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対談:剣術家・ぼっけもん豪先生と白桃会・佐山史織

・この記事はブログ『ドラネコ画報』に収録されていた対談を一つにまとめたものです。豪先生は顔が広いので、いらぬ摩擦を避けるため匿名での発表となりますが、その分忌憚のない本音の意見が聞けたと思います。

◆入神・没我

 精神をメソッドによって一定の状態に導くというのが難しいな、と。
生徒に「集中してくださいね」と言っても、言われた方がするのは「その人の今の意識の階層の中での集中」であって、私から見ると階層自体が違うんですね。修験者とかゲリラ戦の兵士とかが気を抜いているときのほうが、一般の人の集中しているときより集中している。
その辺、どう教えたものか難しいんですけれど、真剣を扱ったり、儀礼とか作法とか型がある剣術ですと、それが導入になって精神状態が導かれるんじゃないかと思って、どのような指導をなされているのかお聞きしたくて。

 うわあ、午前中からこの話題ですか。ヘビーな(笑) いや、仰る通りで滅茶滅茶クリティカルなところですよね。難しいんですよそこ。全然解決策を導き出せてないんで。

 豪先生自身、共感覚があるという話を書いてらっしゃいましたけど、元々そういう点では鋭いというか……。

 ああ、多分集中力はある方だと思いますよ。武道の稽古も集中して入るというのはそんなに苦労なく教わることもなく最初からそこそこできでたので。

 そうすると教えるときに困りますよね? 

 それは確かに。

 豪先生って結構、待ち合わせの約束とかメールの返信とか忘れるじゃないですか。

 えっ! 完全に忘れてることってありましたっけ。

 ちょいちょいありますよ(笑) あれって逆に集中力の高い人の特徴だと思うんですよ。完全に一個の事に集中している人って他の事忘れるんで。まあ、非常に好意的な解釈ですけど。

 ニュートンが考えごとしながら歩いているときに木にぶつかっていたとか。

 そうそう、アルキメデスが法則を発見して風呂から往来に裸で飛び出したり(笑) でもそういう部分がないとちょっと難しい訳ですよね。

 佐山先生はその辺はどうなんですか? 社会性は完全に私よりぶっ飛んでいる人ですけど。

 一応、そういう面があるのは自覚しているのでがんばって社会に合わせようとしてます。

 意図的に対策していると。

 あまりにも意識のチャンネルが解放されてしまうと、居酒屋のBGMとか、普通意識されないものが非常にうるさく感じて、歌詞の内容も情報として耳に入ってきたりして不便だし、でも居合とかだと街を歩いている人全員がモブ(群衆)ではなくひとりひとりが、ある日突然斬りかかってくるという前提があるので、取捨選択しないでフラットに全部の情報を取っていかないといけない。

 ああ、極論するとそうですね。

 そうするとちょっと病的ですけど私の場合、土がアスファルトで覆われている息苦しさみたいなものまで感じ取ってしまう。これはあえてちょっと鈍くしていかないといけないな、と思う事もある。

 それは狂気になりうるから、ということですか? ああ、わかります。私の場合、自分の元からの性向なのか武術の稽古でそうなっていったのか全然区別がつかないんですけど、雑音があるところが苦手だし人混みが苦手だし、こうやって都会に来ることがすごい久々なんですよ。とりわけ満員電車に乗るとか苦手なことで満員電車に乗って毎日同じ場所に行けと言われたらたぶん、半年くらいで自殺する。

 あれが平気になるという事は意識の階層を下にさげている。

 まあ現代社会の大人力イコール鈍感力というのは動物的な次元では絶対正しいでしょうね。

 そうすると武術的に求められるものと正反対のベクトルになってしまうという。

 何を以って武術的と定義するかですよね。そういう状況も含めて適切にサバイバルしていくことも武術なら鈍感力も必要だな、と。逆に伝統武術が起源としている状況で個人としてハイパフォーマンスを発揮するということを考えると鈍感になっていくのは好ましくない。
まあ江戸時代から多分あったと思います。この問題は。都市化とか武士の官僚化というのはその時代ですらもう進んでいる訳で、そういう環境の中で生きていくためにある種の能力とか感性をわざと鈍磨させなければいけない、という。
兵法者であることと一般の勤め人としての武士であるという属性が矛盾を孕んでいて、そこを両立させて生きていかないと、という問題はあったと思います。

 武蔵も剣だけでなく絵だとか彫刻だとかを残していて、それを見るとナイーブな一面というか……で、後年、洞窟に入ったり、もしかしたらそういう人と関わること自体がストレスになってしまったのでは?

