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曖昧な妥協を拒む批評・柄谷行人

差異を擁護する

 批評家の柄谷行人は、『群像』新人文学賞を受賞した際、「受賞の言葉」の中で次のような言葉を残している。

 おそらく漱石が安定した学者としての地位を放棄して、一介の小説家に転じることを決意したとき、こういう<自然過程>に対して<意識>の痕跡をわずかでも刻みのこさずにおくものか、という心境だったのではないだろうか。私の、ものを書きたいという衝迫もまた、こういう鬱然たる忿りとひそやかな希いに発している、といっていいかもしれない。

「受賞の言葉」

 この言葉に、柄谷の生のスタイルが集約されている。「自然過程」のような我が身を規定し拘束する外的な力の構造をとことん見極め、「意識」のような固有名としてある実存が感受する異和の感覚を唯一の武器に「いま・ここ」の自明性を転倒させる。柄谷が批評家としての長いキャリアの中で、反復してきたのはそのような行為である。自然過程の終着点としてある現在をすべてよし、とする日本的と言えば日本的な、あるいは西洋の文脈で言えばヘーゲル的な現在(自然)の合理化を、柄谷は権力への屈服だとして、それを拒む。ありていに言って、日本人の悪癖は「自然体」という言葉を恰好の口実にして思考停止状態へと逃げ込むことにあるが、ヘーゲルもまた、物事の本質を結果において見出し、「いま・ここ」を絶対視しそれを肯定する。

 そのような態度は、世界史においては、資本主義体制を自然過程の終着点として受け入れることにつながるが、そうしたヘーゲル的事後性を転倒させるべく、柄谷は事前の思考を導入する。近年柄谷がしきりにカントをとり上げ持ち上げるのは、カントが事前の立場に立ち、理念を未来において実現させるべき何かであると考えた哲学者であったからだ。

 ベルリンの壁崩壊以降の柄谷にとって、ヘーゲルは歴史の終焉=資本主義の勝利のイデオローグとしてみなされているが、冷戦時代においてはヘーゲルは、柄谷にとって、同一性の哲学(旧ソ連のようなスターリニズム体制)のイデオローグとしてあった。ヘーゲルは個体を否定し類をその上位に置いたが、冷戦期の柄谷は、ヘーゲルの逆張りを行き、差異性の側につき、差異の哲学を参照した。たとえば、キルケゴールの「単独者」やシュティルナーの「唯一者」のような他の誰とも交換できない個体の差異を擁護したのである。80年代の著作『探求』において「この私」「固有名」と呼ばれたものは差異であり実存であった。そしてまた、若き新人時代においても、柄谷は実存志向を有していた。

 人間は社会的に措定された存在であることは疑いなく不可避的な事実だが、そのとき個体がつねに何かを奪われているように感じることも疑いのない事実だ。マルクスが自己の生産物が他者に属してしまう人間をプロレタリアートと名づけたように、ぼくらは自己の思念が社会的流通言語(散文)に属していることを苦痛に感じる人間、あるいは事実上その社会的言語を用いるほかないにもかかわらず、そこに満たされることのないしこりを意識に残留させていく人間を、詩人と呼んでもいい。この意味では、実際に詩を書こうが書くまいが、人間は詩人であるほかない。

「発語と沈黙」

 この「良心」は非合理的なものであり、理論的なものではありえない。だが、理論的にどうあったとしても、われわれの内部の飢渇に抗うことはできない。少なくともそう考えるときわれわれは、ものを書こうが書くまいが文学者(詩人)たることを不可避的に選んでいるのだ。文学者はたんに時代に反逆するのではない。むしろ政治思想的には保守的であっても一向にさしつかえない。ただ個体が生存することがそのまま本質的であるような状態への本能的な飢渇が彼を反逆的たらしめるだけだ。「良心」とはまさにこういう「本能」にほかならないのである。それが習いおぼえたものではなくほとんど生得の資質のように息づいている批評家は少数であり、例外的であるといわねばならない。

「江藤淳論」

 これらの引用文に柄谷の原型的な生存感覚(柄谷自身の言葉で言えば「本能」)がよくあらわれている。ヘーゲル体制においては「類」の言葉が絶対善であり、そこでは「個」の言葉は疎外される。世に言う「コミュニケーション」とは「社会的流通言語」が流通し交換される場であり、「そこに満たされることのないしこりを意識に残留させていく」文学者のような人間は、ほとんど珍獣か犯罪者あつかいである。

