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司馬遼太郎のアナログ的知性

幼児の目で歴史を見る

 司馬遼太郎は何を読んでも面白く、はずれのない高打率を誇っているように個人的には思えるが、最近はそれにつけ加えて懐かしさを頻繁に覚えるようになった。それは「知」の形態への懐かしさであり、もう少し具体的に言うと、世界との接し方における肉体の初々しさというか、世界を赤ん坊や幼児のような目でとらえた頃に味わったと思われるあの感触、要するに新鮮な驚きとともに世界が開示される瑞々しい体験が喚起される懐かしさである。手垢にまみれた概念におおわれて弾力性を失った皮膚が、強張った表皮を剥がされ、ぴちぴちの真新しい皮膚で改めて世界と触れ合うことで世界を新たに見直す在りようが、アナログ的だが、かえって思いがけない発見の機会をもたらしてくれるのである。司馬は頻繁に語源を確認するが、それは、現在のわれわれの瞳にかぶさった惰性に陥った概念を取り払い、再び視力を回復させ、くもりのない瞳で世界を再認識させる役割りを果たすものとして機能する。

 例えば「小松」という日本のどこにでもある地名の語源として、司馬は「高麗津」という語源を対置してみせる。ちなみに司馬によれば、日本の「秦」の文字がついた土地は、その昔、中国人の帰化部落があった場所らしい。いずれにせよ、そのような角度の視線が導入されることで、血の通った歴史が目の前に立ち現れるような感覚が喚起されることになる。すでにこの世にいなくなった人間の生々しい息吹が感受されるかのようだ。

 「小松」という常態化し干からびたような概念を引き剝がし、「高麗津」という初々しい肉感を湛える土地のヴィジョンを提示する司馬の文章は、人気シリーズ「街道をゆく」第一巻の冒頭に読まれる。このシリーズで司馬が最初に訪れたのは滋賀県近江であるが、この地域が「楽浪(さざなみ)の志賀」と呼ばれたことに注意を向ける司馬は、「楽浪」という当て字が朝鮮半島にもあることを指摘し、「彼の地の楽浪古墳群は平壌の西南、大同江の水を見おろす丘陵地帯にある。この『楽浪の志賀』も古墳の宝庫で、そのすべてが朝鮮式であることがおもしろい。上代このあたりを開拓して一大勢力をなしていたのが半島からの渡来人であったことをおもえば、古墳が朝鮮式であることも当然であるかもしれない」(『甲州街道、長州路ほか』)と述べている。また、朝鮮半島における百済、新羅の戦いで、敗北した百済勢が政治難民と化し、日本へと渡ってきて、その難民の群れが日本民族を形成したという経緯も「街道をゆく」の別の巻で知った。このような司馬の歴史を見る視線の背景には次のような苛立ちがある。

 「朝鮮などばかばかしい」
 という、明治後にできあがった日本人のわるい癖に水をかけてみたくて、私はこの紀行の手はじめに日本列島の中央部にあたる近江をえらび、いま湖西みちを北へすすんでいるのである。

『甲州街道、長州路ほか』

 このように司馬が発言するからといって、左側のイデオロギーが右側のイデオロギーに攻撃を仕掛けているというわけではあるまい。司馬がこだわるのは、あくまで事物の具体性の肉感的な表情なのである。私は司馬にフランスの哲学者ガストン・バシュラールと共通する体質を感じ取ってしまう。一般通念という曇った眼鏡をはずして肉眼で世界を見てみよう、という官能性に恵まれた知性への誘いを感受する。

 朝鮮半島に関して言えば、司馬の周囲には具体的な人格を持つ幾人かの朝鮮人、韓国人がいるわけで、「街道をゆく」の常連といえる金達寿との間で、「日本人の血液の六割以上は朝鮮半島をつたって来たのではないか」(司馬遼太郎)「九割、いやそれ以上かもしれない」(金達寿)というやりとりがあったりする。また、韓国がらみでいうと、初期の忍者小説『風神の門』の中で、風魔忍者=韓国人説を司馬は紹介している。この小説は大阪冬の陣、夏の陣を背景に、豊臣側につく甲賀忍者と伊賀忍者の集団と徳川側につく風魔忍者の集団との戦いを描くが、伊賀忍者霧隠才蔵が風魔忍者たちの会話を盗み聴きする場面では次のような解説が加わる。