 それは感じますね。まあその当時の主流の社会の活動とかに参画していきたい、関わっていきたいという欲求もあって、それこそ芸術活動ですとか町割り、都市計画ですね、そういうことに携わったり、江戸でも能の観劇会に参加してたんじゃないかという説もあるんですけど、そういう志向の強さと同時に自分ひとりで練磨を追求する時間が絶対に必要で、そういう矛盾した要素を持ってたんじゃないかなと思います。

 豪先生も最近Twitter離れがある訳ですけど、剣術的な未発の気を読む、といった感覚が先鋭化していくと人の悪意を受け取りやすい。あ、この人語調は丁寧だけど心の中では馬鹿にしてるな、とか、そういうものを受け取りやすいですよね。

 そうですね。

 そうすると武術自体がコミュニケーションの技術であるがゆえに、こちらがそれに先鋭化していて相手が鈍感な場合……。

 片務性が生まれるというか。そうですね。でもそれこそ自分の場合、自分の性質というか武術以前のところもあるので……。意識化したのはつい最近なんですけど努力して慣れてきたんだな、と。
たとえば一時期、中高生のころは電車通学で目が合った人の顔を一カ月くらい覚えているんですよ。空いている車両だったら一番端のほうから真横とか後ろに近い角度からでも視線を受ければ振りむいちゃう。
そういう流してもよい情報を全部鮮明にとっていた時期があったんですけど、脳のどこかが過剰亢進状態だったのかもしれないですね。そういうころは不眠症があって夢とかも全部色があって覚えている。バランスは悪かったでしょうね。人間として。ある部分は特化してして集中力はあるけど、いつも疲れてたので。

 「天狗になる」って慣用句がありますけれど、修験者が中途半端に神通力的なものを身につけると、そういう魔境におちてしまう。

 そうですね。あのまま亢進状態が続いていたらいつかは疲弊してノイローゼとか鬱病とか統合失調症とかになってしまったかもしれないですね。

 昔ですとそのチャンネルの開く閉じるのメソッドとそれを教えてくれる師がいたと思うのですけれど、現代で我流でこれをやることの危険性をちょっと感じていて。どうなんだろうなあ、という。あんまりそういうことばっかりやってるとオカルトくさい団体に思われるし。

 そうですね。そこを教えるのはデリケートな問題だと思います。私の場合、武術の稽古の結果、そうなったのではないんで、自分なりに苦労して、抑え方、鎮め方、閉じ方を作って来て、それでようやく熟睡できるようになったりとか……自分なりのやり方は分かっているしそれを言葉にして伝えることも出来るんですけれど、やはり普遍性のあるメソッドとは言いにくいですね。
開く方のメソッドも、私一応、修験道も少しやっているんですが、あれをやっても別に全員が開く訳じゃないんですよ。ごく一部の生死をかけて追い込んだ昔の人たちは危険性と引き換えにある種の感覚が開くというのはあったかもしれないですけれど、今はそんな危ないこと誰もしないし。

 その、ストレスをかけることで覚醒するというのは少年漫画的な展開で非常に熱いんですけれど、そうならない場合も非常に多いですよね。

 厳密に言うとあれは方法論ではないんですよね。その環境を与えて生き残れるかテストをして、生き残る場合はある種の跳躍、飛躍があるっていう。

 で、ごくごく一般的なおじさん、おばさんで、暴力や死に拒絶感がある人たちをなんとかその領域にもっていきたいな、という場合、どうするべきなのかというのが難しくて、うちの場合は遊び、遊行という形で、まず無為・無心に遊ぶことで入神していくのを導入としているんですけど。
実用から離れた武術を教えるというのは抵抗があったんですけれど、最近は、むしろその意識のチャンネルに入ることが本義であって、生き死にの戦いについて考えるというのはそのための方便、方法論という見方も出来るなかな、と思って。むしろ実戦性というものを追求していくなら、知覚と認識が変わらないといけない訳ですし。

 気功とか体の感性を高めるとか、実用的な技や稽古に至る以前の、ある種のモードに入る状態を作るという事については私も考えてきたんですけど、やはり難しいんですね。それをやって開く確率がどのくらいあるのか今のところ保証がないし、長い時間がかかってしまう。それにやっぱりそういうことをやっていることで誤解が生じてしまう。一般的なイメージの武道をやりたいという人からは、それはなんの役に立つんだ、という批判が当然あるし、そういうことに興味ないという人も出てくるし。
佐山先生がよく話題にされている徒弟論、師、弟子とは何か、という論にもなるんですけれど、現代で習いに来た人は自分が理解できないものをやることや、それに耐えてまで自己変異を求める人は少ない。

 それに対してこちらが味付けとか盛り付けを変えてどうやって食べてもらうか。まあチベット仏教とかだと埋蔵教典っていう効能が本物ならそれをやらせるために来歴とかは嘘も方便でもいいみたいな。西洋の錬金術とかもそうですよね。金が作れますよ、というので釣っておいて、最終的には金は心の中にありますみたいなことで精神修養みたいなことに入っていく。

 密教ってそういうやり方ですよね。シンボルに集中させて陶冶をする。

 そうそう、女子マネージャーで釣っておいて、入ると屈強な男子部員しかいない(笑) でも卒業するときには入って良かったな、良い青春だったなと思う。

 その方便と結果へのアプローチがやっぱり人を選んでしまう。

 あと、途中で辞めた人はやっぱり騙されたって思っちゃうんですよね。まあ実際騙してるからしょうがないんですけど。

 その途中で辞めちゃう人たちを残らせる強制力も現代ではないし、来ている人もそこまでの求道心がある訳ではないので。難しいですね。

 もうひとつ難しいのは人によって感じ方が違うことで、たとえば入神状態を作る、ということでいうと茶道とかは作法が厳密に決まってますよね。袱紗のたたみ方、茶杓の置き方。そうした礼や作法が入神状態を作るメソッドでもあるのだけれど、やっている人がそれを手順で覚えようとしてしまうと……。

