「地雷ワード」にキレてしまった夜の追想@傾聴

あの夜、友人たちとの酒宴でワタシはキレました。

かなり酒を飲んでいたことは理由のひとつです。
これは間違いありません。
おそらく酔っていなければキレることも、そのまま席を立ち帰り去ることもなかったと思います。

リアルでは数少ない友人たちで、楽しい空気ではあったのだからシラフならありえない行動です。
今後のことを考えれば、気まずい空気を遺すべきでないことは考える以前の問題です。
後先の考えなくキレてしまったのは「理性」ってやつが酒に呑まれて霧散していたからでしょう。

翌朝ひどい頭痛を抱えたまま、失敗したと思いましたが、ほんとうに失敗だったのか?と、今は考えています。
あそこが、そうしたタイミングだった気さえします。

その夜・・・

酒も進み佳境にはいったとこで、友人の一人が
「“バカな人”は・・・」と話し始めました。
おそらく、バカな人の一例を話していたのでしょうが、ワタシには内容がまったく入ってきませんでした。
「バカな人」のみに反応し反復し充満し、一瞬で血が沸点をオーバーしてしまいました。

そう、ワタシはアタシのなかで、その「バカな人=アタシ」としか聞こえてきませんでした。
「オマエがバカだろ」と言われたと感じました。
とつぜん図星を突かれた感じです。
そうだ、バカはアタシなんだ、と合せ鏡に吸い込まれるように、その思いがアタシの奥へと吸い込まれていきました。
ここのとこのストレスも、いざこざも、なにもかもすべて「バカなアタシのせい」なんだと感じ、居たたまれなくなりました。

心の深層で人知れず、というかワタシ自らも知らず “のたうちまわっていた” 邪気があふれた瞬間でした。
たった一言「バカな人」というキーワードがトリガーでした。
世界中のあちこちで言われている「バカ」は、アタシに聞こえてないだけで、全部アタシのことを言っているんじゃないか、って気さえしました。
アタシが追い込まれている事情もなにもしらない曲に「バカ」と馬鹿にしやがって、って。
バカの表面だけを話題にして笑いながら、馬鹿にしやがって、って。
どいつもこいつもふざけるんじゃない、って、感じてしまいました。
被害妄想ってのはこんな感じなのでしょうか?

もちろん、「バカな人」って世間話をした友人にはまるで関係ありません。
ワタシの裡にあるアタシだけの物語にすぎません。
勝手に反応して、勝手にキレて、勝手に落ち込んでいるだけです。
ほんとバカバカしい話しですね。

ただ、ワタシ自身も裡の底にあるどす黒い邪気に気づかなかったことを知りました。
おそらく、心のなにかの機能が、その邪気を隠そうとして無いものとしようとしていたと思います。
それが、あの夜、露呈されました。

「どす黒い自分」が自分も知らない裡にいると自覚できたことは良かったのかもしれません。
自分の深層まで理解し許容することは、いろいろな面で生きやすくなると信じます。

でもね、もう一つ考えたこと。

今回、友人は毒多のなかでこんな物語が展開されているなんて知らなかったと思います。
というか、想像以前の問題でしょう。
普通は、他者の心の深層なんて考えながら話しません。
しかしこれは常に隣にある問題かもしれません。
普段の何気ない会話をするときも、誰かにとっての「地雷ワード」は転がっています。
それがなにかは解らないままに。
noteだって、読んでいてイラっとするワードに出会うこともあるでしょう。
筆者にはまったくそんな気がなかったとしても。

たとえば、なんの変哲もない会話をしているなかで、突然だれかの機嫌が悪くなるとする。
酒をのんで理性が崩壊していなければ、理性の力で一瞬表情が曇るだけかもしれません。
表情を曇らせても、もともと本能で隠そうとしている、その心の奥底にあるものですから、自ら追求することもないでしょう。
みずから、有耶無耶にして何でもなかったように、聞いたことさえ消し去りそうです。自己防衛のために。
でも、もし意識していれば自ら、これが自分にとっての「地雷ワード」ということを知ることができます。
そこからみずから自己の深層まで追求すれば、自分のしらなかった自己理解につながるかもしれません。
識っていればこそ、余裕につながるでしょう。

これは傾聴と似ています。
もちろん、“聴き手”がその「地雷ワード」を言うのではなく、“話し手”自らにその「地雷ワード」に辿り着くよう聴く、となります。
そして、今回のワタシのように自己を識るキッカケになる。
ただ、“聴き手”が意識なしに「地雷ワード」を言ってしまう可能性もあります。
話し手は図星をつかれ、キレるでしょう。
キレることはなくとも、耳を塞ぐかもしれません。
“話し手”がワタシのように思索して昇華できる人ならいいのですが(笑)、99%ありえないでしょう。
おそらくキレて(耳を塞いで)終わるに違いありません。
「地雷ワード」の底に広がる自己理解をより強固に蓋をするという、より悪い結果になるかもしれません。

つまり“聴き手”が物言えば、その可能性が常につきまとうということです。
傾聴において言われる、「聴くに徹する」ということのひとつの意味かもしれません。
逆に、“話し手”自身から「地雷ワード」が漏れたときには、“聴き手”が「地雷ワード」をリピートで漏らすという反応が必要かもしれません。
傾聴の研修なんかでいわれる形式的なリピートではなく、本当の意味でのリピートかもしれません。
それが傾聴の技なのでしょう。

いずれにしろ、後先考えずキレることができたのは、ワタシにとっては、よかったのだと思います。でも、友人にとっては、、、このnoteとほぼ同じ内容のメールはしましたが、、、
これからも友人でいられるのかはわかりませんが、友人でいられるならより深い関係になれるかもしれず、敬遠されるならそれまでということなんだろうと諦めるしかありません、、、、

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