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【映画】飛ぶ/落ちる/降りていく 『君たちはどう生きるか』についての雑文

【忙しい人のための要約】

『君たちはどう生きるか』は、それまで「飛んで」目的を達成してきた宮崎アニメが、『風立ちぬ』という落下の挫折を経て、「降りていって」目的を達成する作品である。

(完)

【↓↓以下の文章は「要約」に至るまでの長い旅路です↓↓】
【‼️当然ながら、『君たちはどう生きるか』のネタバレがあります‼️】



 


 いつも飛んでいたように思う。
 宮崎駿作品の主人公たちのことである。

 ナウシカは毒された世界の空を飛んでいたし、『ラピュタ』のパズーはフラップターを操縦し、カイトに乗って天空の城に到達した。
 ハウルは空中を歩いたし、『紅の豚』では男どもが飛行機を飛ばした。魔女の少女は箒にまたがってパンを届けた。
 飛ぶのは自力や、道具を使ってとは限らない。トトロにしがみついた姉妹、ハクに乗った千尋、シータはパズーと共にカイトにいたし、ソフィーはハウルに手を取られて空を歩んだ。
「飛ぶように」、という表現を許してもらえるのなら、サンやアシタカ(とヤックル)は屋根や山中を飛ぶように走った。ポニョは足を生やして重力に逆らい飛ぶように海の上を駆けた。ルパンは物理を無視して城の屋根から屋根に飛び移った。

 宮崎駿の映画の主人公や相手役は単独で、あるいは仲を深めた者とともに飛んでいた。「常に」、である。

 しかし2013年、『風立ちぬ』が作られた。
 これは、主人公は飛ぶことをやめた作品だった。

「飛ぶ」ことにはいつも、「落下」の恐怖がつきまとっている。
 宮崎駿の描く「飛ぶ」はいつも美しい。その反対の「落下」も、宮崎駿は限りなくおそろしいものとして力の限りに描いてきた。
 私はジブリ作品では『ラピュタ』を愛している。冒頭でシータが窓から落ちるシーン、気を失ったドーラのフラップターが海へ真っ逆さまになるシーン、城の底が抜けて大佐ほか無数の兵士が落ちるシーン、どれも素晴らしく、重力と重さの描き方が凄く、そして怖い。
 落下とは、死である。

『風立ちぬ』の主人公は幼年期に夢を見る。飛行機に乗って悪漢と戦う夢だ。しかしジブリ作品とは思えぬくらいにあっさりと主人公は落下し、夢から覚める。
 そして別の夢を見始める。
「僕はきっとうまく飛べないだろう。それならば僕は、美しく飛ぶ飛行機を作ろう」

◆◇◆◇◆

 ここで話は、別の道へと移る。あとで合流するのでご安心いただきたい。

 宮崎駿による「まともな」ストーリーアニメは、『もののけ姫』で終わりを告げている。

 と言って『千と千尋』以降がまともでない、と非難しているわけではない。しかし『もののけ姫』までのわかりやすい世界観やストーリー展開が、『千と千尋』以降はかなりあやふやになっていくことは同意してもらえるはずた。

 なんか……トンネルの向こうには不思議な国があって…… 
 おばあちゃんが若くなったり年取ったりして…… 
 よくわかんないけどポニョと結婚すれば丸く収まるらしくて……

 理屈や確固たる足場ではなく、「なんとなく、そういう感じである」という流れ。
 この「なんとなく、そういう感じ」でわからせてしまうのには、むろん宮崎駿の凄味もあるわけだが、『千と千尋』からの作品群は明確に、神話や童話を思わせる形となっているせいもある。

『千と千尋』は日本的な八百万の神の世界の話だし、『ハウル』は魔法や呪いなどの要素を含めて「欧米の童話・神話」であるように思える。

 余談ながら『ハウル』公開時、「週刊文春」で複数の映画評論家が作品に星をつけており、日本の評論家は『ハウル』に辛口だった一方で唯一の外国人評論家は星5つをつけていたと記憶している。欧米人の方がより無意識に「わかる」作品なのかもしれない。