 和語のようには思われなかった。どこか、ひびきが韓語に似ていた。
 風魔とは、もともと乱破とか水破とかよばれた野伏の集団から出て忍術を身につけたものといわれているがそうではない、ともいわれる。
 この戦国のいつほどかに朝鮮、または大陸から流れてきた集団が、土地がないために百姓もできず、血族ごとにかたまっては、流浪して遊芸を売りあるいた。そのうちの一族が、幻術と忍術を身につけて諸方の部将にやとわれ、風魔になったのであろうともいう。

『風神の門』

 このような言説は差別に利用されることもあるが、改めて日本と朝鮮、韓国との微妙な関係に思い至り、また、ともするとフィクショナルなアクション・ヒーローとして消費されがちな忍者のイメージを超えて、彼らの体臭や汗を間近に感じとることができる。忍者の歴史的由来を通して歴史の影の側面へと視線が向けさせられる。『風神の門』には次のような記述もあるが、さらに忍者に関する知識が深まると同時に、司馬の認識の特徴を再確認出来る。

 伊賀と甲賀の術技をくらべると、忍びの術では、甲賀のほうがすぐれているという定評が、戦国の初期のころからある。
 が、甲賀は、刀を用いてひとを殺傷する技術はいっさい学ばない。
 剣をまなべば、手くびと下膊部の筋骨が発達し、いかに雲水や戯芸の徒に変装していてもそのために見やぶられることが多いからだ。
 自然、甲賀では毒薬、幻薬をもちいたり、飛び道具を工夫したりした。
 伊賀流忍術といわれるものは、これとは反対のものである。
 かれらは忍びの小わざを学ぶよりも、兵法をまなぶことによって身軽さと変幻な体技を練った。
 伊賀と国ざかいにある大和柳生ノ荘から、石舟斎、兵庫助、蓮也斎、但馬守などの兵法者が世に出たのも、偶然ではなかったのである。

『風神の門』

 甲賀と伊賀での技の具体的な小さな差異が確認されると同時に、甲賀と伊賀をとりまく大状況へと視線が上昇し、俯瞰的な視点によって世界の構図が把握される。司馬の読者であるならお馴染みのミクロとマクロを自在に行き来する筋のいい「知」のしなやかな運動神経が確認される。人間の類型や性格をいち早く見抜き、それを状況の中に位置づけ、歴史の姿を浮かびあがらせる手法は司馬独特の技だが、その特技は歴史家のものであると同時にすぐれた事業家のものでもあるだろう。『竜馬がゆく』以降司馬は国民作家の地位を駆け上ってゆくが、そこには司馬の資質と時代との幸福な同調性があったといえよう。だが、1960年前後に忍者小説を書いていたころの司馬は、戦中派特有の屈託を持っていたように思う(このことについては次回の原稿で)。

忍者的なもの

 司馬遼太郎おススメ作品としては、個人的には『竜馬がゆく』と『梟の城』を挙げる。前者は「陽」の司馬で、後者は「陰」の司馬である。司馬遼太郎自身は、明るくおおらかな人だったと推測されるが、陰のある世界に対する感性や理解も、司馬は鋭く深いものを持っていた。『梟の城』はその代表例といえるが、この『梟の城』の成立事情そのものが、「忍者的なもの」を背景にしていたのである。

 兵隊から帰ってきた復員直後、司馬は京都にある小さな新興紙で勤め始める。「記者というのが十五、六人という新聞で、毒にも薬にもならない紙面をつくっていたくせに、進駐軍の逆麟を買い、紙の割り当ての停止をくらって虫のようにつぶれてしまう」(『壱岐・対馬の道』)ような会社だった。そこに「背の高いA」という人物がいた。この「A」という人物は数ページほど先のところで、「青木幸次郎」という本名が明かされるが、まずは「A」と匿名化されているところがいかにも忍者的である。じっさい世界に対して背を向けているような人間で、「耳は聞こえず、歯は犬の牙のように嚙み合わせがわるい」という意味をあらわす「詰屈聱牙」という特異な熟語や、「明治の壮士と室町時代の雲水と江戸時代の職人をそれぞれかけらだけあつめて作ったような」という表現で、その性格を叙述されている。この人物は、司馬が唯一知っている対馬の出身者で、その対馬は「魏志倭人伝」で「土地は山険しく、森林多く、道路は禽鹿の径のごとし。千余戸あり。良田無く、海物を食つて自活し、船に乗りて南北に市糴す」というふうに僻地であり、日本の周辺のように描かれている。

