。(略)硬い物質とは、手の届くところにある抵抗する世界のことである。抵抗する世界とともに、われわれの神経の生命が筋肉の生命と結合する。物質はわれわれの筋肉によって現実化されたイマージュとしてあらわれてくる。

 金属は火の激怒の夢そのものであることがたちまち判るであろう。それは単に火のなかで生まれたわけではなく、火と大地から誕生した。その熱の絶頂にある火、激怒していると想像され、想像力のあらゆる凌駕に点火する火、から生まれたのである。

『大地と意志の夢想』

 真直ぐ立った樹木は、地上的生命を青空に運んでゆく紛れもない一つの力である。

 さらに最後にまた別な想像力はあたかも本能的に木が火の父であることを知っている。彼らは燃え上がる幸福が待っているこの暑い樹木を果てしなく夢見ている。

『空と夢』

 先の引用の中で、佐佐木は自分の目指す短歌について、「感覚的な表現をすれば、情には流れよどみ、意や志には貫く折るが似合う。情は水、意や志は鉄だ」という言葉で説明していたが、バシュラールの言葉は、佐佐木の世界をさらに肉感的に繊細に説明している(バシュラールは佐々木の作品を参照しているかのようだ)。「人間の芯をつらぬく火の柱立たしめよ高く苦しきものを」「鐘打てば木端微塵の鉄片のきらめく音ぞ人を呼ぶなり」「狂いつつ爆ぜよ弾じけよまっすぐに青春へ来し百本の竹」「たかぶりて怒れるごとく相打てるおお青竹の青き閃き」といった作品に見られる、「直立」「火」「金属」「硬さ」「怒り」のイメージは、バシュラールが人間の労働に見出す「活動する肉体の輝き」を、見事な具体性となった文学的表現として結実させている。そしてこれらの躍動感にあふれる肉体は途方もなく懐かしいものだ。運動神経の美学はモダニズムの美学と言ってよく、それは60~70年代のモードであった。80年代には、それに代わって反射神経が覇権を握り、テクノロジー的にはコンピューターが時代の顔となった。佐佐木とバシュラールは、ポストモダンの世界では完全に異物と化したのである。

近代的主体と親和する短歌

 佐佐木幸綱の作品がある世代の人間に胸騒ぎを覚えさせずにいられないのは、それが近代的主体が立ち上がる原光景を鮮やかに描いているからである。「直立せよ一行の詩 陽炎に揺れつつまさに大地さわげる」という歌は、音楽の発生する瞬間をとらえようとした神話的世界を思わせるスケールの大きさはもちろんのこと、そこには近代的主体が、強度に満ちた力に貫かれて、つまりは暴力を蒙りつつ立ち上がる危うい一瞬が描かれているとも言いうる。佐々木の作品に見られるホットな近代的主体の歴史的意味は、いつくかの局面から語られる。それは社会の基盤を成す産業の推移という局面、精神分析学的な病理の局面、そして日本の戦後の歴史における倫理としての主体の問題という局面である。

 まずは産業との関係から見ていこう。アメリカの著名な社会学者デイヴィッド・リースマンは、20世紀後半のアメリカ社会の変化をとらえようとした著書『孤独な群集』において、社会の性格をあらわす人物像として「伝統指向型」「内部指向型」「他人指向型」の3つのタイプを挙げている。「伝統指向型」は、産業形態としては農業であり、文字通り、農村共同体が引き継いできた伝統に忠実たらんとする人間タイプである。それに対して、「内部指向型」は資本主義によって解体された農村共同体から流出し、伝統という後ろ盾を失い、そうであるがゆえに内面に依拠せざるをえず、自分の中に内面化された理想から発せられる信号に敏感となる。産業形態としては工業、製造業であり、職人や専門的技術者がこのタイプである。最後の「他人指向型」は、生産の時代から消費の時代への転換とともに出現し、価値や理想が流動化する状況を強いられるがゆえに、安住の地がどこにもないとも言える。「他人指向型の人間がめざす目標は、同時代人のみちびくがままにかわる」のであり、「そこでは他人から認められるということが、その内容とはいっさいかかわりなしに、ほとんど唯一絶対な善と同義になってくる」のである。産業形態としては、商業、コミュニケーション・サービスである。