『ハウル』の後の『ポニョ』は、これはもうどう見ても童話か、より対象年齢を引き下げた「絵本」の趣がある。「結婚することになって、めでたしめでたし。ふたりはキスをしました おわり」で終わるあたりの潔さを思い出してほしい。

 そこから『風立ちぬ』へと至るまでに、宮崎駿は2作の脚本を手掛けている。
 児童文学が原作の『借りぐらしのアリエッティ』と、監督を息子に据えた少女漫画原作の青春物語『コクリコ坂から』である。

 ここまでの流れを見ていくと、面白いことが浮かび上がってくる。
 物語とテーマ性が極まった『もののけ姫』以降、宮崎駿は、

『千と千尋』:日本の神話
『ハウル』:欧米の神話
『ポニョ』:絵本
『アリエッティ』:童話
『コクリコ坂から』:青春

 このように、
「物語の原始のかたちから、徐々に年齢層が上がってきている」
 と見ることができる。年を取っている、と言い換えてもよい。

 そうしてたどり着いたのが、『風立ちぬ』という流れになる。
『風立ちぬ』は言うまでもなく、飛行機作りに魅せられた男の、少年期から青年期(大人まで)を語った作品だ。結婚までしてしまう。
 神話や童話的なファンタジー要素は「飛行機作りの先輩との時空を越えた語らい」程度に収められ、あとはかなりリアルな物語となっている。
 飛行機作りは障壁や苦労もありつつ順調に進むが、しかし時代は、戦争の時代であった。
「美しいものを作りたい」と設計した飛行機は戦場に送られ、攻撃され破壊され墜落し、パイロットは死に、鉄クズと化す。
 肺を病んだ妻はこの世を去り、そこにはただ、静かに風が吹いているだけ──

 これを観ていて、私は映画館の座席で思った。強く痛切に、このように思った。

「これは宮崎駿が、自分のことを描いているのではないか?」と。

 神話から童話を経て青春を描いた男が、「大人の自分」について描いてしまった作品なのではないか?

 自画像を常に「豚」として描く宮崎駿。
 趣味で作ってしまった、と反省しているという『紅の豚』には、「飛べない豚はただの豚だ」という有名な台詞がある。
『風立ちぬ』はジブリのプロデューサー、鈴木敏夫による、「宮崎さん左翼で反戦なのに、戦闘機とか戦車が好きでしょ。それって矛盾してない?」という突き上げから生まれたという。

 戦争は嫌いだが戦闘機や戦車は好きで、しかし普通の飛行機を操縦することも運動もできない(幼年期は病弱だったという)「飛べない」男が代わりに選んだのが、「アニメ」という表現媒体だった、と考えるなら?
 アニメで人間が華麗に、あるいは物理法則を超えて「飛ぶ」ことを描きたかったのだ、とすれば?

 うまく飛べないなら、自分は「美しく飛ぶもの」を作ろう。そして「美しく飛ばそう」
『風立ちぬ』の堀越二郎と、宮崎駿は大きく重なるように思う。

 もっとも堀越の戦闘機のように「自作のアニメ」または「アニメ全体」が攻撃され破壊され……とはなっていないが、日本のアニメの親玉とも言える宮崎駿としては現状に何らかの屈託を抱えているはずである。

 事実、一般の親御さんからの
「ウチの子は『トトロ』が大好きで、もう何十回も観せてます!」
 とのコメントに、
「いやアニメとかは1、2回観りゃいいモノなので……お子さんは外の自然の中で遊ばせてください……」
 と困惑したこともあるそうだ。

 素晴らしいアニメを作ると、それに引っ張られて外に出たり友達の輪を広げない「不健康」な子供や大人が増えるという危惧……などと書くと各方面から怒られるかもしれない。申し訳ない。ご容赦願いたい。