 むしろ心の中がビジーな状態になっていまう。

 太極拳も同じで順番を覚えよう、間違えまいとしている人はファンソンできない。そこでいくら順番はどうでもいから体の感覚の方に集中しましょうと言っても、その「体の感覚に集中している状態」というのが何を指しているのか分からないんですね。一度もそういう状態になったことがないから。

 難しいですね。知り合いで舞踏をやっている方がいて、そこでの稽古は自分にとってはそういう入神状態になるのに凄く即効性があるんですけれど、一緒にいた人の感想文を読むと、完全に手順でやっていて、ここでこうしてああして、という逐次的なもので,まったく没我して理性的な機能を外していくという方向に全くいかないんですね……。

◆ビッグウェンズデイと補陀落渡海

 いままで見てて一番、誰でも簡単に入神状態を作れる可能性が高そうだなと思ったのは、映像でしかみたことないんですけどメブラーナ教、スーフィズム(イスラム神秘主義)の旋舞ですね。バリ島のケチャともちょっと似てるんですけれど、ある種の動作と発声をくりかえしながらグルグル回る。

 今、知らないんでイメージしか頭に浮かばなかったんですけど、本部御殿手って近い事をしていませんでしたっけ? 両手に剣を持って廻る……。

それで思い出したんですけれど、豪先生は二天一流の指先(さしせん)の記事をお書きになっていて、その剣先の上がり方って凧揚げとかの感覚に近いんじゃないかと思って。

 ああ、そうですね。似てると思います。

 回転することで持っているものがフワって浮いてくる感覚って、(入神状態に)入りやすい……。

 そこは考えたことなかったけど確かにそうですね。遠心力が重力に拮抗して揚力を得るっていうのは意識で筋肉を操作して剣を振るのとは全然違うので。この体験はけっこう刺激になるかもしれないですね。旋舞もふわって衣装が遠心力で浮いていくんですよ。

 浮遊感ですね。私もあれが好きでいまだにブランコとか乗ったりするんですけど……あの『ビッグ・ウェンズデー』って映画ご覧になったことあります?

 いや、観てないです。

 サーフィン映画なんですけど、まあまあろくでもない若者たちがいて、戦争が起きて徴兵されて、戻ってきたら恋人が他の男作ってたり、一度はサーファーのスターに祭り上げられてたけど戻ったら時代遅れになってたり、アル中になったり……みんなろくでもないことにはなっているんですけど「サーフィンだけはやめられねえ! 波に乗れば最高だ!」みたいな映画なんですよ。
で、それが凄い分かるのは、一回、入神状態を知ってしまうと価値観自体が変わるっていうのがありますよね。

 そうですね。

 たとえば失恋したとか借金が一千万出来たっていうときに、その人に「サーフィン行こうぜ!」と言っても、やったことない人だったら「こんな失恋した直後にサーフィンなんて!」「借金が一千万もあるのにサーフィンなんて!」という。
でも一回でも入神した経験をしている人にとっては「失恋や借金をした上にさらにそれについて苦しむ」のってデメリットしかない。それに対して凧揚げとかサーフィンとかはすれば楽しいんだから断る理由がない。「こんな時にサーフィンなんて!」じゃなくて、サーフィンの方がいいに決まってる。

 むしろ忘れられますからね。ある意味ドーパミンも出てるんだろうし脳内ジャンキーみたいな。

 それがある限りは失恋でも借金でも自殺とかは考えないですからね。それはそれとして遊ぼうっていう。

 武術家はまあ、武術ジャンキーなんでとりあえず何があっても稽古出来れば「わーいたのしー、すごーい」ってなるんで。お金のかからない良いジャンキーだと思いますけど。まあ苦悩の中にいる限り有効な解決策っていうのは出てこないんで。

 六道でいうと地獄ですからね。自分で自分を苛む状況を作ってしまう。

 そうですね。そこを抜けだした超越的な視点で見ると案外、解決策があったりするので。「借金に苦しんでいるときに遊びなんて」という思考は具体的な解決に立ち向かっていないんじゃないかという思いが否定になっているんだと思いますけど……。

 苦しんでいるだけでもどのみち解決には向かっていない。

 ええ、ただその状態に縛られているだけなので。むしろ抜け出してみる方が解決の可能性は高いですね。

 少なくても解決はしなくても解消はしますからね(笑)

