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お気楽中華でつかまえて

ある休日のお昼時、私は家の近所にある中華料理屋さんを訪れました。

そのお店はお気楽な性格のマスターが一人で切り盛りをする、とても小さな中華料理屋さんです。

そのお気楽な性格故に、営業中にも関わらず大きなあくびが聞こえてくることもありますが、いつもとっても美味しい中華料理を作ってくれます。

特に五目あんかけ焼きそばは絶品です。
何回食べても飽きることはありません。

しかし、今日の私は新しいメニューに挑戦すると心に決めていました。

新年度も始まったことですし、心機一転、以前から気になっていた特製醤油ラーメンに挑戦してみようと思ったのです。

お店に到着し、相変わらず故障したままの自動ドアを手でこじ開けて中に入っていくと、その日は珍しく店内がとても賑わっていました。

どうやら春の訪れとともに、近所のマダム達が美味しい中華料理を求めて押しかけてきたようです。

いつものお気楽な雰囲気とは違い、真剣な顔をしてテキパキと仕事をこなすマスターを横目に、私は空いている席に座りました。

私は今日はラーメンを食べると決めていたので、メニューに目を通すこともなく、マスターがおしぼりを持ってきてくれたタイミングで生ビールと特製ラーメンを注文します。

すると、よくこのお店のインスタグラムに「昼飲み大歓迎」と投稿されているだけあって、忙しい中でも真っ先にビールを持って来てくれました。

私はよく冷えたビールを飲みながら、いつもとは雰囲気の違うマスターをそれとはなしに眺めていました。

すると料理から配膳、注文までをも一人でこなすマスターの身のこなしは、そのぽっちゃりとした見た目からは想像できないほど軽やかでした。

私は営業中でも構わず大あくびをしているマスターの姿を懐かしく思いながらも、今日のマスターは一味も二味も違うなと感心していました。

すると、あっという間にラーメンが運ばれてきます。

「お待たせ致しました、特製醤油ラーメンでございます」

それは見るからに美味しそうなラーメンでした。

丁寧にダシが取られたのが一目でわかるような、透き通った琥珀色のスープ。
そのスープに気持ちよさそうに浸かる黄金色の中細ストレート麺。
彩りを添えるようにそっと配置された青菜。
いかにも柔らかそうな自家製チャーシュー。

余分な要素をいっさい削ぎ落とし、シンプルという美を追求したそのラーメンの姿は、まるで禅寺の庭のようでありました。

私はゆっくりと蓮華レンゲを手に取り、スープを一口飲み下しました。

「あぁ、沁みる」

鶏ガラと香味野菜の慈悲深い旨味が私の乾いた心を潤していきます。

「うんうん、好きな感じだ」と一人頷き、いざ麺をすすろうとしたその瞬間、どこか懐かしい風味が私の鼻の奥辺りをすっと通り抜けていくのを感じました。

それは決して嫌な風味ではありません。
むしろとても心地の良いものでした。

しかしあまりにも唐突で、刹那のごとく短い一瞬の出来事だったために、私はその風味の正体を掴みきれないまま見失ってしまいました。

「あっ、なんだっけこの風味。絶対食べたことあやつなんだけどな」

私はそう心で呟くと、その正体を確かめるべく再びスープを口にしてみたのですが、そこにはもう先程のあの風味を感じることはできませんでした。

私はただの気のせいかもしれないなと気をとり直し、とにかく今はラーメンを味わうことだけに専念することにしました。

すると、それは予想していた通りとても美味しいラーメンでした。

やや細めのストレート麺は澄んだスープを適度に絡め、そのツルツルとした食感を生かし私の食道を滑り落ちていきます。

さらにそこに追い打ちをかけるかのように、生姜とニンニクの効いた青菜が再びビールの波を呼び起こすと、アンデス高原豚を使って作られたという自家製チャーシューが揺るぎない大地の如く、力強い肉の脂と旨味でもって私の口の中を満たしました。

「あぁ、うまい」

私は思わずそう口に出しました。

ラーメンを構成する一つ一つの要素に、マスターの料理に対する強いリスペクトが感じられ、私はお腹の中から身体中が幸福で満たされていくのを感じていました。

すると次の瞬間、再びあの風味が私を襲いました。

「やっぱりこのスープには何かある」

そう確信した私は再びスープを蓮華ですくい口に含むと、全神経を鼻の奥あたりに集中させてからゆっくりと飲み下しました。

すると、その謎の風味は私の喉の奥からゆらゆらと立ち上り、するりと鼻の穴を通り抜けて外へ脱出しようしていたのです。

私はここで逃してたまるものかと、その風味の尻尾のあたりを力強く握りしめ、慎重に少しずつ少しずつこちら側へと手繰り寄せていきました。

するとその謎の風味は、とても強い旨味をもった成分であることが判明したのです。

「この強い旨味成分はいったいなんだろう。グルタミン酸か、それともアミノ酸か」

私は再び体中の感覚を鼻の奥に全集中させます。

「わかったぞ、これはグアニル酸だ。ということは、まさか…」

次の瞬間、私の頭の中で全ての点と点が一本の線でつながり、それと同時になぜか後光が差し込んだマスターの顔が頭をよぎりました。

私は残りのラーメンをあっという間に平らげてしまうと、すぐに席を立ちレジへと向かいました。

そしてお会計を済ませマスターに訪ねます。

「ラーメンのスープに椎茸を使っていましたか」

興奮する私とは対照的に、落ち着きを払い穏やかな表情でマスターはさらりと答えました。

「スープの味付けに使う醤油に、椎茸の香りを少々まとわせています」と。

私はそれを聞いて、自分の味覚が間違っていなかったことに少し安堵するとともに、やはりこの男ただのお気楽店主ではないなと、改めてマスターの奥深さに魅了されるのでした。

帰り道、心地良い春の陽気に誘われて近所の川沿いを散歩しながら帰っていると、先ほど飲んだビールの炭酸ガスとともに、椎茸の香りがふわりと胃の奥から込み上げてきました。

すると次の瞬間、生暖かい春の風がさっとふき抜けて、その風味を空高くへと舞い上がらせました。

私はそれにつられるようにして空を見上げます。

すると、そこでは白いふわふわな雲がゆっくりと、その姿を絶えず変化させながら、ゆらりゆらりと漂っているのでした。

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