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「理解できない」をほどくーミニ読書感想『跳びはねる思考』(東田直樹さん)

重度の自閉症者であることを公表している作家、東田直樹さんが著した『跳びはねる思考  会話のできない自閉症の僕が考えていること』(イースト・プレス、2014年9月9日初版発行)が面白く、学びになりました。東田さんは、文字盤を指差しながら言葉を発する「文字盤ポインティング」やパソコンを使い、会話にはできない自らの思考を言語化することが可能だといいます。

定型発達者には、自閉症者の感覚は理解が難しいし、たとえば奇声や、同じ動作を繰り返す「常同行動」は奇異に映ることさえあるのが現実。本書は、その「理解できなさ」の先にある自閉症者の感覚を、自閉症者自らの言葉で定型発達者に伝える画期的な本でした。


書店の発達障害のコーナーで発見。現在は角川文庫にも収録され、手に取りやすくなっています。

自閉症者の感覚。たとえば、「なぜ自閉症者の自分はうまく挨拶ができないのか」というテーマの章で、著者は「自分には人も風景の一部に見えるのだ」と解説します。

 僕には、人が見えていないのです。
 人も風景の一部となって、僕の目に飛び込んでくるからです。山も木も建物も鳥も、全てのものが一斉に、僕に話しかけてくる感じなのです。それら全てを相手にすることは、もちろんできませんから、その時、一番関心のあるまのに心を動かされます。
『跳びはねる思考』p29

自閉症者が挨拶されても返さない時、この感覚を知らなければ単に「失礼だ」と感じてしまうでしょう。いくら「自閉症だから」と説明されても、「なんでこんなことを理解できないの?」という疑念は消えない。障害の有無の説明は「理解できなさ」をほぐすまでには足りない。

しかし、著者の言葉に触れると、初めて「人も動物も建物もいっぺんに話しかけてくるような感覚になるのなら、挨拶一つもめちゃくちゃ大変だ」と思い致すことができる。もちろんそれは「理解」とは違う。その感覚を知っても定型発達者には体験し得ないものだからです。でも少なくとも、この瞬間、定型発達者の「理解できなさ」は多少糸がほぐされ、「隙間」ができている。その隙間の先に自閉症者が見えてくるような気がするのです。

ドキリと胸を刺す言葉もあります。たとえば、「人の話を聞く」がテーマの章。

 話すことよりも、聞くことのほうが難しい気がします。
 話せない自閉症者は、人の話を聞くだけの毎日です。
 そういう人は、知能が遅れていると思われがちですが、そうとは言い切れません。
 人の話を黙って聞く、こんな苦行を続けられる人間が、世の中にどのくらいいるでしょうか。
『跳びはねる思考』p114

「著者は自閉症者で話せない」と考える時、私は「話せない」ことにフォーカスしていたことに気付きます。しかし、話せないことは、「聞いていない」ことを意味しない。むしろ、話せないからこそ、自閉症者は聞き役に回らざるを得ない。

しかし著者は「人の話を黙って聞く、こんな苦行を続けられる人間が、世の中にどのくらいいるでしょうか」と鋭く問いかける。滅多にいない。ましてや定型発達者の中には、どれほど少ないでしょうか。

話せないことで、自閉症者は受け身と思われ、その役を果たし続けなくてはないけない。それに耐える人々は、どれほど忍耐強いのかと、はっとされられるのでした。

本書を読んで、定型発達者の中で自閉症者が生きることは大変だと思わされる。決して美談ではないのです。しかし、自閉症者には自閉症者の感じ方があり、その中にはもちろん、喜びや幸福もあるのだと、当然のことに深く思いを馳せるのでした。

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