 最低限、解消はします(笑) フーッといってサーフボードから降りた瞬間ドヨ~ンってなるかもしれないけど。

 海から出なければいい(笑) 『ビッグ・ウェンズデイ』って本当にそういう映画なんですよ。最後、海に行って帰ってこなければいいじゃないかっていう。

 スーパーええじゃないか みたいな。一向宗みたいな感じですね。

◆一回性の再現

 向こう側に行って戻ってこないのが良いのか悪いのかは分からないですけど……。
カルロス・カスタネダの『ドンファンの教え』という呪術を題材にしたシリーズがありますよね。
あれに、そこに溺れちゃいけないんだという禅宗でいう魔境(座禅中、トリップして多幸感を得た体験を悟りだと思い、その状態に固執してしまうこと)みたいな話が書いてあって。
そこで書かれているのはまず恐怖と戦うということ。そうするとそのうちジェットコースターも真顔でハンズアップして乗れるような明晰さが出てくる。今度の敵はその明晰さなんだ、と。その明晰さがあると、麻痺みたいなもので、本当に危険なところでも危険と思わずに行ってしまうようになる。で、その次の敵が、その明晰さを乗り越えた力、ですね。そうした危険も実行解決できてしまう力を持つと、それを過信して溺れてしまうと。
で、それを読んで「あ、そこまで戦うんだな~」と。多分、武術的にはもう恐怖に打ち勝つ明晰さを得た段階で、大半の人が俺はもう悟った、極めたと思うんじゃないかと。

 ああ、それはそうですね。天狗になる。凄い納得がいく気がします。それは至言ですね。

 二天一流も解説を見る限りでは、やはりそうした入神・感応といった領域ありきで型が構成されてますよね。

 ええ、合気だと思いますよ。手順や動作っていうのは音楽でいう楽譜みたいに渡されますけれど、それを再現するのは現在この状況での一回性の中でという。だから、その通り手順をやってもそれだけでは成り立たない。

 河合隼雄さんの本にありましたけど、ある人が「死にたい」という相談を受けて「じゃあ死ねば」と言ったら、むしろ死ななかったと。で、味を占めて別の人が同じように相談を受けたので同じ対応をしたら今度は死んじゃったっていう。
人によって対応を変えなくてはいけないのに手順だけでやってしまうとそうなるという。

 それに手順でやってしまった時点で、その人自身、一回目とは何かが変わってしまっている。そこを手順とか既得概念の繰り返しではなくその場の瞬間生成に行くんだよ、というのが中国禅以来の禅宗の一つの方向かなと思います。アートの生まれる瞬間というか、瞬間にしか実相がないというか。

 その瞬間に再現性を持たせたり永遠にとどめようとしたりしているのが武術なので、まあ再現性のないものを再現しようとするってことですよね。切り株に兎が走ってきて激突して死にましたと。で、狩人が二匹目がまた来ないかとそこで待つというのは馬鹿だ、というのが故事では笑い話なんですけれど、もう一度その切り株に兎を招く、と考えるのはとても呪術的ですよね。で、図式的には剣で後の先を取るとかは、この切り株の話に近い。二匹目の兎を確実に切り株にぶつけるにはどうすればよいか、と考えている訳で。

 そうですね。確かに。

 そう考えると世の中から見ると非常に馬鹿なことをしている。

 そうですね(笑) 愚か者の矜持を持ってないとやっていけない。逆に言えばそういうテーマをもっているとすれば武術っていうのは終わりのない文化だと思います。再現性のないものの中に再現性を見出していくっていうのは。不可能を可能にすることに挑み続けているので。

 いい話にまとまって対談が終わっちゃいそうですね(笑)

◆一刀と二刀の身体論

 メルマガ拝見していますと、もういいかげん「二刀流使えない論争」に終止符を打つぞ、という。

 いや、別にそんなないですね。放っておけばいいやと思ってます(笑) だって二刀を否定するのは結局やったことのない人だけですから。

 それだけ関心があるという現れかもしれませんね。最初、迫害者として現れた存在が理解者になるという男塾的なパターンもありますし。

 私の理想としてはもう迫害を乗り越えて、というイメージはもっていなくて、最初から止揚、アウフヘーベンしていきたい。使える・使えない論争とか関係ない超克したところでいく。

 まあでも生徒は増えてほしいじゃないですか。で、そういう人たちはイソップ童話のすっぱい葡萄というか「何よ二刀流なんて。わ、私は認めないんですからね!」みたいなツンデレ的に興味が批判の形で出てくる部分もあるのかなと。

 そうですね。興味はあるんだと思いますよ。葡萄食べたい人はけっこういる。そういう人が実際ちょっとやってみようかと思って来てくれれば、良い体験をさせてあげられると思いますけどね。

 戸板に乗せて帰して……。

 そんなことはしないですよ(笑) 実際、twitterとかで書いていることを見てきてくれる人もいるので。単純な話、刀持ってもらえば。二刀流で使う想定の刀って普通の人でも扱えるくらいで、そんなに重くないんですよ。これなら使えるっていう感想が多いんで。

 以前、豪先生が日本の一刀の剣術は剣の中に身を隠す盾術でもあるということを書いていたと思うんですけれど。ある意味、手の延長としての武器ではなく正中線の延長であるという。
私は剣術は専門ではないんですけれど、これは中国拳法的な考え方でいうと一角獣の象形拳なのではないかと。

 ああ、なるほど。日本の剣術っていうのはやはり一刀が主なんですね。二刀は亜種で、二刀から見ても仮想敵は一刀なんで。

 イスラムとかインドでは二刀対二刀もありますね。カリとか。ちょっと話変わっちゃってすいませんけど、あれ、あの型の想定通りの展開になりますか?

