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《当たり前化》する社会(車椅子と配慮と感謝を巡る論考)

イオンシネマでの車椅子対応が、ネットで大きな議論を呼んでいる。

障がい者への配慮を巡る問題は、バニラエア事件伊是名夏子氏の乗車拒否事件など、ネットでたびたび議論になってきた。

だが、今回のイオンシネマでの騒動は、抗議をした車椅子ユーザーの側にきわめて大きな批判が集まっているという点で、議論のステージが急速に変わりつつあると言える。

そこで思い出したのが、先日投降された白饅頭さんのnoteだった。

この記事を要約すると、女性専用車両という男性客の「配慮」によって成立している制度について、受益者である女性客が感謝することもなく当然視して、むしろ男性客をざっくりと痴漢を行う「加害者側」と規定した上で、逆に蔑視や敵意を剥き出しにしている現状に警鐘を鳴らしているものだ。

配慮というものは有限な感情的リソースなのであって、感謝という応酬がなければ、いずれ枯渇してしまうだろう、という予告は非常に正しいものだと思う。

イオンシネマの事例も、これと同じ「配慮」の一方通行的要求が、感情的な反発を招いている事例であると言えるだろう。



多くの人は、労働者として働いているのであって、「合理的な配慮」の名の下で、プラスアルファの労働を強いられることの大変さや危険性は、容易に想像できる。

配慮というリソースは有限であって、誰かに配慮を分け与えるためには、少しずつ、他の人たちが我慢しなければならない。

女性専用車両の問題も、車椅子の問題も、構造は同じだ。

一生懸命に、「配慮」をする人々と、「感謝」をする人々の間のリレーがあって、初めて、平等で豊かな生活が実現する。

「あって当たり前」として、感謝を忘れれば、あらゆる配慮はあっという間に枯れ果てていくだろう。

さて、その上で、今回の車椅子の人を批判している側の意見に耳を傾けてみよう。

白饅頭noteと同様に、感謝なき「配慮」の無限要求が、配慮という有限のリソースを枯渇させている、という論筋だ。

これに対して車椅子の人を擁護する側のポストを見てみよう。

少し皮肉めいた意見には、このようなものもあった。

白饅頭さんのnote記事が「配慮は有限のリソースである」と指摘したのは正しいが、やはり、「感謝もまた有限のリソースである」ということを忘れるべきではない。

そして、ここに、この問題の難しさがある。

生まれながらにして、あるいはやむを得ない事情で障がい者になった人々が、そのような「感謝」という感情労働をし続けなければ、健常者と同じだけのサービスを受けられないなら、それこそが「バリア」「不平等」なのではないか?

しお氏は、「感謝」をすることを「上下関係」と表現しているが、それは本質の一側面をついていると思う。

健常者と同じような場所に行き、同じような楽しみを得て、同じように人生を謳歌するための「配慮」に、四十六時中、「感謝」をし続けていれば、心がすり切れてしまう。そう言いたいのではないだろうか。

女性専用車両の問題も同じことだ。

もともとは、痴漢という男性側の犯罪から受ける恐怖をケアするために、女性専用車両という制度があるのであって、女性自身はちっとも悪いことをしていない。

男性と同じように安全安心に公共交通機関を利用するために、女性専用車両という配慮が行われているのだから、男性が配慮するのは当然じゃないか?

むしろ、それにいちいち「感謝」が必要であるのなら、女性がまったく不利な立場に置かれてしまう。平等ではない。女性やフェミニストの側に立ってみれば、そうも言いたくなるだろう。

白饅頭さんは、配慮が感謝という水によって育てられる牧草のようなものだと表現しているが、実際には逆もしかりなのだ。

感謝もまた配慮を与えられることによって湧き出る水なのであって、この二つはお互いに循環するものだ。

では、この循環が断ち切られ、感謝を求める人々と、配慮を要求する人々との間で、対立と分断が発生しているのはなぜだろうか。

少し考えてみよう。

感謝の言葉、つまり「ありがとう」というような日本語の語彙は、漢字で書くと、「有り難う」つまり、「有り難し=あることが難しい、めったにないこと」に由来している

めったに無いような親切をしてもらったときに沸き起こる情念こそが、感謝という気持ちなのだ。

逆に言えば、このありがとうの対義語、感謝を不要とする障壁が、「当たり前」という感覚だ。

私たちの社会は、この「当たり前」があまりにも蔓延しすぎている。

配慮が「当たり前」になったとき、人は感謝をしようとしなくなるし、むしろ逆に、その当たり前のはずのことが享受できない事態が発生すれば、剥奪感や欠落感を感じて、苦痛や屈辱を受けるようになる。

この社会の「当たり前化」の進展こそ、配慮と感謝を循環させてきた社会的臓器の機能不全を引き起こしている近代の「病理」だ。

近代化というのは、畢竟、この「当たり前化」を進めていく過程であったと言える。

工業化によってあらゆる商品はコモディティ化され、民衆の諸権利は史上類を見ないほどに拡大し、科学の発達は自然から神秘のヴェールを剥ぎ取って、近代はあらゆる自然を「当たり前」の物理現象としてしまった。