 佐佐木幸綱は、この分類においては「内部指向型」にあてはまる。リースマンは「内部指向型」の代表的人物として発明王トーマス・エジソンの名を挙げているが、このタイプは「内面化された尺度をもっているから他人の前で失敗してもべつだん、気にしない」でいられる。自我に対する不遜とも言える自信に裏打ちされているかに見えるが、その裏側には脆弱さが控えていて、彼は内面というフロンティアに逃避しているとも言える。彼は自分を十分に使い切らなければならないというオブセッションに常につきまとわれており、そのような姿は外面的には「仕事熱心」に見える。エジソンがアメリカ社会とうまく同調できたのは、1847年~1931年という彼の生涯が、幸運に恵まれて、アメリカの歴史と巡り合わせたからにほかならない。エジソンは「生産」というイデオロギーを味方につけることができた。エジソンは「消費」の時代よりも前の時代の子であった。リースマンは、アメリカにおける生産から消費への移行を次のように述べている。

 アメリカでは過渡的成長の段階が終わった。フロンティアは一八九〇年に消滅し、事実上はまだ土地に余裕があったとはいえ、気持ちの上ではもはや無限の荒野はなくなったのである。そして一九二四年になると、アメリカではヨーロッパからの移民を実質的にもううけつけないようになった。(略)移民の制限と出生率の減少という二つの条件から必然的にアメリカの人口構成はかわってきた。そして、すでに示唆したように、アメリカ人の性格構造もかわってきたのである。こんにち必要な技能というのは、「硬い」素材なのではなく、むしろ人間的な「柔和さ」なのである。そしてそれによって社会的移動のあたらしい道すじがひらかれるようになってきた。 

『孤独な群集』

 このようなアメリカの変容は、日本では半世紀ほど遅れてやってきた。1940年代から1970年代にかけて、日本ではパナソニック、ソニー、本田技研といった製造業の企業が生産のイデオロギーを支えていたのであり、佐佐木幸綱はそのような時代を背景にして、青年期を生き、作品を作った。次のような歌は、「内部指向型」であることにいささかの疑念も持たず、時代の声を味方にすることができたことを示している。

ハイパントあげ走りゆく吾の前青きジャージーの敵いるばかり
失くした時間の野の輝ける点として走れ夕日のランナー一人
宇宙駅の一つを夜更け通過せし怪知りしより孤独なる魂(たま)
一本の矢たらん願い充実しサラブレッドが青葉に刺さる
青年は研ぎすまされて耐えにけりふかぶかと雪降りいたりけり

 佐々木幸綱作品にあって特徴的なのは充実した内部世界を抱く「一」の圧倒的顕現ぶりである(「君の歌には<われ>ばかり出て来るね」と寺山修司から指摘されたという)。ラグビーの試合でディフェンス・ラインを作って待ち構える敵陣へと一人突っ込んでゆくラガーの姿。「一本の矢」と「サラブレッド」が「青」を背景にして重なり合う鮮やかなイメージ。とりわけ最後の引用作品では、「青年」「研ぎすます」「雪」という佐佐木が偏愛する言葉が並べられ、充溢した内部空間を作り上げている。佐佐木の詠む歌では、頻繁に雪が降る。

泣くなおまえ抱(いだ)けば髪に降る雪のこんこんとわが腕(かいな)に眠れ
降る雪の椿に積もる暁(あかとき)の一点の血のごとき静寂
雪片をたちまちとかすなめらかな頬照らしつつ雪降りしきる
雪雲の恋唄の雪激しくも降り来る斜面ふたりの心

 佐佐木にあって「雪」は、外部世界を遮断する符牒であり装置だ。雪によって外部の騒音を遮断した熱を帯びた静寂の中で、一人の青年があるいは一組の男女が、自分(たち)の周囲への関心を完璧に捨て去って内的世界の圧を高めている。現在なら即座に浴びせられる「ぼっち」という嘲笑など、そこには入り込むすきなど微塵も無い。熱を帯びた静かなる内部。あるいは閉ざされた熱狂。それは近代の主体を示す特徴であり、そして近代特有の病の特徴でもある。精神科医の内海健は、近代が作り出した特異な時間の様態と近代のモードに度を越して傾斜する心の動きに、近代特有の病である分裂病の兆候を見出している。内海は近代特有のこの病について次のように語っている。