 いや、ならないです。

 ですよね。二刀対二刀だと最初の接触の段階で決着してしまって受けて返してのラリーにはならないんじゃないかと思うんですけれど。

 そうですね。綺麗に決着するとすれば最初の一手でつくし、それでつかない場合はごちゃごちゃになってお互い傷だらけになる。今まで実験してやっても大体そうなりますね。
やはり複雑すぎるんですね。二刀対二刀だと自由度も選択肢も多すぎて人間の処理能力を超えてしまう。難しいんですよ。それに対して一刀はひとつに絞ることで関係の論理を抽出して原理化しやすいんですね。なので高度な技術体系や精神性を作るのを促す必然性があった。それが日本剣術の淵源にあったから、それに対する二刀流というものも成立したと思うんですね。

 そういう意味では否定派の人が考える二刀流というのは単に無手の延長として両手に剣をもったものであって、一刀の身体性を獲得した上での二刀流ではないんじゃないでしょうか。

 ああ、そうですね。そもそも武術をやっていない人が考える武術ってテクニックの集積としか考えていないので、そういう視点で見る限りは一刀の意味も二刀の意味も結局、理解は出来てないと思います。それが流派武術化して体系を生み出して、それが武術文化を形成するほどの、抽象性なり、人間の本質的変容を促す機能があるというのは。

◆流派性とはなにか

 その、流派性ということで言いますと、直接、実在流派の名前を出すと角が立つので、漫画の『修羅の門』の陸奥園明流に託して話しますけれど、あれの第弐門が何故つまらなかったのかというと、それこそ園明流って「僕の考えた必殺技」の集合体みたいなもので、流儀、スタイルとして成立してないんですよね。作者にそういう概念がない。

 ああ、ないんでしょうね。そこまでは理解していない。

 たとえば板垣恵介さんの漫画とかですと、空手家の回し蹴りとキックボクサーの回し蹴りは描き分けられているし、空手家の中でも伝統派とフルコンでも描き分けられている。もっというと『刃牙』の神心会の回し蹴りと『飢狼伝』の北辰館の回し蹴りがやはり違うんですね。
「回し蹴り」というのが記号ではなく、この流派における回し蹴りというのはこういう考え方でこういう位置付けなんですよ、というのがある。
そこが修羅の門の場合は描けなくて、じゃあ最終的に何で勝つのかというと「陸奥の血の為せる業」とか「体が打たれ強い」とかで、え? それ、圓明流関係なくない? と思ってしまう。

 それだったら格闘漫画でなくてキャラ漫画になってしまう。やはり流派や個々のキャラクターが特徴をもっていてテーマとテーマの対立という命題があるからこそ面白いんだと思いますけど。

 オリジナル流派を漫画の中で登場させて実在の流派に勝たせてその描写に説得力をもたせるというのは、実際に一つの流派を立ちあげてその優位性を知らしめるのと同じことが出来ないと難しいんじゃないかと。

 本当はそうですね。流派というものを理解した上で、それを越えていく、主人公だけが無思想の流派である、全てを取り入れて全てを超克していくというのなら成立すると思うんですよ。無思想の思想というのもあるので。でもそれには流派性の思想というものをちゃんと理解してないと、それの対比としての無思想も描けないので。

 これは実際の新興流派の陥りやすいところでもありますね。技数や型はいっぱいあるけれど、どういう間合いでどういう手順を踏んで戦うかという戦闘理論がない。

 江戸時代から華法剣法といってそういう批判はされてきたんです。
不思議なことなんですよね。普通に考えると、プリミティブなものが乱雑なテクニックの集積で、それが洗練されてあるスタイルに落ち着いていくはずなんだけれど、日本の剣術史を見ていくと源流ほどテーマが明確で洗練されている。
特に私が注目しているのは、先ほどの話でいう一角獣的身体操作の基となった念流系ですね。日本の剣術は遡っていくと神道流系か念流系に大別されると思うんですけれど、念流はその一角獣的身体操作を必要とする動機と、その方法論がいきなり備わった状態で登場している。そしてその後、多くの流派が現れたりハイブリッドしていくけれど、念流が最初に提示したテーマを無視して成立した流派はないんです。

 それは中国武術だと内家三拳といわれる太極、形意、八卦にも通じますね。これも提示されているテーマは共通で、すごい質量と勢いを持った相撲のぶちかましみたいな突進をどう対処するか、というのがあって、それが最大の脅威だった時代があったんだと思うんですね。それに円を描くか、先んじて一歩自分が早く出るか、螺旋で巻き付いていくかという。
続飯付け(念流の鍔ぜりの技)はあれは太極拳的には粘勁ですね。凄い勢いで突っ込んできた相手の勢いを殺しつつ粘りついていくという。

 ああ、念流も相手の想定としては近いものがありますね。似たテーマだと思います。単純だけど致死性の高い突進攻撃に対処していく。
それは格闘技的な間合いをとって小さく斬り合うというスタイルとはマッチしてないんで、伝統武術はそれでやられちゃうことが多いんですけど、そういう古典的なテーマを踏まえたうえで昇華して対応していくということは不可能ではないと思っているので。

◆意識のメソッドの話・ふたたび

 (技の数ではなく原則が大事という話の流れで)やはり急場に際して人間が出来ることのオプションの数なんて高が知れているという。

 話が最初に戻るのですけれど、そうなると急場で何ができるか以前に、それに対応できる精神状態を作れるか……まあ本当は作るのではなく日常と地続きで、非常心を以って日常を生きるというのが望ましいのでしょうけれど。