 この簡潔な地理的叙述は三世紀のものながら、太古以来、すくなくとも明治までの対馬の自然と人文を正しく活写している。
 良田なし、ということで、この島民が室町に倭寇になり、朝鮮沿岸の米倉をねらってあらした。李朝はこれをやめさせるために島主宋氏とその重臣に官位をあたえ、毎年いくらかの米を送った。この関係はときどき断絶したが、江戸期もつづき、幕末までおよんでいる。対馬藩宋氏は三百諸侯の一つでありながら、同時に朝鮮との関係では両属のかたちをとった点、琉球が中国との関係において中国により強く力点を置きつつ両属のかかわりを結んだことに似ている。

『壱岐・対馬の道』

 貧困、それゆえの犯罪、そして朝鮮とのむすびつき、といった点で、対馬および対馬出身のAこと青木幸次郎は忍者の面影を宿している。じっさい「かれは対馬人らしく朝鮮人に対してわれわれの窺い知れぬ親しみを持っており」、戦後復興期の日本とすれ違いを演じるかのようであり、司馬の目には「明治二十年代に自由民権運動が潰れたあとの残党」のように映ったのだった。司馬がいた新興新聞がつぶれた後も、Aはいろいろな雑誌や新聞紙を渡り歩いたが、彼は他人との協同作業がまったくできず、仲間を追い散らしては、一人で割りつけから校正まですべてを一人でこなし、それなりに雑誌をいいものに仕立て上げた。とはいえ、「どの職場でもそうだったが、仲間たちはかれから追い散らされればされるほど、かれの人柄を好んだ」という。

 ある時期には、明治から続く『中外日報』という宗教関係の唯一の一般日刊紙の編集長を請け負うことになるが、当時大阪の新聞社の文化部にいた司馬のところにやってきて、「お前、『中外日報』に小説を書かないか」と打診したという。

 私は『中外日報』をずっと読んでいたが、一面は哲学的な随想で、他の面は各教団の消息であり、小説など載る新聞ではない。
 かれの新工夫であるらしかった。いずれにしても無名の私に小説を書かせる理由は原稿料が出せないからだ、ともいった。私はうまれてはじめて新聞小説を書き、一年あまりつづけ、のちに講談社がそのスクラップをあつめて本にしてくれた。『梟の城』という小説である。

『壱岐・対馬の道』

 ご存知、直木賞を受賞した司馬遼太郎の出世作である。この三流のドラマのような筋書きの「事実」に私は驚愕し、「嗚呼この人にはかなわない」と思ったのだった。『梟の城』のあのずっしりとした肉感を湛えた陰影ある物語は、このような背景から生まれたのだ、と私は納得した。

 『竜馬がゆく』を書く前の司馬遼太郎は忍者に仮託して、地べたからの視線で世界を見るような作品を書いていたが(とはいえ、坂本龍馬をはじめとして、明治維新を担った連中はみな下級武士であったことを、司馬は繰り返し強調するのだが)、忍者と同じように地べたを這いつくばって奮闘した人々を活写したのが「潟のみち」で描かれた農民たちである。

階級闘争

 司馬遼太郎の日本史のとらえ方は、稲作および米という食物をその中心に据える。農園=荘園の所有をめぐる戦いが歴史を作ってきた、と考えている。その争いの中心にある律令体制を司馬は悪の権化のように見做しているが、そのような司馬の視線の背後には、大日本帝国軍の官僚体質を重ね合わせる司馬の嫌悪感が控えているだろう。高知県檮原の歴史もそのような視点でとらえられている。