 政治的経済的体制においても、勝利するのは「社会的流通言語」であり、柄谷によれば、それは「資本=ネーション=国家」ということになる。柄谷が苛立つのは、「世界共和国」の不在である。それは「われわれの内部の飢渇」の対象であり、疎外されながらも、われわれの無意識に絶えず働きかけるものとしてある。そしてフロイトの言う「抑圧され消去されたものの回帰」として未来から到来する、とされる。それは、同じくフロイトを発想源としたラカンの「根源的なシニフィアン」という概念によく似ている。「根源的なシニフィアン」もまた、消去されながらも執拗に現在に回帰し、制度を揺るがし脅かす。それはアナーキーな力というものであり、ラカンは、ギリシア悲劇のヒロイン、アンティゴネーの反国家的ふるまいに一種の倫理を見出している(ラカンがアンティゴネーに注目した背景にはアルジェリア独立運動がある)。

 ところで、世界共和国の前段階として、柄谷はアナキストの存在を必要条件だとしているが、アナキストには根本的な欠陥があった。

 一八七〇年以前には社会主義運動を担った人たちは、主に職人的労働者であり、独立心が強く組織を嫌うアナキストでした。しかし、一九世紀末、重工業化が進む時期には、その基盤はなくなります。それで、アナキストも労働組合に依拠するサンディカリストに転じたのですが、一般的にいって、アナキストは革命家というよりも反抗者です。革命騒ぎは大好きだけれども、地道な政治・経済的な問題にとりくむことができないタイプが多い。彼は組織と権力を嫌い、国家を否定するという理由から現実的な改革には関与しないし、選挙にも行かない。そのような「リバタリアン社会主義」に嫌気がさした人たちが、国家社会主義(A)や福祉国家主義(B)に向かったとしても仕方がないといえましょう。

『世界共和国へ』

 世界を構成し持続していこうとする「地道な政治・経済的な問題にとりくむ」姿勢を、アナキストは決定的に欠落させている。「自由だ!反体制だ!イェーイ!」と空疎に叫んで何かを成したと勘違いしてしまうおバカなロッケンローラーのようなものである。そのような有害な空疎さを避けるためにはどうしたらよいのか?柄谷はアナキストと対極にいるような官僚になりすます。

官僚の視線

 中途半端な状態で野党が政権を奪うと、事態はそれ以前よりも悪化してしまうことを、旧民主党の失敗以降、われわれは身に沁みて知っている(株価だけは上昇したが。安倍一強体制誕生の最大功労者は旧民主党である)。「権力を監視する」というと聞こえはいいが怠惰の上に胡坐をかいているだけの安易なポーズも斥けて、柄谷が試みるのは、世界の構造を見極めようとする明晰な視覚の行使と保持である。それは世界情勢を冷徹に計算しベターな解を出そうとする官僚のふるまいによく似ている。どこかで柄谷は自分が書いた本は官僚にこそ読んでほしいと語っていた。国家公務員上級試験を突破するエリートと張り合い彼らに訓示を垂れるだけの知的能力とガッツが必要だ。「金に困っていた苦学生時代、下宿屋のおばさんがそっと差し出してくれた掛けそばの温かさが忘れられません」というような安いポエムに浸りきっているようではダメなのである。

 官僚柄谷は、近代以降の世界体制を、資本・ネーション・国家の三つの軸を通してとらええる。近代の国民国家は資本主義のグローバリゼーションの中で形成されたのだから、他の資本や国家との関係を考慮しなければならない。三つの軸はそれぞれ異なる原理でありながら、世界の危ういバランスを保持するために、それらは補うように接合されている。

 国民国家は、世界資本主義の中で、それに対応し、また、それがもたらす諸矛盾を解決しようととします。たとえば、資本制経済は、放っておけば、必ず経済的格差と対立に帰結する。だが、ネーションは共同性と平等性を志向するものであるから、資本制がもたらす格差を解決するように要求する。そして、国家はそれをさまざまな規制や税の再配分によって実現する。資本制経済もネーションも国家もそれぞれ異なる原理なのですが、ここでは、それらが互いに補うように接合されています。

『世界共和国へ』

 フクヤマが「歴史の終焉」といったのは、このような資本=ネーション=ステートのトリアードが最終的なもので、それ以上、根本的な変化はないということを意味します。実際、いろんな変化が起こっているように見えますが、それは、資本=ネーション=ステートというシステムの中での変化である。その場合、さまざまなヴァリエーションがありえます。資本が強いと新自由主義的となり、ネーション=ステートが強いと国家資本主義的あるいは福祉国家的となる。しかし、いずれも、資本=ネーション=ステートというシステムを越えるものではない。したがって、それは「歴史の終焉」を越えるものどころか、まさにそのことを証明するものなのです。
 ところが、人々にはそのことへの自覚がない。すなわち、資本=ネーション=ステートの回路の中に閉じこめられているという自覚がないために、人々はその中をぐるぐるまわっているだけなのに、歴史的に前進している、と錯覚しているのです。近年では「アラブの春」が革命的だといわれた。しかし、それらがもたらすのは、せいぜい資本=ネーション=ステートであって、それを越えるものではありません

