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ヒューマンエラーはデザインエラーだー読書感想#27「誰のためのデザイン?」

D・A・ノーマンさん「誰のためのデザイン?」はデザインを生業にしてない読者にも非常に勉強になる一冊でした。ノーマンさんのデザイン哲学は「ヒューマンエラーなどない。それはデザインエラーだ」。問題に直面したとき、それを誰かの責任に帰すことなく、システムや社会に根本原因があると考える。そのために、人を動かす「アフォーダンス」「シグニファイア」を峻別する。エラーを内包するシステムを構想する。愛のあるツールボックスと言える本でした。


ヒューマンエラーという用語は使わない

ノーマンさんの言葉はどれも痛快。その中でも、一番のパンチラインが「ヒューマンエラーという用語は使わない」というセンテンス。

 ヒューマンエラーという用語は使わない。代わりにコミュニケーションやインタラクションについて論じる。我々がエラーと呼ぶものは、悪いコミュニケーションや悪いインタラクションのことである。人々が互いに協力する場合、他の人が喋ったことを「エラー」と言ったりはしない。なぜなら、それぞれの人は他の人を理解し、他の人に応答しようとしており、何か分からないことや適切ではないことがあるとき、質問したり、明らかにしようとしたりして、協調が続く。人と機械の間のインタラクションも強調と考えてはどうだろうか。(p93)

ヒューマンエラーは人間の問題ではなく、コミュニケーションとインタラクションの問題だ。この考え方を心底から実践してる人はきっと少なくて、だからこそ明言される価値がある。

人間が強調し合うとき、エラーだと声高に言わない。たしかに。誰かのミスをカバーして、ミスとは言えない程度にダメージコントロールするのが人間組織。なのに、機械=デザインされたプロダクトとの間に起因するミスがヒューマンエラーと呼ばれるのは何故なんだ?という話だ。プロダクトも人間と協調することはできないのだろうか。

ヒューマンエラーという他責的解決への抵抗は並々ならない意欲で、その後も何度となく語られる。たとえば、「後知恵は常に予見に勝る」というセンテンスもそうだ。

 後知恵は常に予見に勝る。事故調査委員会が問題に関係したイベントを調査するときには、実際に何が起こったのかを知っているので、どの情報が妥当であるかそうでないかを選び出すことは容易である。これは事後的意思決定である。しかし、事故が起こっているときには、人はおそらく、多くの関連した情報というよりも、あまりに多くの無関係な情報の量に圧倒されるだろう。彼はどれに耳を傾け、どれを無視するのか、どうったら分かるだろうか。ほとんどの場合、経験豊かなオペレータはものごとを正しく行える。一度彼らが失敗すると、事後的な分析では彼らが明らかな情報を見逃したとして非難されがちである。しかしものごとが起こっている最中には、何も明確ではないのである。(p255-256)

ヒューマンエラーと断定する「後知恵」は、問題という「答え」が出切った後で正しい方程式を指摘するようなものだ。実際の問題というのは、正しい方程式を踏み外すのではなく、間違った方程式が何度も邪魔をするうちの一つに引っかかったようなものだ。ほとんどのケースを無事にこなしているのに、たった一度の失敗をあげつらう理不尽さをノーマンさんはよく分かっている。

なぜこのような理不尽が起こるのか?それは、そのようなデザインがあるからだ。間違った情報や無関係な情報が、適切なインタラクションを妨げているからだ。


アフォーダンスとシグニファイア

エラーを生まない、もしくは、エラーを許容したり内包してリカバーできるデザインのためにはなにが必要か。一番知っておきたいのが、「アフォーダンス」「シグニファイア」だ。

一枚のイラストで説明できます。

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(下手ですが)公園のベンチです。手すりの部分に、空き缶やゴミが置かれているとします。

ベンチをデザインした人は、「座るために」デザインしている。そのためにお尻が置ける平面、座った姿勢で安定する構造が設けられている。つまり、ベンチは座るというユーザーのアクションをアフォードしている(=支えている)。

なのになぜ、人は手すりにゴミを置き去りにしたのか?当然ながら、デザイナーはベンチにゴミを置くようにはデザインしていない。そんなことは望んでいない。デザイナー的には、ゴミを置くユーザーは「アフォードしていない行為をした」という認識になる。

しかしノーマンさんはその認識を誤ったものと捉える。アフォーダンスは作り手が固定するものではない。アフォーダンスとはあくまで、ユーザーとの関係である。

手すりにゴミを置いたのは、ゴミを「置けた」からだ。置きやすいほどよい平面がそこにある。つまり、実際にはゴミを置くことをアフォードされている。このアフォーダンスを引き起こすものこそ「シグニファイア」だ。そもそもベンチが座るアフォーダンスを持つのも、座りやすい平面というシグニファイアが存在するからに他ならない。