 律令体制というのは、都の貴族や寺院のためにのみあったといっていい。全国の農民は「公民」という名のもとに公田に縛りつけられ、転職や移住、ましてや逃散の自由はなく、働く機械のようにあつかわれ、収穫の多くを都へ送らせられた。律令制は広義の奴隷制だったともいえるであろう。
 ひとびとは租税を納めらなくなって逃散した。かれらの多くは中央政権の拘束力のややゆるい関東や奥州に流れたりしたが、中央政権の目のとどきにくいところといえば、かならずしも関東や奥州だけではない。
 大山塊のなかの秘境のような所も、逃亡先としてわるくなかった。この土佐檮原も律令の逃亡者が吹きだまりのように溜まって拓いた隠れ里という解釈を『檮原町史』はとっている。卓見といっていい。
 上代の檮原の人びとの多くは伊予(愛媛県)の先進的な水田地帯から逃げてきた。石を割ってでも稲を植えようという過酷な労働を自分に強いたのは、人里という律令社会にもどれば刑罰か漂泊のはての餓死が待っているだけだというかれらの確信と恐怖であったにちがいない。

『信州佐久平みち、潟の道ほか』

 日本の政治支配の原型にはこのような光景がある。坂東武士たちによる朝廷への反乱は、このような状況を背景にして起こった。司馬に言わせれば、「鎌倉幕府の成立というのは明治以前における最大の革命だった」ということになる。そこには「理念」や「人権」といった形而上的なものはない。あるのは司馬が、新潟市で上映された記録映画の中で観たという、自分たちの農業を確保するために苛酷な負荷をかけられる肉体の軋んだ表情である。

 亀田郷では、昭和三十年頃まで、淡水の潟にわずかな土をほうりこんで苗を植え(というより浮かせ)、田植えの作業には背まで水につかりながら背泳のような姿勢でやり、体が冷えると上へあがって桶の湯に手をつけ、手があたたまると再び水に入るという作業をやっていたことを知った。
 映画を観了えたとき、しばらくぼう然とした。食を得るというただ一つの目的のためにこれほどはげしく肉体をいじめる作業というのは、さらにはそれを生涯くりかえすという生産は、世界でも類がないのではないか。

『信州佐久平みち、潟の道ほか』

 この引用部については若干の説明が必要だろう。新潟という土地はその地名からわかるように、かつては潟や沼の多い土地柄だった。ここにも律令体制の権力が手を伸ばしていて、「大化三(六四七)年に、いまの新潟市付近(信濃川河口付近)のどこかに『渟足柵』という城柵が設けられたといわれる。(改行)この城柵までが大和政権の権力のおよぶ領域で、城柵より外(北方)は化外の地とされた」という。ここでも坂東で起こったことと同じことが起こった。「上代における征服事業というのも、稲作普及軍の一面」を持っていたがゆえに、そのような権力から自由になるためには大和政権の権力基盤となる稲作に適さない地域へと逃れるほかなかった。当時のそのあたりの風景を、司馬は次のように想像する。

 渟足柵ができたころのその柵のそとの景観は、こんにちにくらべて海がするどく内陸部に入り込み、干潮時には鹿の子模様のように無数の洲が露出し、よほどの内陸部でも、信濃川や阿賀野川の氾濫がのこした沼が多く散在していて、とうてい稲作のできるような土地ではなかったであろう。

『信州佐久平みち、潟の道ほか』

 このような空間的条件があったがゆえに、この近辺の住人たちは想像を絶するような苛酷な労働を強いられたのである。そしてこのような圧倒的に不利な地理的条件を背景に、「非政治的コンミューン」を作り上げてきた人々がいる。「亀田郷土地改良区」という名のその組織の理事長は佐野藤三郎という人物で、およそ稲作には適さない沼沢地の排水事業を役所や農協と距離を取りながら進め、亀田郷の乾田化を成功に導いた人物である。共産党員という噂もある人物だったが、自民党から社会党までどの政党ともつかず離れずの関係を保ち、その振る舞いをして、司馬遼太郎は「亀田郷土地改良区」を鎌倉幕府に、佐野藤三郎を源頼朝に見立てている。

 この話が、いちばんこの人の思想と立場を象徴している。かれの立場はどの政党からも超越していなければならないし、同時にどの政党とも仲よくしなければ、かれが理想とする亀田郷の公的利益を守れないからである。頼朝の幕府に似ていると思ったのは、そのことにも関係がある。

