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金子文子と現代英国の地べたの生活をリンクさせた『両手にトカレフ』は深く考え込んでしまう1冊


またまたブレイディみかこさん。
私はブレイディさんの書く文章が、使われている言葉が、思考回路が、大好きなのだ。

ただ、この本は今までと少し違う。
これまでは”ぼくイエ”のようにノンフィクション作品を多々出版されていた。
が、今回は小説なのだ。
小説といっても、これまでのブレイディさんの本を読んだ方ならわかるはず。
これは、結局のところ、ノンフィクションの集合体なんだろうな、と。

この本のあらすじは、こうだ。

寒い冬の朝、14歳のミアは、短くなった制服のスカートを穿き、図書館の前にいた。いつもは閉じているエレベーターの扉が開いて、ミアは思わず飛び乗る。図書館で出会ったのは、カネコフミコの自伝。フミコは「別の世界」を見ることができる稀有な人だったという。読み進めるうちに、ミアは同級生の誰よりもフミコが近くに感じられた。一方、学校では自分の重い現実を誰にも話せなかった。けれど、同級生のウィルにラップのリリックを書いてほしいと頼まれたことで、彼女の「世界」は少しずつ変わり始めるー。

『両手にトカレフ』より

金子文子。1903年1月神奈川県横浜市生まれ。アナキストである。
100年以上前に異国の地・日本に存在した金子文子の生い立ちをたどりながら、複雑な家庭環境に身をおくミアは様々なことを考え、思いを巡らせる。

この小説は、とにかくつらい。
読み続けると、自分の過去を思い出すし、それでいてここまではひどくなかったと自分を慰めることになるし、私の生活の中には登場しないけれど確実に実在する身の危険の差し迫った子どもたちのことを考えなければならなくなる。
だから私は、夜が更けてからゆったりソファーに腰掛けて暖かい飲み物を飲みながらは、読めなかった。
ましてや、お酒を飲みながら、なんて論外だ。
どうしても、自分の感情がマイナスへ、マイナスへと引きずられてしまう。
それくらいヘビーだ。
とにかく明るい日光の下で、太陽をさんさんと浴びながら、感情をマイナスな方へと引きずられても、冷静さを取り戻せるような環境に身をおく必要があった。
おかげで、読了するまでに1週間はかかった(なかなか天気に恵まれないタイミングだったのだ)。

そして、どうしても忘れたくない言葉に出会ったので、ここに記録として残しておく。

本当に子どもに責任の概念を教えようと思うのなら、子どもの行為を大人が決めて、子どもに誓わせてはいけない。子どもの行為の責任は子ども自身にある。それを取り上げてしまったら、子どもには自分の行為の主体が誰にあるのかわからなくなる。自分が誰を生きているのかわからなくなる。
(中略)
子どもであるという牢獄。私はその中を生きていた。

『両手にトカレフ』p.152より

この本の主人公であるミアと自分を重ねる部分もあったが、大きく違うことといえばミアは14歳で私はアラサーであるということ。
私はこの本に登場するソーシャル・ワーカーのレイチェルと同じような立場なのだ。

”子どもであるという牢獄”。
今思えば、私もこの中を生きていたことがある人だ(私の親は、現代ならば警察にご厄介になっていただろう人だ)。
でも、今はもう、私自身は牢獄から抜け出した。
私が思うに、そこから抜け出す決断をしたことがある人にだけ見える景色がある。
抜け出したことによって悩むこともあるが、私はなるべく胸を張って生きていくことにした。
そうして生きるだけの価値があると言い聞かせている部分もあると思う。

自分が誰を生きているのかわからなくなっている人は、実はたくさんいるのではないかと思っている。
私の場合、もがいて、壁にぶち当たって、鼻で笑われて、人を信じられなくなって、疑心暗鬼になってしまっても、とにかく「ここではないどこか」を信じてもがき続ければ、ちょっとした暖かいものに触れることがあった。
ラッキーだったのだろう。
だから今も生きているし、新しい人生のターニングポイントが訪れることがある。

そして、今、私は人生の何度目かのターニングポイントに立っている。
実は、このnoteを始めた3ヶ月ほど前から無職であったのだが、この度、職業訓練を受けることになったのだ。

さて。
このターニングポイントの良し悪しを決めるのは”未来の自分”だ。

今はただ、目の前のことに集中して、未来の自分から”全てにYES”と言ってもらえるような日々を送ろうと思う。

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