『帝国の構造』

 なるほど柄谷の言うとおり、現在、世界史は「歴史の終焉」という状況にあり、新自由主義と福祉国家(社会民主主義)が綱引きを演じつつ権力闘争を展開している。歴史が直線的に前進していると考えるのは錯覚であり、歴史は構造的な反復の円環に閉じ込められているようだ。おりおりに生じる問題や矛盾を修正しながら新自由主義と社民の間の振り子を永遠に揺れてゆくのがわれわれの世界の現実の姿だ(ただそうした状況がどこまで維持できるかはわからない)。柄谷はそのような状況に「世界共和国」というヴィジョンを導入しようとする。これは極端な少数派の意見というものであるが、柄谷のヴィジョンを支えているのは古代ギリシアのイオニアの哲学である。柄谷が官僚の視線を手放すのは、そのヴィジョンにコミットする時である。彼はほとんど幻視者のように理想郷を夢想する。

左翼の幻視者

 一般的な政治的言説と違って、柄谷は、民主主義の原点とされるアテネのデモクラシーを邪悪なる権力装置として否定する。

 アテネのデモクラシーを範とすることによって、近代の民主主義の問題を解決することなどできはしない。むしろ、近代の民主主義に存する困難の原型をアテネに見出すべきなのだ。

『哲学の起源』

 「資本=ネーション=ステートのトリアード」の萌芽は、古代ギリシアにすでにあった。古代ギリシアにおいても、資本が、すなわち貨幣経済の発展が共同体(ポリス)に深刻な階で級対立をもたらしたからである。この矛盾に対して古代ギリシア人たちは、国家社会主義と社会民主主義によって対応しようとした。たとえば、スパルタは、貨幣経済や交易を廃止し、経済的平等を徹底化した。その政策は、旧ソ連のように自由を犠牲にすることであった。一方、アテネは、市場経済と自由を保持したままで、多数者の貧困者階層が国家権力を通じて少数の富裕層から富の再分配を強制するシステムを創り出した。社会民主主義(福祉国家)の原型がここにある。

 一見すると、アテネの民主主義はベターなシステムのようだが(相対的にはおそらくそうであろう)、問題点がないわけではない。アテネの民主主義は成員の「同質性」に基づいているからである。それは「異質な者」を排除するシステムであり、さらには、アテネの民主主義は奴隷や寄留外国人を搾取するだけでなく、他のポリスを支配することによって実現された。

 たとえば、ペリクレスは市民の経済的格差を解消するために、デロス同盟を通して他のポリスから収奪した金を流用した。それは市民に議会に出席する日当として分配された。つまり、アテネの「直接民主主義」は、帝国主義的な膨張によって可能となったのである。それは大衆を扇動する民衆指導者(デマゴーグ)を生み出すことにもなった。こう見ると、現代の民主主義の諸問題をアテネに見出すことは可能だとしても、その解決への鍵をアテネに見出そうとするのは明らかに的外れである。

『哲学の起源』

 共同体を救うために他の共同体を支配する「帝国主義的な膨張」は、昭和初期の「満洲国建設」を思い出させるが、では、「その解決への鍵」をどこに見出せばよいのか。柄谷はその鍵をアテネやスパルタとは異なる原理を持ったイオニア諸都市に見出す。イオニアの原理とは、イソノミア、すなわち自由と平等、そして無支配に基づく原理である。完璧な理念を体現化した共同体だが、なぜそんなことが可能だったのか?柄谷は、それをイオニア市民の生活スタイルに見出す。定住的で、であるがゆえに国家の保持を必要とする戦士=農民共同体を前提としなければならなかったアテネに対して、イオニアは、農民の持たない遊動性に恵まれた植民者たちが形成する商人や技能者たちの共同体だった。定住社会が不可避的に抱え込む搾取や不平等を回避することがイオニアで可能だったのは、イオニア人たちが広範囲の交易や手工業生産に従事することを通して「遊動性」を回復していたからである。

 けれども、軍事都市ではないイオニアは、よその軍事都市の侵略の危機に晒されるようになる。さらに植民するための土地的資源が尽きるという空間的限界にも突き当たるようになる。

 イオニアの諸都市では、その成員は移動してきた者であり、またいつでもさらに移動することができた。そのような条件が、自由であるがゆえに平等であるようなイソノミア(無支配)を可能にしたのである。しかし、植民者の移動が続くにつれて、移動すべき〝フロンティア〟が消滅していった。それに伴って、ポリスの内部に富みの格差、支配関係が生じるようになった。前六世紀半には、イオニア各地でそのような傾向が目立ち始めた。