そのような現代社会に生きる私たちは、自分たちの豊かな生活や権利を当たり前に享受することになれきってしまっている。

この「当たり前」の感覚は、感謝の感情を殺してしまうばかりではない。

他者に配慮する能力をも奪ってしまうのだ。

人間は一人では生きていけない。だから、困っている人に手を差し伸べたり、配慮するのは、本来、「お互い様」なのだ。私や私の縁者が、どこかの誰かに助けてもらったことのお返しを、巡り巡ってしているにすぎない。

ところが、この「当たり前」感覚が蔓延すると、自分は誰か他人に頼ることなく生きている、自立した個人だという思い上がりを生む。そして、「配慮というのは、自分がしたいときにすればいいのだ」という感覚につながっていく。

それどころか、自らを自立した個人だと思い上がった人々は、配慮が必要な他者を見たときに、劣った人間であると考えるようになる。「当たり前」ができない人間は、一人前ではない者たちとして、差別するようになる。当たり前の感覚が差別を生んだのだ。

だが、かつての社会ではそうではなかった。

飢えや病、暴力や理不尽な死が溢れていた時代、当たり前に与えられる権利や豊かさなどは無く、誰もが配慮し合いながらでしか生きてはいけなかった。

もちろん、障がい者や病人といった弱者は、現代よりもずっと苦しい生活を強いられただろう。だが、誰しもが助け合わなければならない社会においては、配慮が必要であるということは、なんら特別なことではなかった。

そして、誰しもが自然の恵みに感謝し、五穀豊穣を願う祭りを季節ごとに行い、先祖や精霊に祈りを捧げていた時代においては、何かに感謝するということは、人々の生活に溶け込んだ日常の一部だった。

いにしえから残る様々な祭礼や、「いただきます」「ごちそうさま」といった挨拶は、どんな人間も一人で生きているのではない、誰かに生かされているのだという感覚を、思い起こさせてくれるものだった。

こうした習慣や感覚の多くが、現代では、時代遅れの旧弊とされ、衰退を続けている。使わない筋肉が衰えるように、私たちの社会では、感謝と配慮を循環させる器官が、痩せ細り続けているのだ。

新嘗祭に献上する稲穂を刈女に渡す様子
JAとまこまい広域ホームページより

リベラリズムや個人主義は、こうした感謝と配慮の枯渇という社会モデルについて、「権利」概念で対応しようとしている。

つまり、万人が移動や生活に関する人権を平等に持っているのだから、もし障がいがあることによって、不都合や不便があるとすれば、それは社会の側が悪いのだから、改善するべきだ、という論理だ。

今回のイオンシネマ車椅子騒動を巡っても、主としてリベラル側の論者からは、そうした意見が多く見られた。

権利なのだから、誰かに配慮されて成立するべき筋合いのものではなく、企業や労働者が対応するのは、ただの「義務」である。したがって、「感謝」などは必要ない。

要するに、車椅子がどこでも利用でき、健常者となんの差異も無く社会で暮らせることを「当たり前」にするべきだ、という論理だ。

その論理は、確かに、感謝という感情的リソースを障がい者の方々に負担させることなく、障がい者にとって生きやすい社会を実現できるように見える。

実際、繰り返すが、現代のバリアフリー思想の多くが、こうした権利モデルの上に成り立っているのは事実だ。

現代社会では、「権利」のリストはどんどん拡大してきた。様々な社会権や平等権が生み出され、生存権が保障する「文化的で最低限度の生活」の水準は、大きく向上した。障がい者運動に限らず、多くの社会運動が、この「権利」のリストに新しい権利を書き加えようと躍起になっている。

社会の当たり前化を進展させることで、あらゆる弱者や少数者が「当たり前」に強者や多数者と同じように生きられる社会を、というヴィジョンだ。

だが、はっきり言うが、この方法は限界に来ていると私は思う。

なぜなら、人権もまた、お互いに配慮しあわなければ成立しないものだからだ。

私たちは、天賦人権などと言って、人権が生来「当たり前」に与えられているという物語を信じ込んでいる。

しかし、それは幻想だ。

私たちが社会を送る上で都合がいいから、みんなが信じているに過ぎない物語だ。

それはいわば、社会全体で共有された「幻想」のようなものだ。

人権ばかりじゃない。国家や民族も、宗教も、貨幣も、法律も、科学的な世界観だって、ある種の社会的な幻想として成立しているものだ。

社会を作るために都合がいいから、みんなで幻想を共有しているだけにすぎない。


死後の世界を信じるのは、信じた方が都合が良いから。
でもそんなのは、なんだって同じだ。全ては都合の良い幻想にすぎない。
葬送のフリーレンⒸ山田鐘人・アベツカサ/小学館


