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歩くとは読むことーミニ読書感想『散歩哲学』(島田雅彦さん)

小説家島田雅彦さんのエッセイ『散歩哲学』(ハヤカワ新書、2024年2月25日初版発行)が面白かったです。まさに散歩道のように、寄り道だらけ。それが良い。島田さんは呑兵衛らしく後半はほとんど飲み歩きの話。それも良い。そんなこんなしてるうちに、散歩哲学の何たるかが体に染み渡る。


散歩とは何か?それは「読むこと」である。歩くことは読むこと。それが散歩哲学と見受けました。

たとえばエピローグでこんなふうに語られる。

だが、創作のことを忘れ、散歩に出て、草木や昆虫、野鳥と親睦を深めながら、自由に連想を広げるようなこともやっている。都市も里山も多様な細部で埋め尽くされており、本のように読むことができる。花鳥風月を愛でることは自然と対話することであり、自然観察と自己認識は表裏一体だった。

『散歩哲学』p216

都市も里山を歩くことは、その細部に目を向け、読み取ることである。それが著者の説く、散歩を通じた風景との対話です。

本書をめぐり直すと、プロローグでも同じように訴えていることに気付きます。

読書も、テキストの森に踏み込み、コトバと出会い、刺激を受けるという意味では、散歩なのである。そして、散歩は街や山谷に埋め込まれた意味やイメージを発掘するという意味では、読書なのである。

『散歩哲学』p9

今度は逆に、読書とはテキストの森をさまよう散歩なのだとも説かれている。散歩と読書の相似。無為で、何も生産する行為ではないようにみえる散歩を「街や山谷に埋め込まれた意味やイメージの発掘」と捉え直してみる。なんだか散歩が、冒険のような色彩を帯びてくる。

発掘とは、物事の輪郭を掴むことが肝要。闇雲に「読み取ろう」と意気込むことは、化石に向かって力一杯ハンマーを振るうことに似ている。意味やイメージはそんな乱暴な仕草では形を崩してしまうはずです。著者の説く散歩はもっと脱力している。

おそらく発掘とは、例えば今の時期は、ピンクや白に色付いた梅の花に気付くことなのでしょう。そこから立ち現れる季節を感じる。立ち現れてくるもの、差し出されるものを受け入れる感覚。

だから著者は最初の引用で「細部」という点をわざわざ強調している。「埋め尽くされ細部」を自由に楽しむこと。それが読むことの喜びだし、つまりは歩くことの楽しみである。

本書がまさに、埋め尽くされた細部と言えます。著者の思考はベネチアだったりネアンデルタール人のいる荒野だったり、はたまた入管法改正反対のデモが行われる都心の一角に飛ぶ。そして、さまざまな豆知識・ミニ情報に溢れている。

特に気に入ったのは足軽の話でした。

足軽が腰に持つ巾着には、蕎麦の実が入っていたらしい。戦が長引きそうになると近くの荒地を耕し、植えるのである。収穫まではわずか三ヶ月だ。最初は茎の赤いスプラウトが出る。これも栄養価が高い。そして実が実れば、蕎麦がきや蕎麦にすると、腹持ちは良い。足軽は食料を自給する兵士のことである。いつでも畑を耕す農民になるフットワークこそが足軽の真骨頂というわけだ。

『散歩哲学』p85

もしも、本書が「歩くことは読むことだ」という論を効率的に伝えるためのエッセイなら、足軽が蕎麦の実を携帯する話は要らない。でも、「要らない」細部こそが、自然を、街を、そして物語を形成している。そう考えると、実は足軽の話こそ本書には必要だし、なんなら欠かせないとまで言える。

本書を開いて、自分の好きな細部を探す。本書を読むことは実は、散歩のトレーニングになっていることに、読み終わって気付きます。

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