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言葉は私の中の他者ーミニ読書感想『レトリック認識』(佐藤信夫さん)

佐藤信夫さんの『レトリック認識』(講談社学術文庫、1992年9月4日初版発行)が知的刺激に溢れていました。前作『レトリック感覚』に続くシリーズ。古来から伝わってきたレトリック(修辞法)は、現代ではてんで顧みられなくなった。そこに光を当て、レトリックの奥深さを伝えてくれる。


目から鱗がたくさんです。たとえば、下記の小説の文章には「諷喩」というレトリックが使われている。

心の戸を、半ばあけて、ためらつてゐる感じだつた。あけきつても、竹原ははいつて来ないのかもしれぬ。

心の開き具合を扉に例えて、その次の文章では、竹原という人物がなかなか人の心に踏み込まない様子を、「扉を開け切ってたとしても入ってこない」という「扉の話」で引き継いでいる。例え話を続け、例え話だけで本来語りたいことを語ってしまうのが諷喩という技法です。

本書には、こうした「言われてみたらこういう表現はよく目にするな」という驚きが溢れている。深い森の中に案内され、さまざまな樹木の生態をガイドしてもらうような発見があります。

現代では、オリジナリティが重視される。表現でも、他の誰でもない自分だけの表現が求められる。でも、レトリックというのは、「みんなで作り上げた言葉」の上に立つことです。

言葉は常にオーダーメイドではなく、テーラメイドにならざるを得ない。そしてテーラーメイドを上手に着こなすことが、言葉を巧みに操るということなのかもしれない。このことを、著者は次のような言葉で表現します。

そういうとき、ふと、ほとんど幸運な偶然のようにある適切なことばを思いつき、ほっとすることがある。それこそ自分だけのことばだ、と感じることがある。けれどもそのことばは、私がそのときの自分の気もちに合わせてあつらえ、こしらえたものではない。無数の他者がもちいてきた、かぞえきれない用語法の累積をになったことばなのだ。ことばはすべて既製品である。(中略)もう一度言いかえてみるなら、そうだ、きっと、私の思いは私の中の制度をーー私のなかの他者をーーたよりに成立するほかはないのだ。

『レトリック認識』p57-58

私の言葉だと思った言葉も、実は他者の言葉である。私の中にある他者。それが言葉である。

そう考えると、言葉とは根源的に、それ自体が、他者とのリンクと言えるのかもしれません。

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