どんな権利も、法律も、それを尊重する人がいなければ、ただの紙切れにすぎない。

それは表現の自由だってそうだ。自分が嫌な表現でも、それが人権だからと目をつぶってくれる無数の人がいるからこそ、成立している自由なのだ。自由を尊重する人の配慮によって、成り立っている。

自分が好きな表現物を批判した人を、集団で「表現の自由棒」を持ってボコボコにする、なんてことを繰り返していれば、いつかその自由を成立させてきた「配慮」は尽き果ててしまうだろう。

【参考】表現の自由棒を持った人々が棒を振り回した事例


私たちの社会は、都合の良い便利な「幻想」の物語を尊重して、配慮し合うことによってかろうじて成り立っている。

貨幣を受け取った人が、その貨幣を受け取った分、お客さんとして配慮して、より良い商品を作ろう、より良いサービスをしようと振る舞うから、貨幣や資本主義という都合のよい幻想は、今もちゃんと動いている。

人権とか、法律だって同じだ。

「合理的な配慮」と法律に書き込んだから、それをいくらでも振り回して、ちょっとでも行き届かないところがあったら、「配慮が足りない!」と叫んでいては、配慮というリソースは徐々に枯渇していく。



法律を作り、人権というものの範囲を決めているのは、その幻想を維持し続けている私たち一人一人の意識だ。

過去半世紀、人権のリストは止めどなく広がり、歴史上かつてないほど、弱者や少数者に「配慮」することが当然視される社会が生まれた。それ自体はある意味で素晴らしいことだ。

けれど、それを「当たり前」のものとして、負荷をかけ続ければ、いつか、私たち一人一人の意識が変質し、その幻想は壊れてしまうだろう。

「配慮があって当たり前、むしろ足りない、もっと配慮を。」

「感謝は不要だ。なぜなら、これは権利だから。」

そんな当たり前の連鎖の果てが、今回の騒動だろう。

これは、人権という幻想に生まれた、小さなヒビだと思う。

すべてが破綻する前に、私たちはいったん、本質的なところに立ち返るべきだ。

人間が生まれながらにして平等であるというのは、学校教育やマスメディアによって作り出された、なんの根拠もない幻想だ。

人間は本質的に、不平等だ。

古くさくて、手垢が付いた話のように聞こえるかもしれないけれど、人間は誰も一人では生きていけない、ということをいい加減、私たちは思い出すべきだ。

強い人間は、弱い人間に配慮して、社会を守り、他者に尽くすための責務がある。ノブレス・オブリージュだ。配慮は有限のリソースかもしれないが、強者は弱者に配慮する義務がある。

そして、弱者は、強者に感謝して、配慮を受けた恩義を有形無形で返す必要がある。別のところでまた、誰かを助ける。

その繰り返しが、配慮と感謝のリソースを少しずつ増やしていくことにつながっていくのだろう。

鬼滅の刃©︎吾峠呼世晴/集英社
強い者も弱い者も、お互いが助け合って生きるという人間の姿が
個で完結する「鬼」と対置されたのが、鬼滅の刃の物語だった。

ここからは、少しばかり霊感じみた物言いを許してもらいたい。

いま、この現代において、『葬送のフリーレン』と『鬼滅の刃』というコンテンツがヒットしたことには、なにか意味があると私は思っている。

いずれのコンテンツも、人間の生命の有限性に焦点をあて、死者をまなざす物語だからだ。

どのように強い人々も、過去には不完全で弱い存在だった。今の私たちはたった一人の個人として存在するのではなく、私たちを存在させしめた過去の人々があり、死者が残してくれた「配慮」が現在の私たちを生かしているのだと、そう教える物語ではなかっただろうか。

死者への思いを追憶しながら、とむらいのために旅をするフリーレン。

先人達の残した型を再現し、神楽を舞って鬼を退け、死んでいった仲間達の手で、鬼に墜ちる刹那に救い出される竈門炭治郎。

彼らの物語には、現代社会が失いつつある、感謝と配慮の循環の仕組みを、私たちの時代精神に再びインストールするために必要な鍵が含まれていて、だからこそ、人々はこの二つの物語を本質的に求めたのでは無いか、と私は感じている。

少し飛躍しすぎたかもしれない。

「感謝や配慮をしなくても当たり前に生きていける社会」を目指したいという人々の気持ちはわかる。けれど、人間はそこまで個として強く作られてはいない。

誤解のないように言っておくが、配慮は、感謝の対価として差し出されるべきものではないし、感謝は配慮のための貨幣ではない。弱者や少数者ばかりが感謝し続ける社会というのは、アンフェアだ。

そうではなくて、私たちが当たり前と思っているものに、社会の一人一人が感謝しあうことで、「感謝」というリソースを社会のみんなで出し合うような社会が望ましいのではないか、と私は言いたい。

そしてそれは、人類史上、ずっと人間社会に備わってきたものだと思う。現代に生きている私たちが忘れてしまっているだけで。

私たちに必要なことは、そのような仕草を「思い出す」ことなのではないかと、私は思う。

以上

青識亜論