 そうですね。難しいですね。それは僕らのやっている剣術のスタイルだとある意味弱点かもしれないですよ。というのは戦国時代の剣術なんで、もともと創り出した人たちは全員クレイジーなんで。

 もうみんなスイッチが最初から入っている。

 だからそういう部分の方法論や体系はないんです。平和ボケした人を見たことがない人たちが作っているから。

 逆に言えば我々がパイオニアとしてやっていく部分はそこなのかもしれませんね。そこのブリッヂを架けるというのが。

 そうですね。現代人ならではのテーマだと思いますね。確かに遊び稽古、遊行から入るというのはあるんですけれど、私は無意味なこととか遊びが好きな反面、剣玉とかジャグリング性のあるものが全然出来ないんですよ。一分もしないで飽きちゃう。

 あ、そうなんですか。

 武器でも軟兵器(縄鏢など)とか苦手で……苦手意識もあるんですけれど、そもそも興味がないというか。

 面白いですね。なんで剣はいいんでしょうね?

 そうですね。剣も役に立つか立たないかでいうと現代の尺度では、立たないんですけれど。うーん、でも剣にしてもいわゆるソードプレイみたいなもんは興味ないんですね。手さばきとかくるくる回したりとかは。

 日本剣術自体、速度と言ったとき、タイミングの早さであって物理的な速さではない、という考え方がありますから、そうなると剣を回したりするのは意味のないものになりますね。しかし、中華剣術だとかなり廻しますよね。
私とかも『拳児』世代ですから華拳繍腿はよろしくない、質実剛健で重厚なものがよい、という刷り込みがあるんですけれど、でも最近、そういう物理的な速さや回転技法を極め尽くした後で否定しているかというとそうではない訳で、あれだけ殺法に合理性を求めてきた中国人が廻してるんだから、まったく意味がないということはないと思うようになってきまして。
タイミング的な早さを理解した上でそういう事も出来るならば……。

 有効だと思いますよ。実戦では。対応しなければいけないという点ですでに後手にまわらざるをえなくなりますし。手を出せない。ただ、日本の剣術がどうして非ジャグリング的な方向に特化していくかというと、ひとつには年をとっても出来るということと、刃物であるとそういう練習自体がそもそも、し難いというのがありますね。

 私としては人がやってない分野をやってアーカイブを充実させるのがこの時代での武術家としての私の役目なのかな、と考えたりするんですが。メインの部分の研究は他の誰かがやってるだろうし。

 あ、そういう業界意識の中での自分の選択っていうのがあるんですか。

 ありますよ。たぶん白桃会は仇花ですので私一代で終わるので、別の形で残すというか。

 後継者は作らないんですか?

 そういう意識できてる人はいないですね。います?

 私のところは古伝の武術なので、一応そういう意識はある人はいると思います。それがどのくらい本当の意識かとか、実際それに到る道筋をたどっているかというのを別とすれば。

 それが難しいのは、やりたがりすぎる人も危ういですよね。本人がやりたいのと適性があるのかは別問題というか。看板やブランドが目的化されてしまって。

 ああ、そうですね。まあ「本当の」ということでいうと難しいですよ。まあ自分が出来ていることや目指していることから見ると後進の人はどうしても未熟に見えるんで。
でも自分も昔の人から見たら、ちゃんと継いでいくほどの意識や技量ではないと言われるでしょうし。だから最初から高い要求はしないように、とは思っていますけれど。

 私にしたって技術や強さでいったら全然もっと上の人はいくらでもいる訳で。でも、いろんな形で武術に貢献は出来るだろうし。この対談もそうですし、世の中に武術をもっと知ってもらうとか。各人が出来ることをやっていけばいいんじゃないかと思うんですけれど、そうなると優先順位としては自分の流派を残す、というのは上がってこない。それよりはあまり省みられていない技術を研究してアーカイブを残すという方に行ってしまう。

 ということは佐山先生個人の武術の探求と、白桃会で教えられている体系は乖離がある?

 乖離はないですね。ある意味、白桃会イズム、スピリッツというのはそういう人が省みないものを掘る、当たり前すぎて見落とされているものを再認識して掘り下げるということなので。

 ああ、乖離がないゆえにむしろ流儀としての伝承には拘らないという。なるほど。
いま、佐山先生が体現しているスタイルをそのまま継承していくということは考えていない?

 とはいっても現実的にはそれを教えるしか出来ないんですけれど、まあ、ジークンドー問題みたいなものですね。ブルース・リーの考え方を受け継ぐコンセプト派と、やっていたことを受け継ぐオリジナル派があるような。結局、思想や考え方を伝えるのにも具体的な技術を介さないと辿り着けない訳で。

 「この流派はスタイルやイズムではなく武術そのものだ」という思想は武術史の初期からずっと現れてはいるんですけれどね。でも結局、スタイルだしイズムなんですね。

 だからやはり、技術体系というよりは精神の状態を一段階上げるということをやっていきたいんですね。もちろん、私自身の好みで単推手的な展開から入っていって崩して倒して極めて、というような手筋はあるし、それを教えているんですけれど、じゃあそれが本質かというとそうではない。
なんでその形に持って行けたかというと、相手のやろうとしていることを察知して未然に抑えている訳で、その見えない攻防、感覚、考え方、意識の方がメインで、そこから先は組技が得意な人なら組技、打撃が得意な人なら打撃で、手順の部分は各々でいいと思うんですよ。

 その意識の作り方にも方法論があると思うんですよ。

 九字を切ったり護摩をたいたり滝に打たれたり(笑)

 その部分は教えてらっしゃるんですか?