 ひるがえってみると、分裂病になる人は、けなげに一者であることを守り通した人たちであると言えるのではないだろうか。この命法が厳然と支配しているとき、その力は思春期において極大となり、主体を見舞う。というより主体化の要請として到来する。それは自律への、個体化への社会の圧力として体験されるだろう。

『分裂病の消滅』

 「一者であれ」という命法は、佐佐木の作品そして近代文学の通奏低音として常に流れている。すでに確認してきたように、佐佐木の短歌では「直立」や「一」のイメージが溢れるように登場し、それらはリースマンが定義した「内部指向型」の人間像と結びつくものであるのだが、「内部指向型」の人間、つまりは「けなげに一者であることを守り通した人たち」を生み出したのは、近代という特異な空間であり時間である。近代的な空間とはデカルトが編み出した透視図法によって切り開かれた均質空間である。近代的な時間とは中世的な冷たい社会における円環する時間から移行した近代特有の熱い社会における直線的な時間のことであり、このような時空間においてはじめて近代の「自由」と「未来」という概念が確立された。だがこのような無限の自由、無限の未来は危機を招き寄せずにはいられない。

 前近代から近代への、冷たい社会から熱い社会への移行の縮図が、思春期にさしかかった個体において実現される。家族の軛が希薄となると同時に、未定型な未来を前にして佇む。漠たる不安に駆られつつ、しかもどこを目指せばよいか分らぬ。個体化にともなって、単独者の不安、すなわち強度性が惹起されるのである。

 近代というエポックは、個と未来という二つの新たなモメントを人類に与えた。おそらく両者は根源を等しくする。近代的な個を特徴づけるもの、それは単独者性であり、そこに含まれる個としての強度である。そして個であることは、同時にその死を内包していることを意味している。新たに創発された未来はこうした個の孕む過剰が振り向けられる次元である。このように個の力性は未来を開くものであるが、同時に未来こそが近代的個体を可能にしたともいえる。 

『分裂病の消滅』

 近代という歴史に始まる個と未来。それは未来の創発というポジティヴィティと病の発症というネガティヴィティの二つの可能性をはらみ持つ。それは両面的価値を持つと言えるが、未来の創発という特殊な時間性を分裂病者は生きるのだと内海は言う。「ただ、この航路を一貫してつらぬいているのは、ある時間性である。それは独特の性急さ、あせりである。追い立てられることにより、患者はいつも間が悪く、空回りしている」彼はいつもせかされている。そこでは「事物のもとに気楽に逗留できぬ」(ビスワンガー)個体が、未来へと過剰に先駆ける、という分裂病者が曝される「祭りの前」の期待感を内包する基本的構図が出来上がっている。佐々木幸綱の短歌に頻出する動詞群は、このような図式を背景にしている。

星月夜夜汽車走れり血走れり吉か不吉か近き夜明けは
君は走る関東平野をつっ走る夕べ鋭き身の前のめり
透明な<今>ぞかわける舌見せて疾走する生きている愛している
青年への距離走りゆく車中にて同乗の誰彼を許すや

 ご覧の通り「事物のもとに気楽に逗留できぬ」心性が鮮明に感受される。しかしそれは青白き病というよりは、過剰に健康すぎる肉体という印象を受ける。個体に注がれた過剰な力を、ラグビーのような激しいスポーツによって健康的に消費したとも言えるが、「青年への距離走りゆく車中にて同乗の誰彼を許すや」という歌には「青年」「走る」という主題とともに「一者」の主題も語られ、かすかだが病の兆候がうかがえる。佐佐木は遅くしか歩けない人間と歩調を合わせるという連帯の身振りを選択するには、あまりに健康な俊足を持っていた。それが彼を孤立の方へと差し向ける。

 とはいうものの佐佐木の『直立せよ一行の詩』には「少年発青年行急行列車」という印象深い言葉が書かれており、このフレーズは佐佐木が初期作品を詠んだ高度成長期の時代のメインの気分を感じさせる。佐佐木の主体は近代の坂を駆け上がる日本社会と幸福に同調し、彼の歌は時代の声に乗っていた。「「とめてくれるな」なぜなぜなぞなぞする顔に花一片がピリオドを打つ」や「任侠道走る高倉健の足花道を来てつまずくななもし」といった歌は、1960年代の巷の気分が反映しており、うまく風俗の空気感を掬い上げている。1938年生まれの佐佐木は「戦争を知らない子供たち」の体感を自分のものとして受け止めることができると同時に戦中派の世代の体感もリアルなものとして受け止めることができた微妙な中間世代に属していた(思想的にも気質的にも佐佐木は戦中派に比べれば相対的に軽い)。佐佐木は旧世代が持つ「真摯」に対してシラけることも恥じらうことも回避することができた。