『信州佐久平みち、潟の道ほか』

 全体の構図を把握しながら合理的判断をしていく様は、司馬が評価する坂本龍馬や勝海舟に似ているが、坂本や勝が国家の視点に立っているのに対して、佐野はあくまでもコンミューンという中間的な共同体に身を置いている。司馬が「潟の中の小さな幕府」という言葉を用いたように。

 ところで、新潟の水田地帯は、昭和40年代に入ると、都市化の波をまともに受けて、激変する。「大きな理由としては戦後の日本の農政が、基本として工業に身売りする方針をとったための如実なあらわれといっていい」。1970年代半ばに、司馬は農村地帯の風景の変容に、経済における潮目の変化を感受していた。

アナログ経済からデジタル経済へ

 先進国の経済のパラダイム・チェンジは、やっぱり1970年代にあったのだろう。このころ欧米の経済は、日本のような新興国の追撃に追い上げられて、製造業から金融業へと舵を切らざるを得なかった。ウォール街にコンピューターのエンジニアが次々と投入されるのは70年代前半のことだったし(ちなみに1971年にニクソンショックがあった)、この流れは、当初は製造業で行こうとしていたクリントン政権下において、支持率低下の一発逆転を狙ったクリントンのIT戦略への転換と見事にはまり、2000年代のアメリカ独り勝ちを呼び込んだ。日本は技術革新によって製造業で生き延びることができたが、世界の趨勢はアナログ的なリアルから、デジタル的なヴァーチャルリアリティだったのである。むろんこうした現象は1930年代には顕在化していた。金本位制を捨てて、貨幣中心で行こうという経済の大変革である。このことの重大な意義は経済の専門家は、よく知っていた。高橋是清然り。ジョン・メイナード・ケインズ然り。こうした流れは、科学の分野では、物理学から情報技術への流れと並行している。

 『信州佐久平みち、潟の道ほか』が週刊朝日で連載されていたのは、1976年のことだが、否定しようもなく、地方にまで押し寄せてきた時代の急激な変化を目の当たりにして、司馬は苛立ちを隠せない。

 ついでながら、文明国と称せられる国の中で、地面を物のように売ったり買ったり、あるいは地価操作をしたり、ころがして利鞘をかせいだり、要するに投機の対象にするような国は、日本しかない。資本主義はあくまでも物をつくって売るという産業のものである以上、こういう地価過熱に経済社会がよりかかったり、混乱させられたり、地価過熱によって諸式が高騰して国民経済が破壊寸前の滑稽なすがたになっているような社会は、厳密には資本主義とさえよべないのではないか。

『信州佐久平みち、潟の道ほか』

 司馬が言いたいことはよくわかるが、しかし、資本主義とは残念ながらこういうものだ。利潤を上げ資本が増殖さえすれば、資本主義は何をやってもいいのである(ルール違反さえしない限りは)。司馬がイメージしているのは、アナログ的な前期資本主義であろう。おそらく1975年あたりを境にして、先進国の経済はデジタル的な後期資本主義に突入したのである。新潟のある地域では1964年の新潟地震後の復興事業で都市的な快楽を知ってしまった村人が村を捨てるさまが司馬によって報告されているが、時代の趨勢はこちらに傾いている。

 残されているのは、無意識の執着の方向性と強度である。司馬遼太郎という人間の中には、公共性の方向なり構築を決定し実現する事業家の要素が強く、現実的な結果を出すことに真面目な態度をとるという点で、技術を重んじる商人の合理主義を強く打ち出す傾向がある。その合理性は物理学的なもののように感じる。物、肉体、場所、街道、いまや老害呼ばわりされるアナログ的な知の可能性を司馬遼太郎ほど感じさせる人はいない。その可能性は、まだ有効期限が残っているというのが私の判断だが、令和の時代においては、さてどうであろうか。

 さて「街道をゆく」にちなんで、「道」にまつわる音楽を。まずはドゥービー・ブラザーズの「Takin’ It To The Streets」。当時のAORブームのテイストが満載。

 次いで宇多田ヒカルの文字通り「道」。通俗性と芸術性のバランスのとり方が絶妙である。最近はポップさが薄れている感じもするが昭和歌謡的なド・ポップな宇多田を聴いてみたいとも思う。

 ラストはジプシー・キングスの「ジョビ・ジョバ」。動画ではストリート・ミュージシャンを演じている。リード・ヴォーカルの顔と声が強く記憶に残る。


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