 積極的には教えてませんが弟子にはやらせています。卵に顔を描いて立たせたりとか。

 ああ、それは面白いですね。

 卵に書いた顔はある意味、自分自身ですから内面の対象化ですね。それを自立させる。どういう顔の時は立つか、立たないか、で今の自分の状態も推し量れる。
ただ、彼女の場合、それが何の役に立つのかの答えを先に欲しがってしまうし、それで納得しないとやらないので、その時点で功利的な計算が生まれるから行として効果は薄い。
でも、武術や何らかの技芸をやっている人であれば、没我・入神するという感覚はゴルフのパッティングだとか長距離の射撃だとか、見えない領域まで観る分野では、この稽古は同じ感覚に入っていくものだ、というのはおそらく理解されると思います。

 そうですね。

 一般の会員さんに稽古時間中に「じゃあみんなで卵に顔を描いて立てましょう」と言ったら何の練習だコレ? ってなっていなくなっちゃいますけど。
単純に言えば倒立とかでもいいと思いますね。ヨガにもありますけど。特に太極拳的には「押す」と「殴る」、「蹴り」と「足払い」のニュアンスが混ざらないようにする必要があるんですけれど……剣でもありますよね、ガツンとぶつけずにスーッと付ける粘る力の使い方。
あれって、足は地面に対して持続的にそういう使い方をしているので慣れているんですけれど、腕は慣れていない。そこの意識が変わりますよね。

 ああ、なるほど。そういうやりかたがあったか。

 腕立て伏せとかも体を保持することと腕の力を抜いて沈めることと両立していて、そういう相反する要素をもつ運動。あれも前受け身で衝撃を吸収したり、按で人を推す感覚に通じます。突進に対して固くつっぱって受け止めれば弾き飛ばされるし、柔らかいだけでも潰されてしまう。
そう考えると合気上げとかも似てますが、これも技法というよりは知覚と認識の変革の訓練でもありますね。

◆経営論・謝礼論

 今、自分の会の中で試行錯誤している部分があって、伝承武術として教える時間と、そもそもそれを担っていくための身体性や意識の土台作りと……両面必要になってくるんですけれど。

 黒田鉄山先生の振武館とかも最初から型をやっても難しいから遊び稽古から入ったりしてますね。

 そうなんですよ。でも遊び稽古をやっているとそれだけで時間が終わってしまう問題もある。要するに最終的な制限というのは時間なんですよ。

 道場で教えた後で家で自習してくる部分をとればいいのでは。

 でもしてこないですよね(笑)

 してこないですね(笑)

 そこをどうするか。

 本当は「次に来るまでにこれを出来るようにして来てください。出来たら次の事を教えます」でいいのかもしれないですね。

 そうですねえ……。

 ただそう言い切れないのは、我々は生徒自身に生徒を人質に取られているというか、嫌なら辞めろと言って、じゃあ辞めますと言われてしまうと困るので。

 それが健全な関係だと思いますよ。先生が生徒を選べるように生徒が先生を選べるという。

 ただそうすると、あなたに必要な課題はこれだから、これをやるかやらないかしかないです、というときに先生が生徒のご機嫌をうかがうような逆転現象が起きてしまうというか。そこで嫌なら来るな、というスタイルだと経営が破綻してしまうので。

 単純な話、そういうスタイルでやるとしたら私は月謝をはるかに上げると思います。それだけ生徒の時間を拘束するならそれだけ責任を取らないといけない訳で、だったらそれに見合う対価を頂かないといけない。
生徒は与えられた課題がどういう結果に結びつくか知らない状態でそれに取り組むのが前提じゃないですか。それだけの時間をとらせて結果が出なかった、逆効果だった、ということになったらこちらの責任なので。

 結果に対しての責任って負えます? たとえばこの形で素振りを毎日千回してください、と課題を出して次にあったときに、変な癖がついてしまっていた。これは私はその人の責任だし、その失敗した期間も含めて必要な学びにカウントされると思うのですけれど。

 ああ、それはそうだと思いますよ。ただそこにはリスクがあるじゃないですか。生徒の理解度や信頼関係にもよると思いますけれど「ああ、自分は間違ってしまったけど正しいやり方に直してもらってよかった。またやろう」と素直に思えるならいいけれど「先生の指示が悪いから時間を無駄にしてしまった」と思う人もいる。そのリスクを考えると対価を多く取る必要があると考えますね。

 逆に、後者のタイプの人は「こんな大金まで払ったのに役に立たなかった」と逆恨みが増幅されるんじゃないですか?

