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挨拶くらいしていって #2000字のホラー


 赤い林檎ほどのものが坂道を転げていく。あっという間のことに、突っ立ったまま見送ってしまった。
 茶色くなったエノコロ草が揺れるあのあたりまで行ったのだろうか。
 さよなら、と聞こえたような気がした。

 玄関で靴を履いている夫の、白いポロシャツの背に小さな黒いしみが見えた。少しずつ移動していくので目を凝らしてみると、てんとう虫みたいな丸っこいカメムシだった。洗濯物を取り込んだ時、一緒にしまい込んだのだろう。このままだと襟まで登ってしまう。とってあげると声をかけようとして、昨晩の口喧嘩を思い出す。
「ねえ、首輪よりもハーネスがいいんじゃない」と何気なく言ったところ、夫が噛み付いてきた。ハーネスとは胴輪のことで、犬の胸から前脚付け根のあたりで支えるので、首に力をかけずに済む。
「首に負担がかかるとか、関係ないだろ」
「えっ、可哀想」
「理屈のとおらない話するなよ」
「なんでもかんでも理屈で片付けないでよ」
「いつも散歩してるの俺だろ、口ばっかり出しやがって」
「散歩してって頼んだ覚え、ないけど」
「うるさい」
 そのまま夫は犬を連れて出て行き、帰ってきた時にはもうケロっとしていた。ため込むのはいつも私。
 でも今朝は、出張に出かける夫を気持ちよく送り出そうと思って。笑っていってらっしゃいと言ったけれど、カメムシはそのままにしておいてやった。
 ふん。

 夫のいない三日間、犬の散歩は私の仕事。本当は行かなくたって良いのだ。お散歩で情緒が豊かになりますとか、他の犬と交流すると喜びますとか、うたい文句にすっかりのせられた夫は毎日でかける習慣をつけてしまった。
 そのくせ、首を引っ張ることには抵抗がないって、ふん。
「道はコイツが全部覚えているから」
 散歩ルートが一週間日替わりというのだからおそれいる。
 私の気分はカメムシの延長線上にあって、だからわざと犬が行こうとするのと反対方向にずんずん進む。面白がってくれればいいのに、犬はルーティン外の行動にことごとく抵抗しようとして、あっちでひっぱり、こっちでうずくまり。私もムキになってひっぱり返して引きずって。そうしてあの坂道を降りようとしたらまた逆らうものだから。
 ぐいっ、ころん。
 首がもげた。ほらごらん、だから首輪はダメって言ったじゃない。 
 赤いロボット犬の、赤い首は、どんどんはずみをつけてあっけなくいってしまった。
 ちょうどその時間に。

 出張先で夫は自動車事故を起こした。首から上はあまりにひどい状態だからと見せてもらえなかった。即死だったそうだ、いつも安全運転だったのに、そんな。
 もしや、あいつが襟から入ってモゾモゾして、気が散ったのではないだろうか。
「カメムシがいませんでしたか」
 動転している妻の言うことは警察から相手にしてもらえなかった。

 カメムシをとってあげるんだった。
 ごめんなさい、私、ザマアミロって思いました口喧嘩の意趣返しで。そんなつもりじゃなかったのに、ごめんなさいごめんなさい。
 毎日、首のない犬を撫でる。ロボットのICチップは背中のところにあって、首はただの飾り。ICチップさえ無事なら「育まれてきた」犬の性質は変わらない。だから新しい首を買ってつけてやれば、元通りなのだ。
 どうして夫の首は売っていないのか。ネットで探せばあるのではないか。何時間も、何日間も、ない、ない、ないないない。
 犬のいうとおりに散歩していれば。そうか、首が転がるのに任せて放置したのがいけないのかも。すっかりエノコロ草は刈り取られてしまって、どこなの、何時間も、何日間も、ない、ない、ないないない。あの時すぐに追いかけていれば拾えたのに、夫の首だってあんなことにならずに済んだのに。
 
 玄関のチャイムが鳴った。ずっと居留守ばっかり使ってきたけれど、何だか出てみようと思えた。
「お届けものです」
 どこの宅急便だろう、白いポロシャツ姿で。
 近づいて箱を受け取ると、配達員の襟元に小さな黒いしみが見えた。
 ああこれは、これはとってあげないと。
「あの、虫がついてます、じっとしてて」
 親指と人差し指で輪っかを作り、カメムシを弾きとばす。
「どうもありがとう」
 彼はニコッとして言った。
「つけてあげてくださいね。喜ぶと思いますから」
 足元に目をやると、首のない犬が彼に向かって一生懸命尾を振っているのだった。
 顔を上げると彼はもういなくて、裸足のまま玄関の外へ走り出たがなんの気配もなかった。涙がこぼれてきて、拭おうとしたら指が匂った。
 四十九日ぶりに首をつけてもらって、犬は高らかにワンと吠えた。箱の中から出てきた赤い犬の首。このキズはきっと、私が強く引っ張ったときの。
 それにしたって、ねえ、最後のご挨拶があってもよかったんじゃないかしら。
 せめて、いってきます、くらいは。
 
 <了>
 

お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。