武術からみる東洋思想2 捨己従人

前回、タオとは一語で言い表せる公式ではなく構造、モデル、系のようなものであると書きました。その系譜に連なる太極拳もご多分に漏れず、そうしたシステムを持っています。それゆえに誤解されやすいのが、最大の特徴である捨己従人という概念です。
人に従うなんてまっぴらごめんよ、てやんでえ、こちとら世界中の人間を敵に回してもたった独り、自分だけは自分を見放さないと腹を決めてんだ、というような人(その意気や良し)は早とちりしますが、これは長いものに巻かれろというような話ではないし、受動・消極的な処世訓ではありません。

構造、モデルとして考えたときの捨己従人の「人」は何かというと、個別の人格ではなく、天地人の三要素の一つです。
天地人は、天体の運行(=天命・運)・地形(状況)・人為とも言い換えられます。そしてこれらは並列に現象として取り扱われます。
血の気の多い人は飲み屋でうるさい若者グループ、ぶつかりおじさん、煽り運転、粘着アンチなどの現象、情報を、毎回拳で語り合って個別撃破しようと考えますが、これらは無限に沸いて来るので不毛です。出くわしたら、現象だな~と見て淡々と対処した方が健康でいられます。
うるさい若者グループは店長に、ぶつかりおじさんは駅員に、煽り運転は警察に、粘着アンチは運営に通報するのが捨己従人とも言えます。

現象とは風とか波とか光とかと同じで、観測は出来るが物質ではないものです。般若心経では色即是空、空即是色(現象は情報として認識され、情報は現象として観測可能なものである)と説かれていますが、つまるところ人為は情報であり、やっていることは現象なので、それに従うというのは誰かの言いなりになるのではなく、その現象のもつ法則性、情報に則ったレスポンスをするということです。たとえていうなら相手がジャンケンでグーを出してきたなら、それを見た上でパーを出すのも捨己従人です。そこで、いーや、俺はジャンケンときたらチョキ一本と生まれたときから決めているんだ、と言って相手がグーを出しているのを見てからなおチョキを出すようなことをするな、ということです。

そんなの当たり前じゃないか、バカにするなとお思いでしょうが、これをもっと一般的に敷衍してみるとどうでしょうか。毎回、同じようなクズ男やメンヘラにひっかかり、騙されたり金をとられたり、暴力を振るわれたりしている人は後をたちません。キャバ嬢やホストに貢ぐ行為や、長期的に見れば負けると分かり切っているギャンブルに依存している人はグーを見てからチョキを出す人を笑えるでしょうか。
武術も同様で、なまじ自流こそ最強という自尊心があると、相性の悪い武器や自分の特性を生かせない状況でも、自分のやりたいことを優先してしまいます。槍を学んだからといって竹を見たら竹槍にする必要はなく、相手が遠いなら弓、森の中ならブービートラップを作ればよいのであって、わざわざ最前線に出る必要はない訳です。

捨己従人は、現象・情報に対して感情や希望、価値判断を持ち込まない、という解釈も出来ます。トラウマの再演や過去の成功体験をなぞることもせず、今この瞬間の一回性に全霊を注ぐことです。
ちょっと待って、タオは再現性のある円環構造で永遠性があるのではなかったの? と思うかもしれませんが、同じトライを繰り返しても打破できない状況で同じミスを繰り返す人はむしろ円環にも永遠にも辿り着けません。そこで打ち切りです。百年の恋もひとつの暴言で終わるし、将棋の順位戦やA級棋士に在籍し続けるということが盤上この一手という極限の刹那の繰り返しなのと同じです。太極図の陰陽はキリンジの歌詞でいうところの『永久と刹那のカフェ・オレ』なので、今この瞬間が全てという感覚の中に永遠があるともいえます。
まあこの理屈は見ようによっては、じゃあ次のレースに全財産賭けようというような思考も生むので危ういのですが(その意気やよし)。


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