 そうかもしれないですね。でも、うーん。同時に対価を払っている分一所懸命やるという部分もあると思いますけれど。自分にとっては単純な話、稽古に来ている時間以外は一切関知しませんというのが楽なんで今の月謝でやっている。もし、それ以外の時間も生徒に気を配るコストをかけるなら、三万円とかそれくらいもらわないと仕事としてやっているんで割に合わないということです。

 うーん、我々が今話していることは先生の領域としてはあることなんですけれど、生徒が見聞きしたらどういう感想を持つか見当がつかないですね。その通りだと思うか、そんな意識ではやってないと思うか。

 多分わからないでしょうね。生徒は相互理解がないのが前提ですから。わからないことも含めてこっちがコーディネートしないといけない。

 結果に対して責任を負うとしても、最初の話にあるように、まず死の恐怖や萎縮から解放されるためには遊びのようなところに入っていくこともあるし、武術自体、無為こそが本質みたいなところもある。そういう過程を学んでいる時点では強さは右肩上がりでは上がっていないので、もし襲われたなら習ったことが役に立たないこともある。そういうジレンマもありますよね。

 ええ、だから無限責任ではないと思います。有限責任で。ラインをどこで引くかで。
佐山先生は武術を教えることに責任感というか職業倫理が非常に強いですよね。

 やはり「先生」というのはドクターとかと一緒で生殺与奪に関わっているし、私の場合、責任があるからこそお金はあまり高くとれないというのもあって。

 え、そうなんですか?

 たとえば私が教えた武術で誰かが命を拾うとすると、私は命の恩人になる訳ですけれど、じゃあそのときに幾ら払うのが適正価格だと思います? 命はプライスレスだから金じゃ買えないじゃないですか。

 なるほど(笑)

 だからお金をいくらもらっても釣り合わないことを教えている。その恩はあなたが武術に対して返してほしい、と。だから低価格でやってるんですね。

 全ての生徒さんは武術によって命を救われる可能性を内包しているから、武術に貢献する人間になっていくべきであるという前提がある?

 こちらの意図としてはそうですが、「べき」論で押し付けるんじゃなくて、やっている人が「ああ、なんか武術やってて救われたな」と思ったときに自発的に「武術って素晴らしいな。この素晴らしい文化を伝えていこう」という意識が芽生えるのをじっと待っているだけです。こちらから強要した瞬間に感謝じゃないものになっちゃいますから。

 そうですね。でもそうすると、それまでは佐山先生は純粋に贈与し続けるという。

 ええ、持っている側がカードをどんどん切っていくしかないので、見返りを求めないという関係ですね。

 それをこの現代社会のギブアンドテイクの中で一人で達成していくのは難しいですね。他はそういう贈与経済で動いてないから。

 まあ100個タネをまいてひとつ芽が出るか……でも、私自身がそういうタネの一つだったので、太極拳に関しては完全に無償で教わっているんですよ。深夜にマンツーマンで風雪の中、老骨に鞭打って教えてもらって。
だからむしろお金取るのは後ろめたい気持ちもあるけれど、無料にすると、無料だから習うというなめた人が来るんで。ドラネコ商会時代は無料だったんですけどやはりサークル感覚でなめた感じになる人が出てきちゃったんで、遊びじゃないんだよ、というけじめとして頂くようにしてます。

 なるほど。結局、仕事観なんですね。私は仕事としてやっていきたいんで。

 私もそうですよ。私個人も食っていきたいですけど、武術で食えるというモデルケースを提示していかないといけないと思うので。
ただ、指導料で食う必要もないのかな、と。豪先生もDVDを出されましたけど、そういうものとか執筆とかで食えるなら、お金がないけど熱意のある人とか若者に対しては無料で教えたいという気持ちもあります。

 それは私もそうしたいですね。今は難しいですけれど。

 いやー、お金の話はあまり良い趣味じゃないという風潮がありますけれど、武術の在り方を考える上では結構、本質ですよね。

 だと思いますよ。どういう風に対価をいただくかというのが、教え方や人間関係にもつながってくると思うし技術論にもつながっていくと思います。

 私はサービスの対価、ビジネスではなくて「謝して礼する」謝礼だと思っています。極論をいうと、先に教えるだけ教えて、生徒に適正価格を自分で判断してもらってもいいと思う。

 僕はそれやったことあったんですよ。三か月間、完全に自由裁量制で、封筒を置いておくから好きな額を入れてくださいと。他の人と相談しないで。

 談合して入札しちゃうから。

 ええ、でもやはり成立しませんでした。最初のひと月はそれまでと同じくらいの額が入ってました。で、次の二カ月は、ある人が聞いてないのに「私これだけ払いました」って言っちゃったので分かったんですけれど、その人しか払ってませんでした。

 うわあ……聞きたくない、そんな話。

 ああ、この人たちはまだ、自分たちが価値があると思って来ているはずのものに対して自分から謝礼を払うという文化がまだ難しいんだな、と。
謝礼という文化が成立するか実験的な意味でやります、という趣旨だったんですけれど、結果がそうだったのですみません、戻しますと。
自分で値段をつけろというのがストレスなんですね。五千円でも一万円でもいいから。でもそういう在り方自体を超克したいから、説明した上でやったんですけどね。

 ひとりづつネックハンギングツリーでシメてくしかないですね。それは……。

(ひどい話のところでおわり)

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