マキャベリズムvs消費者の責任 の葛藤

ライト・マキャベリズム

私はどちらかというとライト・マキャベリズム支持者です。マキャベリズムとは、もとは政治に関して「国益を増進させることなら手段を選ばない」という考えで、それが一般的に、政治に限らずビジネスなど他の世界でも、「目的の達成のためなら手段を選ばない」という考え方として使われます。私はそこまでは納得できないのですが、「成し遂げたことと、その人格は切り離して考えるべきだ」というくらいに解釈して、それをライト・マキャベリズムと勝手に呼んでいます。

政治でもビジネスでも、何かを成し遂げるには、必ずしも”いい人”である必要はないと思います。大きなことや多くのことを成し遂げられる人を”優秀”だとするなら、優秀な人が必ずしもいい人ではなく、いい人が必ずしも優秀だとは限らないからです。もちろん、長期的に考えると、いい人である方が色々と成し遂げやすい(多くの人と協力関係を築ける、恨みを買ったり不必要に敵を作ったりしないなどの理由から)とは思うし、何か目標がある人が「いい人であろう」とするのは問題ないと思います。

私が意識しているのは、評価する側のマインドです。例えば、総理大臣がめちゃくちゃ功績を残した(なんでもいいですけど、国債を全て返済できる制度を作ったとか、北朝鮮の核開発を完全にやめさせたとか)として、その人が不倫してたからといって功績が無くなったり評価が下げられたりするべきではないと思います。世界を変えるサービスを開発した会社の社長が、記者会見でめちゃくちゃ不愛想で「べつに…」と言ったところで評価が下げられるべきではないと思います。

もっと身近な話をすれば、何かを成し遂げた場合だけでなく、ダメ出しをされた場合にも通じることです。仕事や学業・スポーツでの否定的なフィードバックを人格攻撃だと受け取ってしまう人や、人格と繋げてフィードバックしてしまう人がいることは多くの人が感じている問題だと思います。

以上から、「成果と人格は切り離して考えるべきだ」と私は考えています。

消費者の責任

そんな私のライト・マキャベリズムと矛盾を生じるのが”消費者の責任”という考えです。消費者としては権利が注目されますが、それに伴う責任を大切にしたいと思っています。

消費者として何かの商品・サービスを選ぶということは、その商品・サービスやその企業に投票するということです。売れた商品は「消費者に求められている」と判断され、今後も販売が続きます。一方で売れない商品は「消費者に求められていない」と判断され、企業はその商品の改良を試みたり販売を中止したりします。このように市場の原理を通して、消費者が望ましいと思う、消費者のニーズに応える商品が生き残ります。

だからこそ、私は「自分が本当に望ましいと思うもの(商品・サービス)」にお金を使いたいと思っています。もちろん、普通はそこまで真剣に考えなくても、自分が欲しいものを買うんだから、自然と望ましい投票ができているはずです。それこそが市場の原理とも言えます。

ここで問題になるのは、「望ましいと思う」には、色々な観点が含まれているということです。私は自分の住む社会が、なるべく環境への負担が小さい方がいいし、従業員が働きやすい企業(ブラック企業ではない)が増えた方がいいし、差別的な考えや戦争は無くなってほしいです。ほとんどの人がそう考えるのではないでしょうか。だから、私が「望ましいと思う」ものは、そういう理想の実現に貢献できるものである方がいいということになります。

私は消費者として、同様のものを比較して、環境への負担が小さい方を選んだり、ブラック企業や差別的な考えを持つ企業の扱うものや戦争に繋がるものを選ばないようにしたいです。(具体例を挙げているので全てはカバーできていないですが、簡潔に言うと「様々な社会問題の解決に繋がる選択をしたい」ということです。)それが、消費者の責任だと思うからです。

ただ、もちろん、これを完全に突き詰めてしまうと、(特に環境への配慮の話などは)そもそも資本主義社会をやめろという話になり、コンビニに行かず自給自足して川で洗濯して車にも電車にも乗らずにどこへでも歩いて移動する生活をするしかなくなってしまいます(この点に関する詳しい話を他のノートでまた書きたいと思っています)。だから、「”同様のものを比較して”少しでも望ましい方を選ぶ」ことがベストだと思っています。

今を生きているからには、ほとんどの人がコンビニ・スーパーも家電も交通機関も使わなくてはいけない。だとしたら、どうせ使うからには少しでもよい(マシな)方を、という考え方が現実的で、理想的です。

だから、商品やサービスを選ぶ時には、その内容や価格に注目するのはもちろんですが、その背景にも少しずつ気を使いたいと思っているのが、私の”消費者の責任”に対する考え方です。

ここに矛盾が!

この2つの私の主義(?)は衝突してしまいます。初めて気づいたのは、ある差別的な発言を繰り返す作家について考えた時です。私はその作家の小説を読んだことがあり、とても楽しみました。作家としてのその人は好きだと思いました。しかし、その人の過激な発言は許されるものではなく、私の中に、その人を応援したくないという感情が芽生えました。これは”差別を助長しない”という消費者の責任と考えることもできますが、”作品と作家の人格を区別して考える”というライト・マキャベリズムには反してしまいます。

その作家のものであっても、その小説自体が差別的なものでないなら関係ないと考えるべきかもしれません。しかし、その作家自身が「自分の作品はこれだけ売れていて、これだけ支持されている」という考えを公表しており、それを根拠に自身の考え方全てが肯定されていると考えてしまうのではないかと危惧します。そう思うと、やはり、その作家の小説を購入して読むことは避けたくなります。

他にも、政治家や社長などの成果と人格は切り離すべきではあっても、例えばその人格が「少数派・弱者を排除する」「戦争に積極的」というものだったら、それ支持できません。最初に例に挙げた「不倫している」「記者に対して不愛想」というのは、政策や企業のサービスには全く関係ない部分です。しかし、少数派や弱者、戦争に対する考え方は政策やサービスにもあらわれる問題だからです。

でもそうすると、どこまでを考慮すべきで、どこまでを切り離して考えるべきか、という境界は非常に曖昧だということに気づきます。

結局…

私は結局どうすればいいのかという明確な結論にたどり着いていません。でも、どちらも大切にしたい考え方ではあります。自分の中で、その都度、「これは考慮すべきなのか否か」を自問しながら、選択していくしかなさそうです。

1つだけ明確に言えることがあるとしたら、私は、それだけきちんと悩んで、考えて、選択をしていきたいです。どの選択が正しいか、どうやって選択する方法が正しいかはわからないですが、それでも、自分の選択には責任が伴うということを頭に入れて、何事もおろそかにせずに選択したいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?