ある討論番組をきっかけにして

今日は横浜で一杯飲んで来ました。飲んだから大言壮語したくなった訳ではありませんが、今、酒の力で後押しされているのは間違いありません。
飲みに行く前にチャンネル桜の冠番組、闘論!倒論!討論!を拝見させて頂きました。本日のテーマは「日本の希望、世界の希望」であって、朝まで生テレビやNHKの日曜討論には見られない壮大さを感じます。一応テーマだけはそれらしい事をぶち上げたとしても民放は看板倒れが関の山なのであんまり見る気は起こりません。しかし、僕がそうは言っても恐らく視聴率で言えば圧倒的にこれら民放の方が高いのであって、それに比例して信者の数もあっちの方が多いんだろうなと思うとなんだが解せない心地がします。
しかし一応ここで公平を期して論評するなら、「日本の希望、世界の希望」を全部拝見する気にはならなかったです。何故かと言うと、司会である水島社長の最初の“強烈な”問題提起に一人を除き他は誰も反応する事が出来なかったからです(しかも反応したパネリストは水島社長とは少し食い違う意見であった)。
水島社長が何を言ったのかと言うと、既存メディアとりわけ保守系メディアと目されていて、チャンネル桜視聴者も恐らく影響を受けているであろう産経新聞における致命的な現実認識感覚の欠如を具体例を挙げて指摘した訳なんですが、僕からするとまあやっぱりといった感じで黙殺されてしまいました。ここで間違えても誤解して欲しくはないのですが、チャンネル桜はダメな番組だから他を観てねといった、上げて落とすみたいな密かなネガティブキャンペーンをやりたい訳ではありません。酔った勢いで断言しますが、本を読まずして手っ取り早く政治や思想、人間を勉強したいなら水島社長の発言を拾い上げて行けば良いのです。僕に言わせれば、チャンネル桜の8割から9割は彼氏が握っていると言っても過言ではありません。その他のパネリストは言葉が悪いですがオマケです。知識量は圧倒的に自分なんかを凌駕していると認めますが、視聴者からバレないのをいい事にずるいし根性無しをやっていると思います(黙殺した理由は単に頭が回らなかっただけとも考えられる)。もっと言うとチャンネル桜のパネリスト以外の言論人はもっともっとダメです。チャンネル桜の討論に呼ばれない若しくは出演拒否するような連中、つまり、討論に姿を現さない言論人は眉唾物なんだと思って下さい。
話は戻って「現実認識感覚の欠如」とは何を指すのでしょうか。恐らくピンと来ていないのではないでしょうか。偉そうにしていますが、僕だって何でも現実が分かっている訳では当然ありません。分からないからこそメディアの意見を頼るのですが、そのメディアがあからさまなミスリードをしているという話です。「マスゴミ」という言葉が昔庶民の間で流行りましたが、そう言う庶民も実は蓋を開けてみると、「朝日新聞は信じないけど読売新聞は信じる」というのが大半で「読売新聞は信じないけど産経新聞は信じる」というのがその半分くらい居て「産経新聞は信じないけどネット保守番組は信じる」というのがその一割くらい存在して「ネット保守番組は信じないけどチャンネル桜は信じる」というのがその更に一割くらい存在して「チャンネル桜は信じないけど水島総は信じる」というのが僕とその他数名存在するという構図になっているのですがご理解頂けますでしょうか?さらに言い忘れてましたが、小難しい話題にはそもそも無関心という層が国民の半分くらい存在するので(投票率から想定)、「朝日新聞は〜から始まるくだりは、0,5✕0,5の計算からスタートする訳です。どうでしょう絶望的だと思いませんか?言っておきますが、幾ら自分の頭が良いからと言ったって自分を過信してはいけません。自分が拠り所にしている判断の源は、何かしらのメディアの影響を受けているのですから。現実を見誤る発端は、過信にあるのではないですか。影響を受けているという事実に無自覚になってませんか。自分は賢くて今目の前に相対している謎の男は馬鹿に違いないし、妄言を語っているに違いないと思っていませんか。経験上そのように感じる事があるので。
また話は戻りますが、今日は「伝統は現実であり、正統は主張である」という指摘があまりに鮮やかでした。その前の、産経新聞による“条件付き”核武装論が、現実認識からすると生温いと見る指摘、もっと言うと「一応責任あるメディアなんで言っときましたよ〜」といったアリバイ作りの意味合いがあるのではないかという指摘も合わせて傾聴に値する内容ですが、僕は前者の方をより評価したいと思います。
ちょっと何を言っているのか良く分からないと思いますが、詳しくは1/1の産経新聞正論コラム欄、若しくは今日の討論冒頭をお目通し下さい。要は、産経新聞は「伝統に安住するのではなく哲学を学び正統を紡ぎ出せ」と主張しているのであって、それに対して水島社長は「そもそも伝統を守って来たのか?安住という現実認識は正しいのか?」から始まり、前者の名言に繋がる訳なんですが、僕の認識(僕の認識?)だと、伝統はDNAの中に確実に組み込まれていると思います。伝統と言ったらぱっと伝統芸能という言葉を思い浮かべますが、何も外にあるものだけではなくて、僕の行動の全てはDNAに基づいた結果であろうと考えると(後天的に脳味噌が学習した結果であるとも言えるがその脳味噌も元を辿ればDNAである)、伝統は現実であるという指摘は現実味を帯びて来ると思います。正統って言葉をよく大胆に用いたものだなとも思います。異様な個人的見解をここまで押し通して来たお前がそれを言うかとお感じになるかもしれませんが、仮に産経新聞に文章を依頼されたとしたら間違えても正統とは書きません。得体の知れない、まだ形にもなっていない概念が正統に成長するだろうという、いかがわしく無責任な態度。
僕が書く日記は、他と比べてちょっと風変わりに思うかもしれませんが、どこかしらに手触りを感じるよう回りくどく仕上げて来た積もりです。なるだけ現実から離れないように、ビタ押しとは言えないまでも、少なくとも一側面、一要素を捉えようとした上で、それを起点に主張して来ました。
こんな分かりにくい世の中だからこそ、確かな足掛かりを自分で作ってからでないと直ぐに机上の空論が出来上がってしまうのではないでしょうか。

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