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ジョーカー(2019)


劇場を出て、たぶん世界にはジョーカーを感情移入させて歩く人がたくさん。人間はポリス的動物だから、自分たちは(ピエロを)演じていないか反省して、多くは日常に戻る。しかし、「群衆は何も考えない。何をするかわからない。」

だから少しだけ理解して、この世界とは関係のない話として、向き合うことにしよう。そんな風に処理しようとして、ふと気づいてしまった。自分の中に出来上がった大人としての都合のいい感受性の姿に。どこまでならセーフでどうあるべきか、経験から導きだした、自分で造ったあるべき姿の自分。何かあればそこに戻ってこようとする習性。

刺激的な映画は、その習性に摺り寄る性善説のスカッとさせるタイプと、気づいてしまうことに待ったをかける性悪説によって、日常隠している本来の自分を詰めてくるタイプがあるように思う。映画ジョーカーは後者だ。

映画を見終わって、目的に向かって階段を登るような、または夢破れて階段から降りるような感覚は珍しくない。しかし僕はこの映画をみて、階段のいまいる位置からただ横に移動してみたいという新しい感覚に襲われた。同じ段にいる人に出会うことへの期待ではなく、見える景色が変わるかもという打算でもなく、動く事が出来ることを確める為に動いてやろう、という安直な発想だ。こんな感情はなかなか湧いてこない。ただ生きることの辛さを前進も後退も出来ない苦しさによって描いた映画だったからだ。

生きることは、つらい。なのに、生きることは人生として評価されるから、それなりに点数を採ろうとする人がたくさんいる。みんなそれなりに、だから、競争になる。

生きるための対抗手段として個人的な正義は当然生まれるが、そこに優しさが含まれているのなら競争には向かない。だから、軋む感情を敏感に汲み取る周囲の優しさはそこから隠れるように萎んでいく。優しさってなんだっけ?そこで答えてくれる誰かは常に権力の近くにしか居ない。そして、その優しさの輪郭は気が付いたところですぐにその形を変える。そこでは優しさは、都合よく形を変えることを許されているのだ。

全体に参加することを阻害している原因として権力から認知されるようになれば、優しさは障害として認知される。しかし一方では個性的で良いとする権力者のまなざしが冷たい。このようにして、競争には負けの認定を押されたうえ、全体に対して個人の正義はますます孤立する。そのうえで、表現することが半ば嘲笑される対象という目立ち方をしてしまえば、まさに袋小路と化した社会の姿に、成す術もない。

階段があるから登るに決まっているという人たち。その階段の途中で、登っていく人たちを嘲笑する群衆。そしてジョーカーは踊り、下っていく。
階段があるから降りるに決まっているとばかりにジョーカーについていく群衆。

この映画の辛さは、孤独である。表現という一本道から降りれなくなってしまった男の正義の裏には、あるべき暖かさが失われた隣人への恐怖心があった。それは、誰もが気をつけるべき、当たり前をただ成すことへの信頼の喪失という、身近だが深刻な昨今の変化に他ならない。

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