『哲学の起源』

 こうして、イオニアの類まれなる理念は地上から消滅した。しかし、没落したとはいえ、その美しい世界の記憶は残る。その記憶に導かれながら、イオニア没落後の世界で、イオニアの哲学を再建しようと試みる幾人かの哲学者が登場する。それぞれ著名な学者であるが、彼らの試みは苦渋を強いられるものとなったようである。それは、今の言葉で言えば「ポピュリズム」の問題であるが、彼らの苦難を綴る柄谷の言葉も苦しげだ。明らかに柄谷は、そこに現代の光景を見ているが、彼の瞳には悲哀の表情が宿っているようだ。

 ピタゴラスが二重世界を考えるようになったのは、イオニアの経験からだ。彼は、すでにイソノミアが崩壊していた社会に、イソノミアを回復することを目指した。が、彼が見た民衆は、かつての独立不羈の市民とは違っていた。むしろ、すすんで僭主に服従するような人たちであった。そして、僭主となった彼の友人も、すでにイソノミアの精神を持たなくなっていた。この経験がピタゴラスを変えたのである。

 他のポリスと連帯して戦うかわりに、ペルシアへの隷属の道を受け入れて巧妙に生きのびる道を選んだのが、エフェソスの民衆である。ヘラクレイトスはこのような民衆を軽蔑し呪詛した。だが、それが反民主主義的で「貴族主義」的であろうか。エフェソスにおいては、僭主政やペルシアへの隷属は民衆の意向によるものだ。そのような民衆の意志に従うことがデモクラシーであるならば、確かにヘラクレイトスは反デモクラシーである。しかし、彼の民衆嫌悪あるいは反デモクラシーは、イオニア的な思想=イソノミアに反するものではない。

『哲学の起源』

 古代ギリシアのこの光景は、おそらく、どの時代においても目撃されるものだ。「独立不羈」の精神に価値を見出し、それを維持しようとする強靭さを、誰もが持ち合わせているわけではないからだ。国家に保護を求める弱者の存在は致しかたないことであろう。許容される弱者がいる一方で、志しの高さを鼻持ちならないと感じる者もいる。新聞を読んでいるだけで「意識高い系」と揶揄するような人間も少なからずいる。彼らは「新聞を読まない人は自民党支持」という言葉と結託しながら、熟慮なしに現状を肯定するだろう。そのような状況において、希望を維持することは至難の業である。絶望を免ないほうが異常である。

 そのような絶望状況において、柄谷が一筋の光明として参照するのが、「イオニアの思想と政治を回復しようとした最後の人」とされるソクラテスである。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、ソクラテスは、あまりにウザい問答をするがゆえに、「人びとから拳骨で殴られたり、髪の毛を引っぱられたりすることもしばしばであったし、また多くの場合は、馬鹿にされて嘲笑されたのであるが、それでいてしかし、彼はこれらのことにじっと我慢して耐えていた」(『ギリシア哲学者列伝』)ような人であったらしい。そのようなソクラテスが考え、社会の中で実践したふるまいは、平凡と言えば平凡だが、やはり王道でしかないものであった。

 ソクラテスが考えていたのは、あくまでポリスの問題、すなわち、政治の問題であった。それは公人と私人の二重世界を廃棄することである。ただ、それは一人一人の自覚という契機なしにありえない、と彼は考えたのである。そのとき、公人でも私人でもない「自己」が問われるのである。

『哲学の起源』

 ここで言われている「公人と私人の二重世界を廃棄する」とは、公的(政治的)なものと私的(経済的)なものを同位に置くことであり、それは言いかえれば、「政治的国家」と「市民社会」の優劣を廃棄することである。つまりは、市民社会を国家の従属下に置かないということである。自由と平等を目指す試みが「一人一人の自覚」という平凡な徳に委ねられている。やはりそこからしか始まらないようだ。しかし、それはなんという我慢強さを引き受ける試みだろうか。

 柄谷行人というと、やはり単独者・異邦人というイメージが強くて、たとえばムーミン谷にひょっこり現れて、ムーミンの心を揺さぶり、時には励ますスナフキンの立ち姿が思い浮かぶ。やたらと煙草をふかしているところも柄谷に似ている。名曲「おさびし山のうた」。作詞は意外なことに井上ひさしである。

 1970年前後のヒッピー、アナーキストで思い浮かぶのがニール・ヤング。彼の代表曲「Heart Of Gold」(邦題「孤独の旅路」)も柄谷っぽい。

 また、レッド・ツェッペリンの実質的な最終アルバム『プレゼンス』に収められた「アキレス最期の戦い」の北方性も柄谷の批評に通じているようだ。

 比較的重めの曲が続いたので、最後はもう少し軽めで。浜田省吾の「風を感じて」。1979年に発表されたこの曲は、60年代の重厚さを芯に持ちつつ、80年代の軽やかさを先取りした、テクノミュージックとは異なる角度からの必然性を帯びた名曲。また、柄谷の批評の特質は、「大地」の権力の拘束から逃れる「風」の属性と運動性だと個人的には感じることが多い。


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