 常々「人は自然を敬ってですね……」的な持論を展開し、『ナウシカ』『ラピュタ』『もののけ姫』あたりでも似たようなテーマを設けていた宮崎駿が、堀越二郎に「僕はただ、美しいものを作りたいと思っただけなんです」と言わせている。ここに、何もないわけがない。
 彼らにとっての美しいものとは飛行機であり、アニメーションであるだろう。

 そして堀越二郎は生き残る。「飛んだ側」ではなく、「作って、飛ばせた側」だからだ。落下の恐怖と死を知ることなく、妻には先立たれ、あとはもう何もない。しかし生き残ってしまった。
『風立ちぬ』の最後のシーンでは飛行機作りの先達・カプローニと共に、どこともない丘を降りて堀越は去っていく。カプローニに「君は生きねばならん。丘を下りよう。いいワインがあるんだ」と言われながら。
 複雑な思いを抱えながら業のようにアニメを作り続ける宮崎駿が、堀越の後ろ姿にダブる。

◆◇◆◇◆

『君たちはどう生きるか』は『風立ちぬ』以来10年ぶりの、宮崎駿の新作である。

 正直に言うと私は『風立ちぬ』で、宮崎駿はこれ以降は何も描かないだろうと思っていた。
「この先」を描くことは、大変な苦痛だろうと考えたからだ。
 この先とは戦闘機=アニメが山のように作られ、名作も生まれたものの、どんどん「消費」されていく時代である。「美しいもの」が変化していく時代である。
 自分も参加していて、現在へと繋がるそんな時代を、おいそれと語れるわけがない。そもそも宮崎駿は「自分はオタクではない」と断言している。
 かと言って「この先」とはまるで無関係な、若々しい娯楽活劇やファンタジーに仕上げるのは、これはこれで罪深い。それはまさに「消費」を加速させる映画となる。

 が、彼は帰ってきた。2時間のアニメーションを引っ提げて。

 結論から言うなら、『君たちはどう生きるか』はファンタジーでありながら内側に折れ曲がっていく物語であったし、「飛ばない」映画であった。
 
 主人公は鳥のオッサン(鳥のオッサン、としか言いようがない)の足に掴まって飛んだりはするけれど、その力はいかにも頼りなく、飛び方もどうにかこうにか、といった様子で、今までの「飛ぶ」とはまるで違う。
 主人公は歩く。足を床や地につけて歩く。這ったり四つん這いで動く。冒頭の全力疾走の他はほとんど走らないはずだ。舟を力いっぱい押し、自分の手でザクザクと穴を掘る。そして頭には傷ができる。つまり身体性がある。
 時代設定もあろうが、屋内を裸足でぺたぺたと歩くシーンが多いのも印象的だ。彼は決して飛ばない。とにかく歩く。

 その代わりに、彼は「下へ」と潜り、あるいは引き込まれていく。

 空襲で死んだ母親の妹で、父親の再婚予定相手である女性の屋敷。その外れにある塔に、主人公は奇怪な青鷺によって呼び寄せられる。
 書痴となった大伯父が住んでいたという塔で、主人公は本だらけの部屋の床に引きずりこまれ、火を使う娘にテーブル上から「引っ張り」こまれ、鳥怪人たちがひしめく地下世界を降りて降りて降りていく。下へ。下へ。
 そこで待っているのは自分と同じ血を引く者たちである。地下世界を支えているという大伯父、「若い娘」になっているが「長じた後に主人公を生む」と知っている母親、そして新しい母となる予定の女性。自分の血脈、下地となっている人々。

 つまり『風立ちぬ』で「美しいものを作りたい自分」の屈託を語った宮崎駿は、「その先」ではなく、屈託から折り返して自分の原体験、少年期へと降りていくのである。
 疎遠な母親への思い(これは変奏され諸作品に幾度も出現する)、被災者としての戦争、空襲で燃える夜の町、疎開、浩瀚たる読書、絵画……これらか「塔」と「血」でパッチワークされていく。
 舞台も驚くほど狭い。序盤で疎開?してきた時から学校に行く3分ほどを除いて、舞台は屋敷と塔の他には出ない。狭いが、そのぶん地下はおそろしく深い。

