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分ける理解・つなぐ理解ーミニ読書感想『野生のしっそう』(猪瀬浩平さん)

猪瀬浩平さんの『野生のしっそう』(ミシマ社、2023年11月20日初版発行)が学びになりました。人類学者が、自閉症と知的障害がある兄と「ともに」思索する本。失踪でも、疾走でもなく、しっそうとタイトルにするような、独特の「あわい(間)」を大切にする本でした。


中心的なテーマになっているのは、著者のお兄さんが突然、家を飛び出してどこかにいってしまうこと。それは客観的に言えば、障害者の失踪である。でも著者はそうではなくて、それはお兄さんが走り出すこと、この世界を駆けていくこと、つまり疾走でもあるのだと解釈する。

こんな風に、捉え方を変える。ずらしてみる。それが本書から掬い取れる学びです。

印象に残っているのは、お兄さんが特性として、(定型発達者から見たとき)突然、大きな声を出してしまうことについての、ある人物の解釈です。

「彼は、知らない人がいて不安になると大きな声を出すんだよね。自分の声を聞いて心を落ち着かせる。俺もちいさい頃、そうやっていたことがあるからよくわかるんだよね」
 酒にゆるんだその語り口には、緊張感はない。しかし、その言葉にみんなが聞き入った。怪訝そうに兄を見ていた人たちも、納得した顔になっていた。
 わずかな間をおいて、オーナーが語り続けた。
 「まあ、本当のところはどうなのかわかんないけど」
 そう言って笑うと、兄もウフフと笑った。

『野生のしっそう』p68-69

これは、なぜ大声を出すのか?という問いに、「お兄さんには障害があるから」と答えることとは異なる。もしも理由に障害を持ち出すと、それは物事を説明してはいるけれど、ある種の分断の様相を帯びる。障がいがあるから、「仕方ないんだ」という。自分とお兄さんは違うのだ、と。

そうではなくてこの人(オーナー)は、かつて自分がそうだったように「自分の声を聞いて安心したいんだ」と捉える。そう解釈してみる。この答え方は、お兄さんとオーナーを、障害・定型(健常)の区切りを超えて、結び付けることを可能にする。

もちろんオーナーが断っているように、本当にお兄さんが自分の声を聞いて安心したいのかは、分からない。分からないけれど、この考え方は、お兄さんとオーナーを「別物」にはしない、ほのかな優しさを帯びる。おせっかいというか、ありがた迷惑かもしれないけれど。

これは、以前読んだ専門医の本に書かれた「仮の理解」に通じる話だなと思いました。


仮の理解は、正解ではない。正確でもない。でも、仮の理解を手にした私たちは、なかなか通じ合えない相手と、それでも踏みとどまって関わるための手がかりを得る。

障害と生きるということは、「否定形の連続」だとも言えます。断絶、分断の連続。それは、この世に生きる大多数が健常で定型である以上、避けることが困難な抑圧です。そのことについても本書は、端々で記述している。

周りの目を気にして、じっとしていられない知的障害の子どもを連れて、公共交通機関で出かけるのを躊躇する人がいるーー、口出しされる以前に、行動は制限される。福祉サービスを受給するためのペーパーワークに追われる。いつしか、周りから批判を受けないように自分の欲望を制御するようになる。

『野生のしっそう』p23-24

障害者やその家族は、自らを抑圧し、自らを隔離していってしまう。どうしても。

でも、オーナーが示したような、異なるありようがある。それは、しっそうを失踪で片付けないような、ある種の往生際の悪さの中に宿る。

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