求道者の話法から消費者の話法へ

 佐佐木は戦中派の世代の歌人である塚本邦雄や岡井隆の影響を受けている。佐佐木の「君は発(た)つ家出脱獄日本ねばねばを一寸脱しつづけよ」という歌が、塚本邦雄の代表作「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」の本歌取りであることは一目瞭然である。

 日本の戦後の文学の舞台に、短歌では塚本邦雄や岡井隆、小説では第一次戦後派、詩においては荒地派やその近傍にいた吉本隆明そして少し遅れて石原吉郎が登場し、戦後の日本文学を牽引した(政治学の世界では丸山真男が登場する)。いずれも戦争を深刻な形で経験したことから、日本の権力機構を憎悪し、そのような機構を支えた日本の文化風土に対して強い批判的眼差しを向けていた。彼らが確立を目指したのは、日本的自然から切断された堅固な主体であった。日本文学史に「垂直」「覚醒」「単独者」といったカードが揃えられていったが、先の東京オリンピック後にはそのような文学上の運動は終息し、小説で言えば第一次戦後派に代わって第三の新人が覇権を握った。一言で言えば、哲学が終焉し消費活動がその空位を占めた。構築や作為や主体といったものは、反動として斥けられた。1985年前後においてその動きは、アカデミズムを中心にピークに達する。それへのアンチとして柄谷行人が『批評とポスト・モダン』を刊行するのは1985年のことである。

 ポスト・モダンの思想家や文学者は、実はありもしない標的を撃とうとしているのであり、彼らの脱構築は、その意図がどうであろうと、日本の反構築的な構築に吸収され奇妙に癒着してしまうほかない。これを消費社会のせいにすべきではない。日本の消費社会こそこのせいなのだ。日本の自然=生成に揺さぶりをかけない思想は、制度的である。依然として、われわれは「一人二役」としての≪批評≫を必要とする。

「批評とポスト・モダン」

 このような状況はいまもなお続き、東浩紀などは「動物」というタームを用いて半ばシニカルに肯定している(あるいは肯定せざるを得ない)。こうした状況に揺さぶりをかける唯一の方途は文化的倒錯しかないが、現在言えることは、何かというと馬鹿の一つ覚えみたいに「この停滞と頽廃は政治家の責任である」というような、どこを見て言っているのかわからないような怠慢と欺瞞の態度には手を染めたくないということである。

 さて、ここでもうひとつつけ加えておきたいことは、1977年における終焉のことである。1977年には石原吉郎が死去した。今振り返ると随分と象徴的に感じられる。石原吉郎の死とともに日本の文化から「求道者の話法」が消えたのである。「求道者の話法」という言葉は瀬尾育生の発案による。「求道者の話法」「真摯の話法」とは根源、真理を伝えようとする表現形式なのだが、それがコミュニケーションとして成立するにはコミュニケーションの基盤というものが必要だ。その装置を作動させるには二つの方向が想定される、と瀬尾は言う。

 ひとつは官能と結合にいたる異性の方向へ、もうひとつは感化と伝染による単性生殖の方向へ。後者はあふれだすエロスを、共感する他者(異性)とのあいだで現実化することのできない孤立した単独の性であり、それをここでは「求道者」とか「吸血鬼」とかいう語で呼んでいるのである。前者は両性の一組がいればなりたつが、伝染や感化が可能になるためにはひとつの普遍的な強迫観念が人々を覆っていることが必要だ。だが、血や土や根源の威力を背後に感じる、そのような意味での強迫観念は現在、現実的な基盤を決定的にうしなって虚構化されつつある。都市は勝利し、血や土からその根源性の特権を剥奪する。そこではただ、これは「作品」の言語であり、虚構の言語なのだとくり返し暗示する「隔離の話法」によって、かろうじてその強迫の固有性だけが保存され、占有されるのだ。