 これを「先を描かずに逃げた」と言うのは容易だ。さらに「飛んだり跳ねたりが少ない」と文句を言うことも簡単だ。正直、私も言いたい。爽快感がない。風景や細部で瞠目する箇所は多々あれど、旨味が薄い。
 しかしこれは、そもそもそういう映画ではない、と言うこともできよう。「飛んだり跳ねたり」の映画ではない、と。旨味がどうとかそういう店じゃないんですよウチは、と。

 つまりこういうことだ。
『ポニョ』までの宮崎駿自身の監督作は、「飛ぶ」「飛ぶように走る」ことで様々な困難を乗り越え、帰ってくる映画だった。
 しかし『風立ちぬ』で、飛ぶもの、飛べるものはみんな落ちてしまった。
 自分はもはや飛ぶことはままならない。「浮く」くらいならともかく、むしろ自由に「飛ぶ」ものはほとんど敵とさえ見える(『君たちは~』における鳥の扱いを参照のこと)。

 ではどうするのか?

『風立ちぬ』は、丘から降りるシーンで幕を閉じることは上記の通りである。
 そこから先へと行かずに別の物語をはじめるとするならば──より「下へ」行くしかない。
 落下ではない。落下は死である。一歩間違えれば死であることは間違いないし、実際鳥人間に喰われそうになったりもするが、主人公は引き込まれたりしつつも、自分の意志、自分の足で降りていく。自身の血脈へ。秘密の地下へ。無意識にも似た異形の世界へ。敵(鳥)が跋扈する冥界へ。死にかけたペリカンは「ここは地獄だ」と呟く。それは80を越えた宮崎駿の死への恐れから呟かれた台詞かもしれない。
 
 そうして、母親や新しい母親との再会を果たして、地下世界の崩壊と共に主人公は「地上へ」と戻ってくる。なしくずし的にではあるが鳥人間たちは普通の鳥になり、色彩豊かに大空へと羽ばたいていく。できるだけ「飛ばずに」目的を達して戻ってきたことで、飛ぶものは敵ではなくなった。

 つまるところ、「飛ぶ」ことで目的を達成していた『ポニョ』までと、完膚なきまでの落下(しかし生きてはいる)を描いた『風立ちぬ』を経て、『君たちはどう生きるか』は「飛ばないまま降りていく」映画である、と結論づけることができる。

 記事の冒頭でまとめた通りの結論に達したのでここで終わりたいと思っていたものの、ひとつだけ書き足しておきたい。

「次は、あるの?」

 自分の内側に降りていった宮崎駿は、ようやくゼロ地点、戦闘機が墜落して地面が凹んでいない地上にまで戻ってきた、と言える。
 幼年期・少年期の屈託をファンタジックに消化したであろうこのアニメ監督に「いやぁスッキリした! ほな!」と去ってもらうわけにはいかない。強くそう思う。
 っていうかいっぺん引退宣言からの撤回をやってるわけで、1本で「じゃ、また引退しますわ!」となるのは、何というか、ズルいと思う。
 82歳という年齢のことは知っている。しかしせっかくゼロ地点に戻ったのだから、そこからもう1本、プラスの方向へと伸びる作品を作ってほしいと思う。
『風の谷のナウシカ 完結編』とか、超絶大活劇をやってくれとは言わない。
 要するに本作のタイトルを生かしてほしいわけである。作中で『君たちはどう生きるか』を読んだ、というので回収したでしょ、みたいな顔はしないでほしい。

 ゼロ地点からの、先をやってほしい。
 後回しにした「先」を。

 それは欲張りにしても、ガッシリとした物語を語ってほしいのだ。そう、「俺はこう生きた」と叩きつけるような、強いアニメ。
 そんなアニメで、完膚なきまでに打ちのめしてほしい。そうすれば本作が遡及して、強い意味を持ってくるはずである。

「俺はこう生きたけど…… 君たちはどう生きるか?」



●追伸
「ジブリ飯」は、2回出てきます。



【おわり】

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