しかも面白いのは、誰かが手すりにゴミを置くアフォーダンスを「発見」すると、そこに置かれたゴミ自体が「新たなシグニファイア」になる。もともと平面があるから置けたというのが、他の人も置いてるからゴミを置こう、となる。

だからデザイナーの仕事は、適切なシグニファイアを設計することだとノーマンさんは指摘する。

(中略)アフォーダンスはどのような行為が可能かを決定する。シグニファイアはどこでその行為が行われるべきかを伝える。我々にはどちらも必要だ。
 人には、使いたいと思っている製品やサービスを理解するための何らかの方法と、それが何のためのものか、何が起こっているのか、他にとりうる行動は何かを示すなんらかのサインが必要である。人は、うまく処理したり理解する助けになる手がかり、何らかのサインを探す。重要なのは、意味のある情報を指し示すサインである。デザイナーはこの手がかりを提供しなければならない。人が必要とし、デザイナーが提供しなければならないのはシグニファイアである。(p19)

適切なシグニファイアがなければ、適切でないアフォーダンスが引き起こされる。もちろんベンチにゴミを置く人は迷惑だけれど、その人をいくら責めても、ゴミを置けるシグニファイアがベンチに存在することには変わりがない。


シグニファイアを生かしてエラーを減らす

シグニファイアを活用すれば、エラーの少ないシステムを作れる。そのことをノーマンさんは本書後半でたくさん論じる。中でも気に入ったケースが、重りの離脱を奨励するダイバーの話だった。

人間には浮力があるため、スキューバダイビングをやる際は重りが必要になる。だけど、トラブルが起きた時にはこの重りが障害になる。しかも、重りは高価で、離すのは躊躇われる。さらに、仮に重りを離して無事に帰ったとして、「本当に重りを離すことが必要なトラブルだったのか」を立証するのは困難だ。

ノーマンさんが参加したダイビングトレーニングの指導者は、安全のために重りを離したダイバーを褒め、無償で代わりの重りを提供すると宣言したそうだ(p261)。これは、重りを離すことのアフォーダンスを明確化するシグニファイアになる。褒められることはやりやすい。さらに経済的損失を負わないことも、行為を容易にする。

これは「社会のデザイン」の話で、だからこそ読者全員が当事者に感じられる。実際、ノーマンさんは重りを話すことを抑圧するシグニファイアを「社会的圧力」だとして、その解消はなかなか困難な課題だと指摘する。

 社会的圧力は克服可能ではあるが、強力で蔓延している。危険を重々承知していながら、自分は例外だと自分を信じ込ませて、眠いときや飲酒後に運転してしまう。こういう社会的問題をどのように克服したらよいだろうか。良いデザインだけでは充分ではない。別のトレーニングが必要である。すなわち、安全に対して見返りを与え、経済的な圧力に勝るようにする必要がある。機器が潜在的な危険を可視化したり明示したりできるとよいが、これは常に可能なわけではない。社会的、経済的、文化的な圧力に充分に対処すること、また会社の方針を改善することは、安全な運用と振る舞いを確保するうえで最も難しい部分である。(p263)

仮に「手放しやすい重り」があったとしても、「もったいない」「恥ずかしい」という社会的圧力がある限りは、重りを手放しにくい。アフォーダンスを実現するには、様々なシグニファイアを総合的に調整しなければいけない。

noteさんが最近、コメントを書く前にその内容が攻撃的ではないか確認する画面を挿入したそう。これもまさに、デザインで攻撃的コメントを「反アフォーダンス」し、時には取り下げをアフォードする素晴らしいシグニファイア。

同時に、一呼吸入れることが賢明だという文化的な素地も広めていけたらよい。立ち止まることは賢い。それが言説として広まれば、また別個のシグニファイアとして機能すると思う。「誰のためのデザイン?」は、そうやって一人一人が社会をより良くデザインしていこうとするときに、間違いなく役に立つ。(新曜社、2015年4月20日増補版初版。岡本明さん、安村通晃さん、伊賀聡一郎さん、野島久雄さん訳)


次におすすめする本は

玉樹真一郎さん「『ついやってしまう』体験のつくりかた」(ダイヤモンド社)です。任天堂でヒット作のデザインに関わった玉樹さん。マリオをつい右に向かって動かしてしまうのはなぜか?という話は、まさにシグニファイアとアフォーダンスの上手な活用方法だと思いました。


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