「大地を封印すること」

 ここで言われている「都市」とは「消費社会」に相当し、「血や土」とは「人文学」のような旧文化に相当する。「ひとつの普遍的な強迫観念」である「哲学」や「文学」のような「人文学」は「現実的な基盤を決定的にうしなって虚構化されつつある」のだ。そのことは現在大学で進行している文学部の解体現象を見れば一目瞭然である。

 ちなみに瀬尾のこの文章が書かれたのは1986年のことである。その約10年前の1977年までは「求道者の話法」や「真摯の話法」はかろうじて成立したのである(1977年が日本における実存の最後の年であると確定することができる)。瀬尾によれば「「真摯の話法」「求道者の話法」は、戦後詩というゲームをかざる、きわめて重要なプレイヤーであった」が、佐佐木幸綱もそのプレイヤーのひとりであった。であるがゆえに、佐佐木は「隔離の話法」を用いる必要がなかった。佐佐木の歌の野太い声は、1977年以前の時代に属していた。「求道者の話法」の次に来るのは「消費者の話法」であり、「隔離の話法」であったが、それらを担ったのは佐佐木の教え子である俵万智であり、穂村弘のような平成歌人たちであった。

 俵万智が『サラダ記念日』でデビューするのは昭和も終わる1987年のことである。私は俵の名前を、雑誌の『小説新潮』か『小説現代』における小林恭二のインタビューで知った。そのインタビューで俵は「ニュースキャスターの俵孝太郎の娘です」と冗談を言っていて、今風の反射神経の持ち主だな、という印象を持った。有名になった「「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの」という歌も、雑誌に掲載されていたが、80年代のコピーと文学がコラボレーションしているかのような印象を持ったものである。じっさいカンチューハイの広告に使われてもおかしくないだろう。あるいは当時流行したトレンディ・ドラマの中のくさい台詞のようでもある。いずれにせよ俵の作品には「求道者の話法」と「真摯の話法」の強度は存在せず、等身大の共感コミュニティーのような空気感が漂っている。

 また、穂村弘を含む平成歌人たちの作品も、穂村自身が述べているように「「生の一回性」の実感を手放す」(「モードの多様化について」)ことで、「隔離の話法」を手に入れ、ゆるい共同体に登録されやすいキャラを演じているかのようだ。彼らはヴァラエティー番組の文法に通じているのだ。「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」(穂村弘)や「カップ焼きそばにてお湯を切るときにへこむ流しのかなしきしらべ」(松木秀)という歌は、ヴァラエティー番組の感性で出来上がっているように思う。

 さてそろそろ長引いてきた本稿に結論めいたものを書きつけておこう。「一者」という主体をめぐって書いてきたが、「一者」と深いかかわりを持つ「分裂病」は、内海健によれば、「力の体験」ということになる。

 それは、分裂病が、緊張病性エレメントにおいて明らかなように、まさに「力」とかかわる病態であるからである。この力は、通常は現前することなく、神経症者においては始原の神話(「エディプス」や「トーテムとタブー」など)の中においてのみ語られる。それは「主体に先行する外傷」であり、現前しない空虚でありながら、主体の核をなすものである。

『分裂病の消滅』

 これは主体に襲いかかる暴力であり、一種のテロである。おそらくは公的空間(しかしそれはいったいいかなるものか?)にとってはそれは忌避すべきものとしてイメージされるであろう。しかし「主体の核」なしで人は本当に人生を維持していけるのだろうか。主体の核および世界の根源にある暴力に対しての態度の決定が必要であるように思われる。「暴力反対」ではたぶん許されないだろう。そうした局面においては哲学の助けが必要とされるが、「平時」という時間の様態は、主体の核を悪の権化というふうに人を錯視させるようにできているようだ。生存感覚のすり合わせ。それが問題だ(究極の解決策はおそらくない)。

 佐佐木幸綱の短歌を特徴づける「疾走」感のある曲をチョイス。まずは吉田美奈子の「愛は思うまま」。70年代の曲だが、今聴いてもすごい。

 次いでキザイア・ジョーンズの「Million Miles From Home」。アフリカ人ならではのリズム感に圧倒される。

 最後はリオン・ウエアの「Lost in Love with You」。マーヴィン・ゲイが歌った「I Want You」の作者としても有名。メロウの帝王とも呼ばれるが、こういうビート系もこなす。


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